第十五章その2 大本さん、男を見せる!

 賑やかな住吉三神の言葉通り、俺たちの帰郷は呆気ないほど何事も起こらなかった。福岡から大坂まで、まっすぐに風が吹いていたような気さえする。


 久々の八幡の町は海沿いの福岡と違い、春も近いというのに突き刺すような寒さに包まれていた。早く温かいお茶で一服したいと、俺たちの足も自然と速まる。


 しかし店が目に飛び込んだ瞬間、俺たちは立ち止まった。


 人だかりができているが、買い物客ではない。重苦しい不穏な空気が漂っている。 


「ただいま! どうしたの?」


 俺が店に飛び込むと、そこには腰に刀を差した武士が三人、立っていたのだった。


 壮年の男ふたり、もうひとりは頻繁に白石屋に出入りしている大津奉行の大本久道おおもとひさみちさんだ。だが大本さんの顔色は悪く、居心地が悪そうな雰囲気を醸し出していた。


「あ、サブさんお帰り!」


 床に座り込む湖春ちゃんがこちらに気付くが、彼女もすっかり困惑して疲れ切った様子だ。その隣には川辺屋の棟弥さんも座っていた。


 異常な空気に唖然とする俺に、店の中にいた手代がそっと耳打ちする。


「大津奉行からお侍さんたちが押し掛けてきているのですよ」


 なるほど、だがどうも客人としての来訪ではないようだ。


「そなたが店主か?」


 役人のひとりが静かに尋ねる。俺は「はい」と明瞭に答えた。


「白石屋、お前たちが売り出したこの『寝返り白黒』という遊戯、実に面白いではないか。大津奉行所でも密かに流行っておる」


「お喜びいただけたようで、ありがたきお言葉に存じます」


 俺は頭を下げるが、こんなに嫌味たらしく言うのだから、何かあるに違いない。


 予感は的中した。役人たちはにたっと不気味に笑うと次々に話し始めたのだ。


「だがこの名前はいただけんな。『寝返り』というものはまるで主君への裏切りを是としているようではないか」


「内容も挟んでひっくり返すとなれば、まるで数を理由に裏切りを礼賛しているかのようだ。これは良くない、即刻売り出すのをやめよ」


「そ、それは」


 俺はうろたえた。もしこのゲームが売れないのなら相当に痛い。


 せっかく作った商品、滑り出しも上々なのだ。ついこの前、木工職人に追加で注文を出したばかりだというのに、売れないとなると不要な在庫だけが残ってしまう。


「サブさん、ちょっとちょっと。大本さんも」


 土間に降りた棟弥さんが近付いて顔を寄せる。小さくなっていた大本さんも続いた。


「すまねえ、俺の上司たちが……」


 小声で謝る大本さん。俺は「どういうことです?」とさらに顔を近づけた。


 口を噤む大本さんに代わり、棟弥さんが説明する。


「あの侍たちは大津奉行の役人たちですが、実は父が最も賄賂を贈っていた者たちなのです。ですが父がいなくなって賄賂を受け取れなくなったので、腹いせに白石屋に難癖付けに来たのでしょう」


