最終章 近江商人は天下を取る

「それでは、新たなる夫婦の誕生を大いに祝いましょう!」


 棟弥さんが杯を掲げると、座敷に居並ぶ他の商人たちも「おお!」と声をそろえて杯を掲げた。


 その叫びは隣の部屋にも伝播し、土間に板の間に押し掛けた人々も次々と歓声を上げる。


 ここは八幡白石屋本店、そして今日は店主の婚礼の日。


 そう、つまりは俺と湖春ちゃんの結婚式だ。


 近江を代表する商家の婚礼とあって近江、いや、日本各地から多くの人々が八幡に集まり白石屋を祝福した。


 大本さんと葛さんの夫婦は幼い子ども2人を連れてきていた。葛さんのお腹の中にはもう3人目も宿っているそうで、余程嬉しいのか大本さんは会う人会う人に自慢の妻ですと豪語していた。


 わざわざ九州から駆けつけた高砂屋の店主はなんと、貝原先生と元服して髷を結った吉松、いや白石丸を連れてきてくれた。すっかり立派な武士の風格を漂わせるかつてのやんちゃ坊主の姿に、この子を養子に出して本当に良かったと俺たちは思った。しかしまだ独り身の宗仁さんを加えた3人で集まると、いつどこであろうと朱子学に関する小難しい論争が始まるのはどうにかしてもらいたい。


 彦根からも藩士の山根由房さんや牛飼い庄屋の一家を始め、多くの人が押し寄せた。段平さんは相変わらず遊び癖が治らないようで、既に別家の嫁に行っている妹の千代乃さんが何度も遊郭から兄を引きずり連れ出して帰っていく姿が目撃されているらしい。


 山賊の女頭である若葉は本来人前に出られぬ身、この席にも姿は見えない。だがいつの間にか白石屋の店の壁に「おめでとう 若葉」と書かれた紙が貼られているのを発見し、彼女も元気でやっていることがうかがい知れた。


 同じ近江にある日野からも日野商人の元締めである大葦屋の店主が漆器職人の誠蔵さん、それに尾形光琳さんを連れてきていた。彼らはまた新しい商品を開発するそうで、工房に泊まり込んで日夜開発に打ち込んでいる。光琳さんは蒔絵が評価され、つられて本来の領分である絵も江戸で評価されるようになった。今では蒔絵よりも肉筆画の方が稼げるようになったという。


 そんな多くの人々に見守られ、俺と白無垢姿の湖春ちゃんは並んで座っていた。


 今までの4年間、俺が関わってきた人々に祝われる気分、これ以上のものは無い。やはり俺はこの時代に来て本当に良かったのだと、ようやく心から思えるようになった。


 結婚後も俺は店を大きくするために努力を惜しまなかった。


 不正はせず適正な価格で売買し、普段は節約しここぞという時には出し惜しみをせず、そして何より自分も相手も世間も、すべてにとってプラスになる商売を。いずれも湖春ちゃんのお父さん、つまり俺の義父から教わったことだ。それを胸に俺は日々商売に打ち込んだ。


 それから数十年。店は拡大を続け、最終的に北は礼文れぶんから南は薩摩さつままで、白石屋は大小合わせて全国各地に100近くの支店を持つようになった。


 さらに夫婦間で子供も生まれ、男の子2人と女の子1人を成人にまで育て上げた。本店は長男が継いだものの、次男は江戸支店の店主を、娘は優秀な番頭を婿にもらい、大阪支店の女将を務めることになった。


