第五部 海の上の近江商人

第十三章その1 彦根藩からの依頼

 新年を迎えしばらくが経ち、正月気分も完全に抜けきった頃だった。


 雪は降らずとも八幡の町は手先が凍り付きそうな寒さに包まれ、辛抱強い修行僧も身悶えしながら足早に通りを歩いていた。


 そんな屋外には行き交う人影も疎らな一方、白石屋の店内は大人から子供まで身分を問わず多くの客がごった返していた。


「おみくじ煎餅、ちょうだい!」


「僕も!」


「ワシも!」


 小銭を高々と上げて見せつけながら口々に叫ぶ客たち。ここだけはまるで魚市場のセリ会場のような熱気だった。


「はいはい、ちょっと待っててね!」


 彼らの声を後押しに、巨大な鉄板を前に葛さんが忙しく煎餅を焼く。先日完成したばかりのこの鉄板は所々窪みが穿たれており、握り飯のような三角形に膨らんだ煎餅を焼くのに非常に適した構造をしていた。


 浅草の煎餅焼きである茜さんのレシピは八幡の人々の口にもよく合い、その美味しさからリピーターが続出した。さらに中から小さな玩具が出てくるという奇抜なアイデアが大ウケし、おみくじ煎餅は売り出すなり大ヒット商品となったのだった。


 売り上げを伸ばしている商品はそれだけではない。


「『寝返り白黒』を取りに来たよ。孫が7つになったんで買い与えたいんだ」


 老人の要望に手代の若者が応え、碁盤のような木製の台と両面を白黒で塗り分けた石を詰めた箱を差し出す。


 俺は現代からアイデアを拝借し、リバーシを『寝返り白黒』の名で売ることにした。随分と長ったらしくなってしまったが、ここは許してほしい。


 実際に英語名のリバーシ(Reversi)は反転という意味であるし、商標である有名な方の呼び名はシェイクスピアの超有名戯曲から持ってきてるのだから。


 ひとつ作るにも時間がかかるので生産数はまだまだ少ないが、既に予約も多数受け付けているので滑り出しは上々だろう。いずれは白石屋の看板商品になるかもしれない。


「いやあ、葛さんは働く姿も様になっているねぇ」


 桶一杯に入れた小麦粉を運びながら、大津代官から派遣されている大本さんがデレデレと鼻の下を伸ばす。。


 彼は仕事をさぼって葛さんの煎餅作りの手伝いをしていた。


「あらあら、まるで私が普段働いていないような口ぶりじゃない」


「いえいえいえ、決してそういうわけでは!」


 うろたえる大本さんを横目に、葛さんは焼けたばかりの煎餅を客に渡す。


「あの2人がもう一歩、踏み出すのはいつのことになりますかねえ」


 そんな賑わう店内の奥座敷で、医者の出水宗仁さんと俺は茶を飲んでいた。今年の伊吹もぐさの生産量について話し合っていたのがちょうど一息ついたところだ。


「武士と町人という身分の違いはありますが、葛さんがどこかの武家の養子になればすぐにでも婚姻は可能です。おふたりとも良い歳ですし、何よりお似合いです」


「そうでございますね……私もそれがよろしいかと存じ上げます」


 ギクシャクとした受け答えの俺に、宗仁さんは呆れたようにため息を吐く。


「栄三郎さんもいい加減覚悟を決めてはどうです? この店を継ぐのは最初から決心しておられたのでしょう?」


「それはそうなんですけれども……でも結婚のことまでは全く考えていなくって」


 あの会合からというもの、湖春ちゃんと俺はどうも普通に話ができないようになっていた。まさかまさか湖春ちゃんとの結婚話が浮上するなんてこれっぽっちも考えていなかったのに、不意討ちを食らってしまった。


 下手に意識してしまうせいで会話がぎこちなく、事務的な単語しかやり取りできない。食事の時も互いに顔を伏せたまま無言で済ませてしまうのだ。


 おかげで店の者たちからもひそひそ話されるわ良からぬ噂も立つわで散々な目に遭っている。


「湖春ちゃんはまだ16です。武家ならばそろそろ嫁入りも考える年頃でしょうが、まあ商人ですので20になってからでも遅くはありません。そこまで経てば自然と心構えも出来上がっているというものですよ」


 湖春ちゃんがお使いに出ているからと思ってか宗仁さんが笑って言ってのけるが、俺たちにとっては一大事だ!