「そんなぁ」


 もっと他にやることあるだろうに、どれだけ暇なんだよ。


「ここは父と同じように、彼らにも賄賂を与えることをお勧めします。そうすればおとなしく帰っていくでしょう」


 棟弥さんは提案する。この時代では常識的な思考だろう。


 だが現代の倫理で育った俺には、どうしてもそれは受け入れられなかった。


「それはだめですよ、だって――」


 肉を贈るのと本物のお金を贈るのとではわけが違うのだから。


「ですがサブさん、商人として生きていくには武家に取り入るのも必要です。良心の呵責もあるでしょうが、こればかりは……」


「おいおい、いつまで話しているんだ?」


 しびれを切らしてか、役人が声を荒げる。だが彼は別に興味を示したようだ。


「ん、そこの背の高いお姉さん、この煎餅はあんたが焼いているのかい?」


「ええ、おひとついかがです?」


 振り返ると、役人ふたりは煎餅焼き用の大きな鉄板の前で佇む女中の葛さんの目の前に迫っていた。


「うーん、煎餅もいいが、俺はあんたの方が欲しいよ」


「そうだな、国に残してきたカミさんと違って、若いし色っぽいしな」


 下卑な目付きでじろじろと葛さんを舐め回す役人たち。俺の背筋にぞぞっと寒いものが走る。


「私は遊女ではありません。そういった用件でしたらご遠慮願います」


「硬いこと言うな、美味い物食わせてやるから、来いよ」


 そう言うと役人は葛さんの細い腕を無理矢理につかむ。彼女は「きゃっ」と小さな悲鳴を上げた。


「おやめください!」


 とっさに湖春ちゃんが裸足で土間に飛び降りて背中からつかみかかるも、簡単に振り払われてしまう。


 この変態親父! そう叫びながら俺も飛びかかろうと決心したその時だった。


「あんたたち、いい加減にしろよな!」


 店の屋根が吹き飛ぶかと思う怒号に、全員がしんと静まり返る。


 大本さんだった。普段は弱気で頼りない彼が、今は顔を真っ赤にして怒りに狂っていた。


「もう我慢ならねえ、あんたたたちは武士だろ、町人を守るのが与えられた役割だろ!? それがなんだ、何も間違いも犯していない商家に押し入って、いびるだけでなく女中にまで言い寄るなんて、それでも武士か!? もしこんなのがまかり通るなら、俺はもう代官所なんか辞めてやる! あんたたちと同類に見られるくらいなら、浪人になって飢えて死ぬ方がマシさ!」


 ぜえぜえと息を切らす大本さん。


 役人は葛さんから手を乱暴に放し、一歩一歩、今度は大本さんに迫る。


「大本、お前、自分が何を言っているのかわかっているのか?」


 役人の顔は真っ赤を通り越し、紫色になっていた。額の血管がぴくぴくと脈打ち、別の生き物のようだった。


「わかっているとも、あんたたちは武士の風上にも置けねえド阿呆だってな」


 大本さんは負けていなかった。さっきと同じ調子でまくしたてる。 


「その通り、大本殿の仰る通りでござる」


 店の外から大きな影が人垣を押しのけて現れる。鬼瓦を貼り付けたような顔の山根やまね由房よしふささんだ。


「申し遅れた、それがしは山根由房、武士の端くれでござる。ちょうど白石屋の店主殿が帰ってくる日だとお聞きしてここに来たのでござるが、まさかこんな場面に出くわすとは」


 彼はその顔をいつも以上に曲げていた。もはや憤怒、仁王像のような形相だった。


「大本殿は間違ってなどおらりませぬ。武士の役割は民を守ること。民を守るためならばこの命、賭してもかまいませぬ。しかし八つ当たりで善良なる商家にこのような仕打ちを行うなど、汝らの武家の誇りはどこに失われたのか」