 そう、名実ともに白石屋は日本を代表する商家となったのだ。その発展していく様子を本店の奥の座敷で老いた妻とともに見届けながら、俺は天寿を全うした。




「……あれ?」


 布団の中で家族に見守られていたはずなのに、気が付けば俺は青空の下、硬い土の上にあおむけで寝転がっていた。


 老いた身体を気遣い、慎重に起き上がる。が、いつもなら肩や腰にじんじんと痛みが走るはずが、今はまるで重りを外されたように動きが軽い。


「ここは……天国かな?」


 死んだおかげで現実世界の質量から解放されたのかなんて考えてみるが、周囲を見回した途端、俺は動きを止めた。


 違う、ここは天国なんかではない。この風景、見覚えがある。


 立派な社殿に能舞台。そして目前に聳える緑の山様。毎日家族で参拝した日牟禮八幡宮だ。


 だが少し様子がおかしい。境内の至る所に見慣れない建物や祠が増えている。それらは新しいものではなく、作られてから長い年月が経っているような趣があった。


 そして自分の腕が視界に入ると、俺はぎょっと驚いた。あんなに皺くちゃな肌だったのに、健康的な血管が浮き出た潤いのある見た目に変わっていたのだ。


「わ、若返ってる!」


「そう、あなたは死んでしまったけれど、ここは天国ではないわ。元の時代に戻っただけ」


 叫んで立ち上がる俺のすぐ後ろから女性の声がする。久方ぶりに姿を拝む日牟禮八幡宮の比売神様だ。平成から元禄時代へと俺を連れ込んだ張本人であり、いわばこれまでの出来事の全ての発端。


「元の時代って、つまり俺がタイムスリップする前の?」


「そう、いわゆる正史ね」


 振り返りながら尋ねる俺を、女神はご名答とばかりに指差した。服もちょうど観光で近江八幡を歩き回っていた時の姿に戻り、肩にはカバンまでかけられている。


「なんだ、そうだったのか……」


「あら、本来の時空に戻ってきたというのに、随分と悲しそうね」


 そう思われても仕方がない。俺はあの時代で寿命を迎え、充実した人生を終えるつもりだったのだ。だがあれは歴史の分岐から生まれた一種のパラレルワールド、俺がこの時代に戻ってきてもその影響は一切ない。


 なんだか俺のしてきたことが全て無駄になった気がする。長い長い夢を見ていたようではないか。


「まあ、考えていることは大体わかるわ。でも安心して。こっちはあなたが介在したことで分岐した時間軸よ」


 女神が指を鳴らすと、どこからともなく薄型テレビが現れる。俺にしてみれば機械を見るのは50年ぶりくらいだ。


 そんなテレビの画面に映されたのは現代日本の風景。だが少し違う。東京のビル街の中に、他の高層建築を圧倒する見慣れぬ巨大なビルが建てられていたのだ。


「これ、なんだかわかる? 白石総合商事本社、つまり白石屋の現代の姿よ」


 俺は言葉も出ず、ただぽかんと画面を見つめていた。


「あなたが和人とアイヌの関係を改善してくれたから、こっちの世界ではクナシリ・メナシの戦いも起こらなかったし、明治になって多くの和人が開拓民として入植した後も文化を尊重されたわ」


 続いて映されたのは北海道札幌の風景。雪まつりの観光客で賑わう大通公園には、アイヌの民族衣装を着た人々が集まって大規模な異文化交流会を開いている。昔ながらの入れ墨の風習を残した彼らは、民族としての誇りに溢れていた。


「近江八幡は白石屋と川辺屋の二大店舗を中心に栄え、やがて両店は日本を代表する財閥にまで発展した。ふたつとも、アジアどころか世界中に関連企業を展開するアグレッシブなグループよ」


 移されたのは世界の大都市だった。上海、シンガポール、ニューデリー、ロンドン、ニューヨーク。さらにはどこかわからぬ砂漠の都市。世界各地に進出し、白石グループと川辺グループは互いに良きライバルとして競い合っているようだ。


「近江八幡の町は日本経済の聖地として多くの人の集う国内有数の観光地になってる。ほら、日牟禮八幡宮なんていつもこの賑わいよ。外国人にも人気で、京都の伏見稲荷にも負けていないわ」


 近江八幡の町には史実よりも多くの歴史的建造物が残され、世界に通用する観光地へと様変わりしていた。平日だというのに警備員が動員され、参拝客を誘導するほどの賑わいに女神も満足至極の笑顔を向けた。