 何か言い返してやろうと口を開いたその時だった。


「失礼つかまつる」


 客たちの騒ぎ声も一瞬で黙らせる野太い声が店内に響き、大柄な武士が暖簾を払いのけて現れたのだった。


 彦根藩の剣豪、山根由房さんだ。


 平時から鬼瓦のような顔をしているおかげで店のお客さんたちは静まりたじろいでしまったものの、話してみれば生真面目で穏やかな人となりを知っている俺は土間に降りて客を掻き分ける。


「山根さん、どうされたのですか?」


 山根さんは軽く一礼すると、その厳つい顔つきを弛めた。


「実は本日、彦根藩より白石屋に頼みたいことがあって馳せ参じたのでござる」




「ええ、福岡藩から!?」


 俺と宗仁さんは山根さんを座敷に招き入れていた。


「うむ、福岡藩の藩主である黒田くろだ綱政つなまさ様のお身体がここ最近優れぬらしい。そこで医学に詳しい者が反本丸へんぽんがんを食されよと申したそうで、我ら彦根藩に反本丸を売ってほしいと依頼が来たのだ」


 山根さんが頷く。福岡藩とはご存じ福岡県に存在した藩で、今も昔も九州地方の中心地だ。


「福岡藩は九州の盟主、我らとしても友好的な関係を築いておくに超したことはない。そこで白石屋には反本丸を届けてもらいたいのだ。この厳冬の季節、数日なら肉も腐らないだろう」


 そう言いながら山根さんは書状を懐から取り出した。彦根藩主井伊家の判が押されたそれは、俺たち白石屋への依頼文だった。


 ただ相手が相手だけに無下に断ることはできない。これはほとんど命令も同様だった。


「福岡までどれくらいの日数がかかります?」


 隣の宗仁さんにそっと尋ねる。


「瀬戸内海を通り、何も無ければ3、4日。ですが海が荒れれば1週間足止めを食らうことも」


 小声で宗仁さんが答えるなり、俺は腕を組んで考え込んだ。


 やはり海のルートは不安定か。これは飛脚に走らせた方が確実かもしれない。


「いかがですかな? 運送にかかる費用は彦根藩が負担しよう」


 山根さんが大きな顔をぐいっと近付ける。


 うーん、もう少ししたら江戸支店の開店準備のために、また江戸に行こうとも思っていたのだが。


 そんな風に決めかねている俺の隣で、宗仁さんが不意に尋ねた。


「ところで、その福岡藩の医学に詳しい方の名前というのは分かりますか?」


「ええと、何だったかな。貝……なんとかという者だ」


「もしかして、貝原益軒かいばらえきけん殿では?」


「おおそうだそうだ、そんな名前だった!」


 山根さんが手を打つ。


 ほぼ同時に宗仁さんが立ち上がり、俺が驚愕した。


「やっぱり、貝原先生のことだったのですね!」


「ええ、あの貝原益軒!?」


 見事なシンクロ。そして互いに驚いた顔を向かい合わせて絶句する。


「おふたりとも、お知合いですか?」


 首を傾げる山根さんに、宗仁さんと俺は口々に答えた。


「ええ、本草学の大家で、私の師匠のような方です。10年ほど前に教えを被っていました」


「ええ、大学の教育史で……いえいえ、高名な儒学者であるとお聞きしています」


「良かった。先生の名声はサブさんの耳にも届いているのですね」


 にこやかに微笑む宗仁さんだが、俺は密かに胸踊らせていた。


 貝原益軒は儒学者であり本草学者であり、つまりはこの時代の重要な知識人の一人だ。


 小難しい話ばかりだった学術書を民衆にも広められるよう平易な表現に改めて出版したという功績は、日本教育史において重要な出来事に数えられている。


 教育学を専攻する学生にとってなじみ深い人物なのだ。


「栄三郎さん、私からもお願いします。是非とも福岡藩にご出立ください」


 宗仁さんも軽く頭を下げる。


 まさか大学の授業で習った人物とこんなところで接点ができるなんて。有名スポーツ選手に会える時のような興奮を俺は感じていた。


 それに彦根藩も少なくとも反本丸分の費用は負担してくれると聞いているし、同時に別の商品も売り込めるなら効率が良い。うまくいけば九州にも販路を拡大できるチャンスだ。


「はい、是非ともお任せください!」


 俺は鳴り止まぬ鼓動を落ち着かせるように、ドンと胸を叩いて返した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る