第四章その3 牛飼い庄屋
後日、再び彦根を訪れた俺は町外れの山裾に邸宅を構える庄屋の下を訪れていた。
牛舎を備え百人以上の小作人を従えるというこの屋敷には高い塀と武家屋敷と見まごう門が築かれ、その財産を守っている。
だが実際に会ってみると、この家の主は意外と気さくな初老の男だった。
「ええ、うちの
さすがは周辺一の大豪農、
赤とんぼ止まる鹿脅しの音を聞きながら、座敷に通された俺と白石屋の店主は庄屋の男と向かい合っていた。
「どうぞ」
そこに庄屋の娘の千代乃ちゃんが淹れたてのお茶を持って静かに現れる。
先日取り寄せたばかりの秋色のちりめんを纏った少女は一面のもみじの中でさえ咲き誇る一本の花のように、慎ましやかにも存在感を放っていた。
「お美しいお嬢さんですな」
「ええ、うちの自慢の娘です。嫁に出すのが惜しいくらいで」
千代乃ちゃんが部屋を出てから白石屋の店主が言うと、庄屋は声を出して笑った。
「さて、本日はどういった御用で?」
「はい、先日この栄三郎の受け取りました反本丸、この上無き美味にありました。使用人含め白石屋一同、感激して平らげてしまいました」
店主の言葉に庄屋の顔は緩む。
「それは良かった。我が家では藩より許可を受けた何十年も前から、余った肉をどう使うべきか頭を悩ませ続けていました。ある時味噌漬けにしてしまえと思い切って作ってみたのが大いに好評でして、以来あの味を守り続けています。今は千代乃がうちの家内よりその方法を伝授されております」
「長い歴史で培われてきたのですな。そこで私たち白石屋は庄屋さんの味にほれ込みました。どうでしょう、販路は我々が整えますので、あの反本丸をより広くに名を轟かせませんか?」
途端、とろけていた庄屋の顔が険しくつり上がった。
あまりの変わりように、俺はほんの少しすくみ上ってしまった。
「それはつまりあの反本丸を大々的に売り込もうと、そういう魂胆ですか?」
庄屋は深く、探るように尋ねた。
伊吹もぐさという新たな収入源を得たとしても、艾の在庫は宗仁さんが作っていた量以上には確保できず、大幅な増収は来年以降宗仁さんの指導で大量に作るのを待つしかない。
俺たちは新たな取り扱い品目を探す必要があった。ここで引き下がるものかと俺も加勢する。
「決して大々的には販売いたしません、諸侯など限られた方だけに――」
「申し訳ありませんがお引き取りください」
だが俺の話を聞くつもりなど鼻から無きが如く、庄屋は目を逸らした。
「将軍様のお触れで獣への保護の求められるこの時世、牛を屠殺する我々の形見は狭くなる一方です。そこに加えて肉を食用に売りつけるとなれば、いつ捕らえられるかわかったものではありません」
「いえ、藩からの許可を――」
「お引き取りください!」
その剣幕に俺たちは言い返すことはできなかった。
今日はこれ以上続けても絶対に話は進まないと確信し、俺と店主は屋敷を後にした。
「取りつく島もありませんでしたね」
広大な田園を貫く一本道を並んで歩きながら、俺は店主にぼそっと漏らした。
「仕方ありません、あれだけの美味です、今まで多くの商人が訪れてきっと追い返されたのでしょう。何も私たちが初めてのはずがありません」
店主の言葉に俺も深くため息を吐く。
せっかくあれこれと言いくるめる方法を考えてきたのに、それを使う隙さえ与えてくれなかった。
でもよく考えてみればあんな金脈、放っておくわけが無いよな。それが今までほとんど彦根より外に知られていないということは、あの庄屋がずっと断り続けてきたのだろう。
「おおい、待ってくれ!」
突如呼び止められた俺たちは振り返る。
今まで歩いてきた田んぼ道を、小太りな男がこちらに向かって走ってきている。
足が丸出しな丈の短い着物を着て一見ごろつきのようだが、衣服はぴしっと糊がかけられ清潔だった。
そんな男が息を切らしながら俺たちの前で立ち止まると、そのきらきらと輝く目をこちらに向けた。
俺は店主を背で守るように前に出た。
「床下で話は聞かせてもらった。反本丸を売り込むって話、俺は賛成だ。協力するぜ」
床下で? こいつ盗み聞きしてたのか?
「あなたは一体?」
じっと男の一挙手一投足を見つめながら、俺は尋ねた。
男は汗を拭ってにかっと笑う。
「俺は
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