「この、言わせておけば――」


 役人は震える手でついに刀を握った。


 だがそこに大本さんがすかさず割り込んだ。


「山根様は彦根藩の剣術指南役、心鏡流の開祖であられる。ここで剣を抜いたら最後、どうなるかはおわかりでしょう?」


 聞くなり役人の顔が青ざめた。力で敵う相手でないと、即座に理解できたのだ。


「ちっ、引き上げようぜ」


 そう言うと役人たちはそそくさと店を出ていった。


 その直後、大本さんの顔から滝のような汗が流れ落ち、その場にへなへなと座り込んだのだった。


「大本殿、大したものでござった」


「山根さん、ありがとうございます」


 山根さんの肩を借りて大本さんが立ち上がる。まだ足が震えてろくに立つこともできないようだ。


 その姿だけを見れば実に滑稽だろう。だがこの場に居た誰もが、彼に対し心から賞賛の言葉を贈っていた。


「いやいや、大本殿のおかげでござる。ここ八幡は代官所の管轄、拙者が名乗り出ても状況は変わらぬ」


 ようやく立てるようになった大本さんは、真っ直ぐ葛さんに駆け寄った。


 強く握られたのだろう、葛さんの白い腕には赤い痣のように男の手の跡が残っていた。


「か、葛さん、お怪我はありませんか?」


 慌てて尋ねる大本さんに、葛さんはにこりと微笑んだ。


「ええ、ありがとうございます、私は平気ですよ。でも大本さん、本当に良かったのですか?」


「何がです?」


「代官所を辞めるなんて啖呵切って。本当に浪人になりますよ」


「いいのです、あんな連中の下に付くくらいなら」


 大本さんは鼻から強く息を吐き出して言った。


 彼は以前から上司に嫌気がさしていたらしい。そのせいか今はずっと抱えていた重荷から解き放たれたような、そんな爽やかな顔をしていた。


 それを見て山根さんは豪快に笑った。普段は恐ろしい顔の山根さんだが、笑い顔にはブルドック的な可愛らしさがある。


「大本殿、多くの武士が鍛錬を怠りその矜持を失うこの世の中、見事でござった。貴殿のような方こそ武士の中の武士でござる」


「そんな、私はただ、その……葛さんに手をかけたのが許せなくて」


 もじもじとする大本さん。山根さんは品定めするように大本さんを見ると、不意に切り出した。


「大本殿、よろしければ彦根に来られぬか? 拙者の口添えで彦根藩に仕官できるよう手筈を整えておこう」


 俺も棟弥さんも「ええ!?」と声をそろえて驚いた。


 代官所は幕府の直轄地とはいえ、勤める武士は総じて家格の低い者が多く、石高も低かったという。待遇で言えば有力藩の藩士として召し抱えられる方が良好だった。


 彦根藩は徳川家の親戚筋を除けば最高位の譜代大名だ。そこに仕官できるなど千載一遇の機会、普通ならば断る道理は無い。


 だが大本さんは背筋を伸ばすと、山根さんに向かって深く頭を下げたのだった。


「お言葉ですが、私は剣の腕が立つわけでもありませんし、学問に秀でていることもありません。彦根に出向いても相手にされませんし、間違って仕官できても山根殿の顔に泥を塗るだけです」


 なんと彼はこの話を断ったのだった。これには山根さんも驚きを隠せないようで、目をぱちくりと開いている。


 そして大本さんは続けた。


「ですが、そんな私でもできることはあります。ずっと白石屋に出入りしていたおかげで、煎餅の焼き方は覚えました」


 俺も湖春ちゃんも手代たちも、店の中にいた全員が固まってしまった。


 ピタリと時間の止まった空間、ただひとり大本さんは葛さんに振り返る。葛さんは大本さんの顔をただ黙って見つめ返していた。


「葛さん、今の私はただの浪人、武士でも何でもない。だからこれでようやく口にすることができる。私はあなたと一緒になりたい、どうか私の嫁に来てください!」


 そして深く頭を下げた。あまりにも陳腐でド直球な表現、それもこんな大勢の見ている中でのプロポーズに、俺はずっこけてしまいそうだった。


 だが当の葛さんはほんの少しだけ顔を赤らめ、くすっと笑ったのだった。


「ようやく仰ってくださいましたね。そのお言葉、ずっと待っておりました」


 言われて一番驚いたのは大本さんだった。頭をゆっくりと上げながら「え、ええええ!?」と間抜けな叫びを上げている。


「まさか大本さん、今までずっと気が付かなかったの?」


 湖春ちゃんが横から茶化すと、棟弥さんも追随した。


「そうですよ、おふたりが両想いであることは誰の目から見ても丸わかりでしたよ。ね、葛さん?」


 そう言われ、葛さんはまたもふふっと笑ったのだった。

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