第九章その3 臨終
「もう少しで完成だ!」
光琳さんに見守られながら誠蔵さんは、寸分の狂いなく漆を塗る。
光琳さんの描いた金粉の蒔絵が剥がれないよう上から薄く漆を重ねているのだが、ムラ無く均一に塗るには相当の熟達が必要とされる。
「楽しみですね」
俺も一緒になってその様子を見るが、光琳さんはしかめ面で頭を掻くのだった。
「なんだか楽しそうじゃないなぁ。どうしたんだ?」
「いえ、完成が楽しみすぎて嬉しすぎて……どう喜べばよいのかわからないだけですよ」
苦しくも誤魔化す。日野椀の完成が楽しみなのは事実だが、それ以上の心配事があってどうにも落ち着かなかったのだ。
先日、白石屋で店主さんの遺書を読んだ時のことだった。
店主さんは言うことの利かない身体を無理矢理に起こし、俺にこう頼み込んだ。
「私のいなくなった後は……サブさん、この店をよろしくお願いします」
「そんな、私のような者に。荷が重すぎます」
あまりに突然のことに俺は一度は断ってしまった。
ほんの数ヶ月だが店主さんの傍で働いたとはいえ、まだまだ知らないことは多い。それに俺は立場上はあくまでも新参の見習いで、経験なら最近入ってきた手代たちにも劣る。
俺一人で白石屋を担うのはプレッシャーがあまりに大きすぎた。
「いえ、あなたはどんな人の心の隙間にも容易に入っていかれる。それは商人にとって欲しても得られぬ天賦の才、あなたほど商人に相応しい方は滅多におられません」
店主さんはがくがくと震えながらも、しっかりとその身体を支える。
「お願いです、どうかこの店を守ってください。あなたならこの店を建て直す……いや、それどころかこの日本で名を馳せる大商人にもなれましょう。かつて栄華を極めながらも私たちの至らなさゆえに落ちてしまったこの白石屋を、栄三郎さんなら再び世に知らしめてくれましょう」
店主さんは深く頭を下げた。
正直、自分が認められて嬉しいのは事実だ。しかしいくらおだてられても、そこまでの自信はまだ持てていない。バイトリーダーとして仲間たちと面白おかしく過ごしていたのとはわけが違う。
だが……この朦朧としながらも最後の力を振り絞る店主の頼みを断れるほど俺は非情ではない。そもそも俺がこの時代にやって来たのはこの白石屋を立て直すよう比売神様に頼まれたからだ。こうなることはある意味必然で、今までこの瞬間を俺の方から遠ざけ続けていたのかもしれない。
俺は覚悟を決めた。
「わかりました……どこまでできるかはわかりませんが、精いっぱい手は尽くします!」
「よし、終わったー!」
「やりましたね、誠蔵さん」
最後の椀を塗り終え、光琳さんと誠蔵さんがそろって背中から大の字で倒れ込む。
「いえ、光琳さんがいなくてはここまでの物はできませんでしたよ」
達成感と喜びで互いに強く手を握り合った。芸術家と職人という我の強い者同士だが、互いの技術を認め合い協働して作り上げたことですっかり戦友のような仲になっていた。
あとは数日間、漆を乾燥させれば完成だ。
「この模様を考案者である光琳さんと白石屋さん、そして日野の商人で分かち合いましょう。これだけの布陣でさらに紀州徳川家からの後押しもあれば、江戸でも大繫盛間違いありません」
完成の瞬間を見届けに工房まで来ていた大葦屋の店主も小さく拍手を送る。取り分についてはあらかじめ話し合った通りで、恨みっこなしの分配を既に決めているので気が楽なようだ。
「あとは売り出すだけですね。本当に白石屋さんにはお世話になりましたよ」
にっと笑う店主に俺も「こちらこそ」と頭を下げた。
「ところで……店主さんの容態はいかがです?」
店主の声色が変わる。日野椀作りに集中してもらうよう詳しくは話していなかったが、病にかかっていることはとっくに見透かされていたようだ。
「正直なところ、芳しくありません。医者が薬を用意してくれているのでなんとか持ちこたえてはいますが、この神無月は乗り越えられないでしょう」
今さら隠す必要もないと、俺は正直に答える。だがこれを口にすることのいかに辛いことか。
「そうですか……惜しい話だ、あのような善良な方が早くに亡くなられるなんて」
店主も、誠蔵さんも、そして光琳さんも黙りこんだ。彼らも口にはしなかったが、皆店主さんの身体を気にかけていた。
その沈黙を破ったのは大葦屋の店主だった。
「完成すればすぐにそちらにお見せするようお届けします。どうか栄三郎さんは白石屋にお戻りください。残された時間は長くありません。一日でも長く、店の者と過ごせるよう心遣いを」
「大葦屋さん、ありがとうございます」
「はあ、はあ」
「お父ちゃん、しっかり!」
多くの人々に見守られながら、激しく息を切らす白石屋の店主さんの手を湖春ちゃんが握りしめて懇願する。涙がぼろぼろと溢れ落ち、畳を濡らす。
もう片方の手は宗仁さんが脈を調べるために握っているが、それ以上のことは何もしない。いや、正確にはこれ以上は何もできないのだ。
今日で最後か。誰が言うまでもなく皆それを理解していた。
「店主さん、どうかこの反本丸を一口でもいいから食べてくれ!」
彦根から牛飼い庄屋の段平と千代乃の兄妹も駆けつけていた。だが店主さんは顔を歪めながらも微笑みを向けるのだった。
