第一章その3 比売神様の願い

「いつもここに来ているんだ、私」


 夕方、俺は浴衣姿のまま湖春ちゃんの毎日の日課とやらにつき合っていた。


 八幡山の麓の神社。彼女は夕方になると毎日ここにお参りをするらしい。


「ああ、さっき通ったな、ここ」


 300年の間に作り替えられたことはあっただろうが、社殿の構造は現代とほとんど変わっていない。


 そのとき、視界がかすみ、俺の一歩先を行く湖春ちゃんの背中がぼやける。




 気が付けば俺は砂利の敷かれた境内にただ一人立っていた。


 湖春ちゃん含め参詣客はおじいちゃん一人残らず姿を消している。


 さらに風の音、鳥のさえずりひとつ聞こえない。まるで異空間に放り込まれた気分だ。


 そんな時、ふっと温かい空気の揺れを感じ、俺の後ろに誰かが立った気配を察した。


 急いで振り返ったそこには、ひとりの女性が立っていた。


 長い羽衣に結い上げた長い黒髪。引きずるように長い桃色の衣装は普通の着物や十二単よりもさらに古風なスタイルで、手には向こうの透けて見える団扇を持っている。


 つまりは平安以前、大陸の息吹を感じる天平時代風の衣装を着た切れ長の眼に白い肌の美人な女性だった。


「神様……ですか?」


 突飛な発言だったと思う。だがそうとしか思えなかったのだから仕方がない。


「はい、私はこの日牟禮ひむれ八幡宮はちまんぐうに祀られている比売神ひめかみです」


 女性は団扇で半分だけ顔を隠しながら淡々と語った。


 日牟禮八幡宮。そうそう、そんな名前だった。


 漢字が難しいので山の麓のきれいな神社という印象で覚えていたが、能舞台まで備えた立派な社殿を構えていたので素人目にも格式の高さは感じられた。


「え……本当に、神様ですか?」


「はい、本当です。当社の祭神である誉田別命ほんたわけのみことにお仕えしながら、人々の願いを聞き叶えております」


「そうか、本当に……神様なのですね」


「はい、本当に神様です」


 当然驚いたが、俺は意外とすんなり目の前の美女の言うことを受け入れてしまった。


 そもそもタイムスリップなんて普通ではありえない経験をしているのだから超常的な存在が介入したと考えるのは不思議ではない。


 また日本人として遺伝子レベルまで刻まれたアニミズム思想のおかげで、無宗教ではあっても超常的な存在をすんなりと受け入れる素地はあったのかもしれない。


 ここ日牟禮八幡宮はパワースポットとしても有名で、境内に入れば誰だって襟を正したくなる空気が漂っている。そんな神聖な場所で不思議な体験をすれば、この目の前の神様も誰だって実在のものと思うだろう。


「では比売神様、失礼を承知でお聞きします。なぜ俺は江戸時代にタイムスリップしてしまったのでしょうか?」


「あなたはあの石の声をお聞きになりましたね」


 助けて。女の子のように聞こえたあの声か。


「……ええ、聞きました。あれは湖春ちゃんの声、ですね?」


「その通りです。あれは私を深く信仰しながら不幸な死を遂げた湖春の墓なのです」


「一体これから湖春ちゃんに何が? それになぜ俺はここに?」


「私は神として長くこの町の人々の願いを聞き、可能な限り力を尽くして叶えてきました。ですがあの娘とその一家には何もしてやれなかったのが、今でも後悔として残っているのです」


 女神の顔は団扇でほとんど見えない。だがその声は冷淡でありながらも吐き出したい気持ちを抱えているようだった。


「彼女の家である白石屋は以前より勢いを失い、最早風前の灯火です。しかし神無月で私が出雲へ行っている間に父親が病で亡くなり、家は一気に傾いてしまいました。さらに悪い商人に財産と利権を根こそぎ奪われ、結局その月の終わりに娘も川に身を投げて亡くなってしまったのです」


「それは大変気の毒な話です。しかしなぜ私にその話を?」


「それだけならばよくある話です。問題はその先です。その悪徳商人は賄賂に商品の横流しにと手に入れた財を悪事に使いこの町を支配しました。ですがそのような悪手がいつまでも通用するわけではありません。ついに客はどんどん離れ、この町は寂れてしまったのです。元の状態に戻るまでは何世代もかかりました」


「それじゃあ店が潰れなかったら、この町は今よりもっと栄えていたかもしれないのですね?」


「はい、ですが今となってはどうしようもできません。ですがひとつだけ方法がありました。それはあなたをこの時代に送り、白石屋を救うことだったのです」


 女神はきっと鋭い視線を俺に向けた。


「……はい?」


 当然俺は自分を指差し、硬直する。つまり俺は湖春ちゃんを助けるためにこの時代に連れてこられたと?


「見たところあなたには商才があります。なのできっと――」


「申し訳ありませんがお断りいたします」


 女神は目を見開いた。俺の発言は予想外だったようだ。


「どういうことでしょうか?」


「無闇に過去を改変するのはタイムパラドックスを引き起こしてしまいます。現代にもどう影響するのかわかりませんし、私は遠慮します」


 女神は何も言わなかった。唇をぶるぶると震わせ、俺を睨んでいた。


 だがそんな沈黙がしばらく続くと、女神ははあとため息をついて団扇を持っていた腕をだらんと垂らした。


「そうよねー。はぁーまったく、いくら力を取り戻したいからって誉田別命様も無茶言うのよね」


 突如フランクになった女神に今度は俺の方が絶句した。


「もう過去に来てるし、ここオフレコだから話すわ。うちって近くに近江神宮とか多賀大社とか格の高い神社いろいろあるじゃない。神様同士でも色々とあって、もっと力を付けたいと思ってるわけよね。私たちここまで大きくなれたのも町の商人のおかげだからどうにかしてほしいって言われたんだけど、そうしたら歴史が変わっちゃうから私としては嫌なのよ。迷惑かけてごめんね。もう元の時代に帰してあげるから」


 あ、なんだもう帰れるのか。


 俺はほっと安心して息を吐くが、どうしても気がかりが残る。


 俺が帰ったこの後、あの店はつぶれて湖春ちゃんは堀に身を投げるのか。まだ15歳くらいだというのに。


「ひとつだけお聞きします。あの湖春ちゃんの声は一体?」


「あれは本人よ。悲しすぎてこの世に留まり続けてる魂が成仏できないものだから、私が手を貸して時間逆行のきっかけになるよう細工したの」


 女神の身体が淡い光に包まれる。きっと時間を元に戻すつもりだ。


 助けて。湖春ちゃんの声が脳内にこだまし、俺の胸が締め付けられた。


 このままだとあの子はこれからもずっとあのままだ。それは悲しすぎる。


 もう迷っている暇は無い。俺は口を開いた。


「やっぱり俺、この時代で湖春ちゃんを救います」


 女神を包み込んだ光が消え失せた。「へ?」と首を傾げる女神を前に、俺は話し続けた。


「300年以上成仏できないなんて、いくらなんでも可哀想すぎる。この世界にパラレルワールドが存在するならば、俺が来て状況が変わった、という時間の分岐をひとつくらい用意してあげたい。彼女と知り合ったのも何かの縁です、これからむごい事態が待っているのに彼女を見捨てろだなんて、そんなの俺にはできません」


 俺はこれをひといきで言い切ると、女神の口角がふっと上がる。


「あなた、カッコいいこと言うわね。お姉さん気に入ったわ、これから何か困ったことがあったらここに来て祈願しなさい、そしたらお姉さんできる限りお手伝いするから」

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