第十六章その4 湖畔の決意

 藩からあてがわれた小屋は12人の男が寝泊まりするにはやや手狭だった。しかも板張りとはいえ構造は粗末この上ない。寒くなる前に、急いで別に小屋を建てておく必要があるだろう。


「サブさん、せっかく仕入れた米を売りに行かないのですか?」


 厚岸に到着した翌日、手代たちと囲炉裏を囲んでいた棟弥さんが尋ねた。


「うん、ちょっと気が乗らなくてね」


 俺は部屋の隅っこに敷かれたむしろの上でごろりと寝返りを打った。


 昨日大門屋がアイヌ相手にぼったくりのような商売をしているのを目撃してからというもの、俺はこの蝦夷に来たことを後悔していた。


 白石屋の家訓「売り手良し、買い手良し、世間良し」に明らかに反した商売。それがここでは当たり前に行われている。そんな真似、俺自身がとても許せないし、人情を重んじ俺に店を託した先代、つまり湖春ちゃんのお父さんにも申し訳が立たない。


 だが、もしも俺が相場を無視して格安で商売を行ったとしたら?


 商人同士は互いに目に見えない協力関係を結んでおり、調和を乱した者は村八分の扱いを受ける。いたずらに感情的な取引を行うと大顰蹙を買うのは目に見えている。特にここに来ているのは大門屋をはじめ全国に支店を出す大店ばかりだ。いつ白石屋と関係を持つかもわからず、下手に神経を逆なですることはできない。


 良心は痛むが、皆と足並みをそろえて例の不公平な相場で米を売りつけるべきなのか?


 頭を抱えていたその時、「すみません、ごめんください」と少し変わったイントネーションの男の声とともに、小屋の戸が開けられ、俺はとび起きた。


 頭髪を後ろで括り、硬く頑丈そうな繊維を束ねた独特な服装、そして頬には鳥にも似た不思議な入れ墨。訪ねてきたのはアイヌの若い男だった。


「すみません、私はイソリと申します。日牟禮会様のお頼みを受けて来ました」


 きりっと整った彫りの深い顔立ちに、顎髭を伸ばしつつもキュッとしまった口元が窺える。ワイルド風味な男前だが、過酷な環境を生き抜く聡明さも醸し出していた。


「ああ、通訳の方ですね」


 俺は慌てて立ち上がり駆け寄った。アイヌとも交渉ができるよう、旅立つ前から松前藩を通じて通訳を頼んでおいたのだ。


「どうも。これから1年、よろしくお願いします」


 イソリは礼儀正しくぺこりと頭を下げる。


「こちらこそ。ここでは窮屈でしょう、外に出ましょう」


 棟弥さんの提案に、俺も手代たちも賛成した。




「イソリさんはどちらにお住まいで?」


「この近くに我々のコタンがありますので、そこで一族の者と魚や獣を狩って生活しております」


 アイヌの人と言葉を交わすなんて初めてだ。この蝦夷でどんな生活をしているのか、非常に興味深く俺たちは矢継ぎ早にイソリに質問をぶつけた。


「私たちは森の中や川の傍にコタンを作り、そこで血縁同志が集まって暮らしています。男は獣を狩り、女は木の皮から衣服を作ります」


「木の皮で? もしかしてその服も?」


「ええ、ニレの木からは丈夫な糸が得られます。それを束ねて作った布を、私たちはアットゥシと呼びます」


 アイヌの人々は自然の産物をうまく利用した独自の文化を築いているのだなと感心しながら聞いていたその時だった。


「どうかお許しください、夫が病に倒れ、これ以上の毛皮を用意できなかったのです!」


 和人の構える店の前でアイヌの女性が地面に手をついていたのを目にし、俺たちは足を止めた。


 だが店主と思しき男は怒号にも似た声で突き放す。


「いいや、約束は約束だ。きっちりひぐま10頭分、米が欲しかったらそれだけ用意するのが筋というものだろ? 別にあんたの所だけに頼らなくても、こっちには相手をしてくれる連中はたくさんいるんだ。米が要らないのならとっとと帰ってくれ」


