俺が歩いたら草も生えない！？ 近江商人は天下を取る

第一部 落日の商家

序章 ただ観光に来ていただけなのに……

「これが琵琶湖（びわこ）か……やっぱでかいな！」

　山頂から眺めると、そこには田園と青に輝く巨大な湖水が広がっていた。

　山腹までのロープウェーでも見事な大平原を楽しめたが、この風景は格別だった。

「なになに、ここ八幡山（はちまんやま）城はかつて豊臣秀吉（とよとみひでよし）の甥、豊臣秀次（とよとみひでつぐ）の居城であり、商業と文化を大いに発展させた……と」

　俺はスマートフォンの画面で観光案内のサイトを読みながら、お茶の入ったペットボトルに口を付けた。

　せっかくの休日なので普段あまり来ない場所に行こうと思ってここまで来たが、正解だったようだ。激務が続いて窮屈で仕方がないところでのこの開放感は病みつきになる。

　俺は伊吹（いぶき）栄三郎（えいざぶろう）。

　都内の大学に通いながら新宿のイタリアンレストランでバイトリーダーを任されているが、9月に入って繁忙期が終わり、連休をいただいたのだ。

　そこでたまには近畿地方、それも京都や大阪といったメジャーどころでなく、平日なら混雑しない穴場を旅行してみようと、滋賀県の各地を回ることにしたのだった。

　今日は新幹線米原（まいばら）駅を降りてJR琵琶湖線に乗り継ぎ、ここ近江八幡（おうみはちまん）に着いたばかりだ。

　早速古い商家の風情ある街並みを歩いてみたが、日本に居ながら外国に来たような興奮と同時にどこか懐かしさも覚え、すぐにこの町が気に入ってしまった。

　映画の撮影にもよく使われる八幡堀の菖蒲（あやめ）を眺めながら食べる地元名産近江牛のコロッケも絶品、本当にここを選んで良かったと思う。

「洋風の建築もあるな。じゃあ次は……この近江商人旧家に行ってみよう！」

　俺はスマホの画面とにらめっこしながら、古い木造家屋建ち並ぶ小路を進んだ。

　地図によれば５分も歩かずに着けるような場所だ。

　だが奇妙なことに、案内に従って歩いていたはずが10分、20分と歩き続けても一向に目的地にたどり着かない。

「おかしいな。道に迷ったのかな？」

　ショルダーバッグからペットボトルを取り出し、少し余っていたお茶を全て飲み干しながら画面の地図をいじる。が、処理落ちしたように画面がフリーズしてしまったのでため息をついてバッグに放り込んだのだった。

　キョロキョロと頭を振る。左右はやけに高い板張りの塀に囲まれ、昼間だというのに薄暗く不気味に感じる。

　なんだか居心地が悪い。さっさとこの場を離れようとそのまま進み続けた俺は、やがて行き止まりにぶち当たった。

「何だよ、ただの袋小路かよ」

　そんな俺の目に、気になるものが飛び込んだ。

　行き止まりの壁を背に、俺の腰ほどの高さの小さな石碑がぽつんと鎮座していたのだ。

「誰かの墓かな？」

　普段なら目に留めることもない碑だが、この時は歩き疲れて少し休みたかったのと、町中に意味ありげにひとつだけ置かれているという違和感のせいでしげしげと眺めてしまった。

「石……春？　ほとんど読めないな」

　だいぶ古い物なのだろう、一部の文字を残してほとんど朽ちていた。

　その時だった。

「……助けて」

　弱々しい、女の子の声だった。

　俺は辺りを見回す。前方左右は壁で、後ろにも人はおらずただ狭い道が続いているのみだ。

「気のせいかな？」

　風の音だろう。

　そう思うことにしたが、またもあの声が耳に届く。

「……助けて」

　やっぱり聞こえる。しかも今度はよりはっきりと。

「どこだ？　おおい！」

　後から考えるとものすごく不気味なことだが、この時の俺は悲痛な女の子の声になんとかしてやらねばと躍起になっていた。

「……こっちよ」

「こっち？」

　声につられて視線を移す。

　さっと血の気が引いた。声は明らかに、この小さな石碑から発せられていたのだ。

　逃げなきゃ。だが、足が震えて動けない。人間想像を超える恐怖に出会うと、理性がいくら働いても身体が言うことを利かなくなるようだ。

　やがて視界が暗転したかと思うと、俺の意識は薄らいでいった。