第七章その4 突然の訪問者

「え、ここを学校代わりに使いたいですって?」


 夕暮れの日牟禮八幡宮の境内にて、比売神は素っ頓狂な声で聞き返した。


 姿見の前で秋物のロングコートを二着手に持ち、どちらを着ようかと悩んでいる最中だった。


「そうなんです、寺子屋を作ることになったので。神社ならほら、あの能舞台のある建物の中に大きな部屋がありますし」


 手を合わせて頼み込む俺に、女神は呆れた顔を向けた。


 寺子屋、と呼ばれているからと言って必ずしも寺で開く必要は無い。


 当時、今でいう戸籍を寺が管理する寺請制度のおかげで全国至る所に寺が存在しており、また一定以上の広さのあるお堂があり、僧侶も知的階層であり先生としてぴったりだったため、必然的に寺がその役割を負担するようになったのだ。


 神社の強い地域であれば神社の建物を借りて子供を集めていたこともあったし、個人が私塾として開校している場合もあった。いずれにせよ読み書きがきちんと習えれば、誰が運営していようが庶民たちはそれほど気にしていなかった。


 なお寺子屋とは西日本に多い呼び方で、江戸では手習い所などと呼ばれていたことには留意したい。


「あなた白石屋で商人してるはずだったのに、どうしていつの間に寺子屋の先生になってるのよ。まあいいわ、神主さんには私から話しつけておくから」


 おお、これはラッキー。俺は「ありがとうございます」と礼を言うが、女神から神主さんにはどうやってメッセージを伝えるんだ?


「話しつけるって、どのように?」


「夢枕に立って寺子屋を作るよう唱え続けるのよ」


 たちの悪いご先祖の霊みたいだな。下手すりゃ物の怪と疑われそうだ。


「ところで比売神様、おめかしなんかしてどうされたのですか?」


「ええ、もうすぐ神無月だからね。出雲まで行って日本中の神様と出会うんだから、ビシッと決めないとね。ねえ、どっちがいい?」


「どっちも似合ってていいんじゃないですか?」


「かーっ! 女にとって服選びは命の次に大事なのよ! そんなテキトーな返事しないでちょうだい!」


 そのあと現実世界の時間にして20分以上、俺はくどくどと文句を垂れ流され続けたのだった。




「ねえサブさん、大丈夫?」


 虚ろな眼のまま立ち尽くしていた俺に、心配の顔を近づける湖春ちゃん。


 こちらに引き戻されていきなりどアップでこの顔が映っても動じないいくらいには俺も鍛えられていた。


「あ、うん。大丈夫だよ」


「サブさんてここに来たらたまにぼーっとしている時あるわよね」


 不思議そうに首を傾げる湖春ちゃんに、おれは笑ってごまかすしかない。


 いくら信心深いこの娘でも、正直に女神様とコンタクトをしていましたなんて言えばドン引きされるだろう。


「うん、何だろうね。ここに来ると安心してさ、我を忘れちゃうんだ」


「私もここ好きよ」


 ふふっと笑う湖春ちゃんは、いつものように本殿へと駆け出した。


 史実ならあとひと月であの娘は死んでしまう。


 店主の方は本人は隠し通しているつもりのようだが、店の者は皆病が進行していることに気付いていた。特に最近は日に日に頬がこけてやつれていっているのだから。


 これから訪れる難局を、どうにかして乗り越えねばならない。


 そのためには今は後進の育成と、資本のたくわえに尽力しなくては。




 帰り際、川辺屋の前を通りがかろうとした時のことだった。


「なあ頼むよー、昔からの取引先のよしみでさぁ」


 店の中から男の声が聞こえる。嫌になれなれしい、正直あまり相手にしたくない声質だ。


 案の定、すぐにあの肥えた店主の怒鳴り声が響く。


「帰れ、転売のできない絵などいらん! そういうのはどこかの大名にでも頼み込んで肖像を描かせてもらうんだな」


「ああそうですかい、このケチ野郎!」


 すぐさま男が飛び出し、ぺっと唾を吐いた。


 長い髪の毛を後ろに束ねた40手前くらいの無節操に髭を伸ばした男だ。服はそれなりに上品な藍染だが、明らかに異様な雰囲気を放っている。


「けっ、俺の絵が買えねえなんて、あんたの審美眼てのも大したことねえな!」


 怒鳴り返す男に道行く人々の視線が注がれる。俺と湖春ちゃんも立ち止まってしまった。


 そんな人々を男は睨み返すので、人々は足早に立ち去ってしまう。


 だが男がこちらを向いたとき、険悪な男の目がたちまち丸くなり、「お?」と意外にも可愛らしい声を上げて近付いてきたのだった。


 俺は湖春ちゃんを背中に回す。


 だが男は俺のことなどおかまいなく、湖春ちゃんを覗き込むのだった。


「おや、あんた白石屋の湖春ちゃんかい? いやぁ久しぶりだね、すっかり大きくなっちゃって」


「どちら様ですか?」


 警戒して静かに尋ねる。いくら彼女でもこの妙な男に親しく受け答えするほど馬鹿ではない。


「え、俺のこと覚えてない? 5年前にも八幡を訪ねているんだけどさ」


 残念そうに項垂れて男は自分を指差した。


 湖春ちゃんはしばらく考え込む。そして「ああ!」と声を上げて俺の前に出るのだった。


「まさか雁金屋かりがねや市之丞いちのじょうさん!?」


 どうやら正解のようで、男はにっこりと笑う。


「そうだよ。でも今はその名前じゃない、改名して尾形おがた光琳こうりんって名乗ってるんだ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る