 だが俺が求めているのはこれではない。そもそもなぜ俺は江戸時代にタイムスリップしたのか、その最大の原因が結局どうなったのかまだ聞いていない。


「あの、湖春ちゃんは?」


「安心して、あなたが関わってくれたおかげで湖春ちゃんの魂も無事、天に昇ることができたわ。本当にありがとう」


 映像が切り替わる。俺が間違えて入り込んだ小径こみちは完全に塞がっていた。あれは湖春ちゃんの無念が生み出した、一種の異空間だったようだ。


「そうですか、それは良かった」


 俺はほっと安心したが、悲しくもあった。最初に俺に親しくしてくれて、ついには愛する妻となった彼女ともう会えないと思うと、泣き出したくもなる。


 消沈気味の俺を気遣ってか、女神は早口でまくし立てる。


「じゃあ、これで本当にさよならね。この経験がこれから再開する、あなたの本当の人生にとってプラスになるのなら私としても嬉しいわ。それじゃあね」


 そして指を再び鳴らす。途端、俺の意識はぐにゃりと捻じ曲げられた。




 最初に目に飛び込んだのはジーパンを履き、デジタルカメラを首から下げているお爺さんだった。傍らには大きな帽子をかぶった小柄なおばあさんを連れ歩き、聳える社殿をそのレンズに写し込んでいた。


「本当に……戻ってきたんだよな」


 気が付けば俺は日牟礼八幡宮の境内、本殿の石階段に座り込んでいた。


 今までの出来事は常識を超えた現実だったのか、それとも長い長い夢だったのか。


 どっちにしろ今の俺にとっては懸命に過ごしてきた時間がごっそりと削られた思いで、帰って来られたのだからと単純に喜ぶ気分にはならなかった。喪失感の方が大きいくらいだ。


 記憶もあいまいだ。江戸時代で過ごした50年もほんの一瞬のことのようにさえ感じ、代わりに旅行中の学生時代の記憶がついさっき起こったことのように感じられる。


 不意に荷物を開ける。空っぽのペットボトル、財布、スマートフォン、それに観光案内のパンフレット。


 元の荷物そのまんまだ。やはりあれはこの神社のパワーに当てられて見た白昼夢だったのだろう。そうだ、そう思おう。


 9月とはいえまだまだ暑い季節だ、俺は額の汗をぬぐうためハンカチを探す。だがおかしい、確か内側のポケットに入れていたはずなのに、ショルダーバッグの中にいくら手を突っ込んでもハンカチが見つからない。


 まさかと思い、俺はカバンをひっくり返した。外側のポケットには確かシルバーアクセサリーが入ったままになっていたはずだ。


 だが出てくるのはいつから放置されているのかわからない、何かの紙切れだけ。あのネックレスは忽然と姿を消していた。


 財布を盗まずあれだけを盗む泥棒はいまい。この旅行の最中、俺はあのアクセサリを着けたことは無かった。


「おかしいな、どこにいったんだろう?」


 首をひねらせながらも俺は立ち上がり、当初の目的だった近江商人屋敷の見学に向かったのだった。




 昔ながらの形そのままに残されている近江商人屋敷。現在は博物館として実際に使われていた民具がそのまま展示され、まるで今でも人が住んでいるようだ。


 番頭の机には5玉の算盤が置かれ、ガラスケースの中には昔の帳簿も置かれている。ついさっきまで目にしていた品々ばかりなのに、妙に新鮮で懐かしく思えてしまうのはやはり記憶が元に戻りつつあるからだろうか。


 そんなガラスケースの中に財布や古銭と一緒に展示されている品を目にした途端、俺の目は釘付けにされた。


 真っ黒に汚でた細長い塊。説明書きには『金属製の根付』と書かれていたが、そんなものではない。


 すっかりさび付いてしまっているが、よく見るとわかる鍵の形。俺の持っていたシルバーアクセサリそのものだった。


 ガラスケースに顔を貼り付けて変わり果ててしまったアクセサリを凝視する。この汚れはほんの数年放置していたレベルではない、何百年もの間、原形が失われてもなお大事にされ続けなければこんな見た目にはなるまい。


 途端、八幡の人々の顔がくっきりと浮かんで現れる。


 店主さん、吉松、葛さん、宗仁さん、棟弥さん。そして湖春ちゃん。やはりあれは俺の実体験であり、決して消え去ることのない一生の思い出なのだ。


 いつの間にか頬を熱い涙が伝っていた。俺は腕でそれを拭うとふっと笑い、改めてガラスケース越しに保管されているアクセサリを見て満足げに頷いた。


 さて、せっかくの夏休みだ。もうしばらく近江八幡観光を楽しむとするか。

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俺が歩いたら草も生えない!? 近江商人は天下を取る 悠聡 @yuso0525

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