「ありがたいのですが……もう粥さえも喉を通りません。ふふ、死ぬ前には最後に一口食べたいのが本望ですが、残念なものです」
「旦那様、いやだ、まだ教えてもらっていないことはたくさんあるのですよ!」
耐えきれず丁稚の吉松が泣き叫びながら店主さんの布団に覆い被さる。まだ幼い彼にとって、店主さんは主人であると同時に父親のような存在でもあった。
「吉松、離れなさい! 旦那様が苦しんでおられます」
葛さんがしがみつく吉松を引き剥がす。だが彼女の目も赤く染まり、普段決して見せることの無い涙で潤んでいた。
「はは、気にするな……どちらにせよもう……長くはありませんから」
こんな時にも軽口を叩く店主さんに、俺が「そんな縁起でもない」と返す。
だが店主さんは首を2度、横に振った。
「いえ、わかっていますよ、今日が峠です。ですが……私にはもう越せるだけの余力はありません」
「お父ちゃん、バカ言わないで!」
「湖春、私が不甲斐ないばかりに、お前には迷惑ばかりかけたな。それを許してほしい」
「許してって、何をそんな謝る必要があるのよ! お父ちゃんはこの私を育ててくれて、ずっと店を守ってくれたじゃない! 今まで店が何度も潰れそうになっても、あちこちに頭を下げて回ってくれたのはお父ちゃんだったじゃないの!」
相変わらずわんわんと泣き叫ぶ湖春ちゃんは、ついに父親の手を放してその身体に泣きついた。
そんな娘にそっと手を回し、父は優しく頭を撫でるのだった。
「私は大将の器ではありませんでした。できたのは頭を下げることただそれだけ」
「いいえ、店主さん、あなただからこそここにこれだけの人が集まっておられるのですよ」
堪りかね、俺も口を開く。息を荒げながらも俺に向けられた店主さんの顔は、驚きの相を浮かべていた。
「白石屋が幾度となく危機に陥っても、いつもあなたがいたから踏み留まることができた。ひとえに店主さんのお人柄を皆が慕ったからです。あなたはこの白石屋にこういった人々のつながりという大きな足跡を残してこられたのです」
俺は部屋をぐるりと見回す。
丁稚に手代、女中に商売のお得意先。八幡の他の商家、寺社の僧に親交のあった役人まで。
皆危篤の報せを聞いて駆けつけた者たちだ。見返りも何も求めず、店主さんを慕って集まった人たちだった。
こういった人々の助けを得られたのも、ひとえに店主さんの人柄あってのものだった。
「はは、それは良かった。私は今まで先祖代々の資産を食い潰してきてばかりだと……」
ついに店主さんの目からも汗に混じって涙の大粒がひとつ、ほろりとこぼれる。
その時だった。「できたぞ!」と勇ましい声とともに、白石屋の戸が勢い良く開かれたのだ。
現れたのは大葦屋の店主、それに光琳さんと誠蔵さんだった。その手には美しい艶と金に輝く蒔絵の椀が握られていた。
乾燥の工程も終わり、本当に完成させたばかりの作品をいの一番に白石屋まで見せに来たのだった。
「やった、ほら、見てください! 光琳さんの……紀州徳川家の日野椀ですよ!」
俺は興奮のあまり震える手で椀を受け取ると、そのまま店主さんの前に差し出す。
楓の模様に朱の漆。それらが見事に調和した、秋の深山を思わせる逸品。
店主さんは痙攣する手を必死に伸ばし、その光沢ある面をそっと撫でていた。
「おお、これは見事な……光琳さん、大葦屋さん、ありがとうございます」
病にあっても浮かべ続ける満面の笑み。作り手たちも皆一様に安堵の笑みで返した。
そして次の瞬間、店主さんは枕元の宗仁さんの腕をつかむと、飛び出しそうな目玉を見開いて息も絶え絶えに言った。
「宗仁さん、ありがとうございます。あなたが薬を作ってくださったおかげで私もこれの完成を見届けることができました」
微笑み返す宗仁さんもやつれ気味だった。ここ数日の間、付きっきりで看病していた疲労がいよいよ隠せなくなってきたようだが、彼は一言も弱音を吐かなかった。
「それに……この薬の原料をくれたどなたかにも感謝をしませんとな」
俺と宗仁さんが顔を見合わせた。
まさか? 新しく珍しい薬種を手に入れたことは、権六の意を汲んで二人の間で秘密にしていたはずなのに。
無言で驚嘆する俺たちに、店主さんは言葉を絞り出すように言った。
「気付いていましたよ……この薬に使われている原料はそこらの薬草ではない……きっと大陸から取り寄せた……特別な素材が必要だと。ですがそれらは滅多に売っていません……驚くほど高価です。買う余裕は……ありません。誰かはわかりませんが、……特別に用意して……くださったのでしょう……」
俺と宗仁さんは再び顔を見合わせ、そろって頷く。
どうやら互いの意思は一致したようだ。俺はそっと店主さんの耳元に顔を近づけ真実を話した。
「そうですか……権六が……」
そう言うと店主さんは微笑む。そしてその穏やかな顔のまま、ゆっくりとまぶたを閉じて眠りについたのだった。
その夜遅く、白石屋の店主の脈が完全に止まったことを宗仁さんは確認した。45年の苦難に満ちた生涯だった。
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