第十四章その1 恩師との再会
「貝原先生、お久しぶりです!」
「宗仁、久しぶりじゃなぁ!」
白髪に長い眉毛の小柄な老人が玄関から飛び出す。その見た目から既に高齢であろうが、足取りは若武者のように軽かった。
福岡城にほど近い武家屋敷群の一角に、宗仁さんの恩師にして福岡藩藩医の
さすがは名門黒田家、その藩士の邸宅も広く立派な造りであったが、内装は肩透かしを食らうほど質素だった。華美な彫刻や襖絵は最低限に抑え、ただ広々とした座敷や板の間が続いている。
この屋敷は藩の人間ならば身分を問わず、病になれば駆け込めるようにいつでも開放しているらしい。
「こちらは今お世話になっている白石屋の皆様です。で、こちらが店主の栄三郎さんでございます」
宗仁さんに続いて俺たち白石屋店主と従業員一行は座敷に並んで座った。
福岡藩から正式に商売の許可が降りるにはまだ数日時間がかかる。それまでの間、白石屋の面々はせっかくなので福岡の各地を観光して回ることにしたのだった。
そして大老との対話を終えたこの日、俺たちは宗仁さんのかつての師である貝原益軒先生の家にお邪魔していた。
久々の再会がよほど嬉しいのだろう、いつもにこやかな宗仁さんだが、今日は最早浮かれているような顔つきになっていた。
「貝原先生、お初お目にかかります」
俺は目の前の老人に頭を下げる。老人の背には床の間の代わりに天井まで届く高さの薬棚が置かれ、床にも薬を砕くための臼や乳鉢、そして大量の書物が散乱していた。
極彩色の屏風や掛け軸よりも、むしろこちらの方がある種の気品を放っているようにさえ思えた。
「どうもよろしく。まあ気楽にくつろいでおくれ」
着ている服も高価なものではなく、何十年も修繕を重ねて使い続けているような年季の入り具合だ。清貧な宗仁さんの師と言われれば、誰であれ納得せざるを得ない。
「本当に、宗仁さんはうちの店に無くてはならないお方です。これも貝原先生のおかげです、私からもお礼を言わせてください」
大学で習った偉大なる儒学者を前に、俺は変に固くなっていた。
だが当の貝原益軒先生は至ってフランクに笑って返すのだった。
「なんてことはない、宗仁はわしがいなくとも伊吹もぐさを編み出しておっただろう。昔から宗仁の才覚は人一倍優れておった」
師匠の褒め言葉を聞いて宗仁さんは照れ臭そうに口を挟む。
「そんな、先生のご教授がなければ今の私はありません。本草学だけでなく、算術や朱子学を先生のご友人を通して身に付けさせていただきましたのに」
「算術!?」
突然声を上げたのは丁稚の吉松だった。手代に混じって座っていたところ、急に立ち上がったので周りの若者は皆驚いていた。
「うん、どうしたんじゃ。算術が気になるかい?」
貝原先生は目を輝かせる吉松をまじまじと見つめる。
吉松は何度も頷いた。
「はい、私も算術についてもっと知りたき所存であります」
「こら吉松!」
俺は声を張り上げて叱責する。
だがそんな俺の怒鳴り声も掻き消してしまうように、先生は感心したとでも言いたげに笑うのだった。
「ほっほっほ、それならば後で講座を開こう。ちょうど出たばかりの算術書があるのでな。お前の目は昔の宗仁と同じ、学問を志す目じゃ」
「ですが……」
「なあに、減るものでもないし、かまわんかまわん。知りたいものがある時、人は最も力を発揮する。吉松君にとってそれはきっと今なのじゃろう」
やはりこの人は宗仁さんの師匠だった。おおらかにして知を尊ぶ姿勢は、弟子にも確実に受け継がれている。
その後俺たちはしばし談笑していたが、ふと薬棚の上に巨大な猿の腰掛けが置かれているのを見て、思わず口にしてしまったのだった
「それにしても種類が豊富ですね。よくこんなにたくさんの薬が手に入りますね」
「ここは長崎にも近いからのう。
そういえば長崎はこの鎖国体制下で唯一海外との貿易を行っている町だった。地理的に近い福岡に、外国の産物が大いにもたらされるのも当然といえば当然か。
ふと思い出してみると、近江には海外との貿易事業に携わる商人はいないのではないか?
かつては白石屋のように海外へ進出していた近江商人も数多くいたそうだが、江戸時代に入って外国との貿易が制限されるとそれは長崎商人の占有事業となってしまった。
そこで近江商人は北前船など国内の商売に活路を見出だし、日本各地で産業を振興させることになる。
もしかしたら、九州には畿内にも江戸にも無い、珍しい外国の品が眠っているかもしれない!
「貝原先生、その商人の方は、まだ福岡におられますか?」
商売拡大のチャンス!
俺はすかさず尋ねた。
「ああ、今日は博多の宿に泊まると言っておったよ」
ちょうど宗仁さんとの昔話に夢中であった貝原先生は即答した。
これはラッキー、もしかしたら長崎貿易にもうまく食い込めるかもしれない。
夕方、俺は言われた通りの宿を訪ねた。
博多は古代より開かれた港であり、今も昔もひっきりなしに船が出入りしている。
そんな船乗りたちを休ませるため、この町は宿に食堂に遊郭にと、昼も夜もなく賑わっていた。
「あんたが近江の白石屋さんかい?」
宿の女将に案内された座敷では、40歳ほどの男がふたりの遊女を侍らせて酒を飲んでいた。
この人が貝原先生に薬種を届けている
挨拶を済ませた俺は男と遊女たち、合わせて6つの瞳に見つめられながら座敷に座り込む。
「わざわざこんな所まで来られるとは、いかなるご用かな?」
口調は丁寧だが、その態度は完全に上からのそれだ。少なくとも近江にはこのような商人はいなかった。
「率直にお願い申し上げます。我ら白石屋にも異国との貿易を手伝わせていただきたいのです」
小細工は一切しない。何の捻りも加えること無く、俺はストレートに頼み込んだ。
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