「そんな、あんまりです。うちには育ち盛りの子供もいますのに!」


「じゃあ、そうだな……何か代わりの物を用意できるかね? 毛皮と同じだけの価値のある何かが」


「……今年獲れたばかりのオショロコマ(サケ科の魚)を保管しています。それを全て合わせれば足りない毛皮分は埋められると思いますが」


「ははは、わかったわかった。あとで見に行ってやろうではないか」


 高笑いする店主に、うつむいたまま地面の土を握りしめるアイヌの女性。


 一歩、俺は前に踏み出した。だが棟弥さんが俺の腕を強くつかみ、ゆっくりと首を横に振る。


 棟弥さんの腕も小刻みに震えている。俺と同じく思うところはあるようだが、彼も必死に堪えているのだ。


「よくある光景です。和人と関係を持ったばかりに身を滅ぼしていく同族を、私は何人も見てきました」


 イソリが小声で言い、俺は歯ぎしりした。


「せっかくですし何か食べに行きましょう。手代たちも長旅で疲れているでしょうし」


 この場を離れようとでも言いたげに、棟弥さんが俺の腕を引く。


「そうですね……」


 俺はうずくまったままの女性を目に入れないよう、足早に道を引き返した。手代たちも皆、口を閉ざしたまま俺に続いた。




 港からしばらく歩いた草原には、厚岸あっけしと呼ばれる巨大な湖が広がっていた。


 ここは海とつながっている汽水域、つまり海水と河川の水が混じった場所であり、豊かで独特な生物層を形成するために良い漁場となっているそうだ。


 その湖の畔にて、和人の漁師が火を焚いて小さな店を出していた。


「兄さん、ちょうど良い牡蠣かきがあるよ。食べていくかい?」


 荒海で鍛えた逞しい上半身を見せつけながら、和人の漁師が焼き立ての牡蠣を俺たちに見せつける。屋根も無い湖岸での椅子に焚火と、まるで海辺のキャンプを思い起こさせる。


「牡蠣って、冬の食べ物じゃないの?」


 俺が尋ねるのを見て目を丸くしたのはイソリだった。


「そうなのですか? この湖では昔から牡蠣が獲れますが」


「ああ、水が冷たくてゆっくりと成長するから、一年中大きな牡蠣が獲れるんだよ。本土じゃあこうはいかねえがな」


 そう話しながら漁師は焚火に追加で薪を突っ込んだ。


 燃え滾る炎の上に置かれた焙烙ほうろく、そこには黒い殻の上でじゅうじゅうと湯気を立てる牡蠣の身が踊っていた。


 さすがは海のミルクと呼ばれるだけある、磯の香りを濃縮したような香ばしさに俺はノックアウトされ、先ほどの嫌な気分も幾分か消し飛んだ。


「これは美味しそうだ。せっかくだし、みんな好きなだけ食べなよ」


「よっしゃあ!」


 手代たちも喜びの声を上げる。


「あいよ、牡蠣ひとつ銭15文ね」


 なんと、焼き立ての牡蠣が現代の価格に直せば150円だと?


 養殖技術がまだもたらされていないこの土地で、この価格は結構なお買い得ではないだろうか。


 椅子に座った俺たちはアツアツの殻を慎重につかみ、フーフーと息を吹きかけて牡蠣の身をペロリと呑み込んだ。


 口に入れた瞬間、それまでほのかに漂っていた海の香りがじわりと全身に沁み渡り、濃厚な味わいとプルプルした歯ごたえで俺たちは別世界に引きずり込まれた気分だった。


「美味いなぁ」


「こんなに美味しい牡蠣をこんなに安くなんて太っ腹だねえ」


 俺たちは口々に牡蠣の味わいを絶賛する。


「ああ、何せこの牡蠣はアイヌの連中から安く買い叩けるからな」


 口をはさんだの俺たちとは別の客だった。


 ふと見ると昨日入港した時、けだるげに俺たちを出迎えたあの若い武士が近くの椅子に座って牡蠣を食べていた。大門屋の店主から聞いたところでは、確か名前は水牧春彦みずまきはるひこと言ったか。


「この蝦夷地じゃあアイヌの連中をどう使うかが商売人の腕の見せ所だそうだ。まあ、俺みたいな監視役には関係無いがな。問題を起こさず連中がおとなしていればそれでいい」


 そう言いながら水牧さんはペロリと一口で牡蠣を平らげる。満足至極のその表情、彼も牡蠣を堪能したらしい。


 だが俺はおかわりの牡蠣を持ったまま固まってしまった。


 必死で抑えていたうつうつとした気分が、今破裂しそうなほどにまで膨れ上がっていた。


「とりあえずこの店の牡蠣がこんなに安く食えるのは良いことだ。本当、アイヌ様様だよ」


 水牧さんはそう言って次の牡蠣を手に取った。


 ついに俺は爆発した。


「やっぱりこんなのおかしいよ!」


 牡蠣を手にしたまま、俺は叫んで立ち上がった。手代たちと棟弥さんは硬く口を閉ざしたまま、イソリと水牧さんはぽかんと口を開けたまま、ともかくその場に居た全員が俺に目を向けた。


「商売は公平じゃなければいけない。それなのにここでは当然のようにあり得ない相場で商品がやり取りされて、みんなアイヌの人たちにのしかかっている。こんなやり方で儲けても、俺は全然うれしくない! 亡くなった白石屋の先代だって、こんな商売は望んでいないはずだ!」


 俺は声を荒げていた。こんな風に叫んだのは久しぶりだった。


 そんな俺を嘲笑うかのように見つめながら、水牧さんは牡蠣を呑み込んだ。そして「あんた、バカだろ?」と付け足したのだ。


「アイヌの連中は本土の産物が欲しい、それをあんたたちは持ってきている、ただそれだけだ。余計なことは考えるな、ここは蝦夷、ここにはここの流儀がある」


「おっしゃる通りです」


 棟弥さんだ。彼は牡蠣を椅子に置いて立ち上がると、俺に歩み寄った。


「このような商取引、近江商人の端くれとして加担することはできません。アイヌも和人も同じ生ける人、公平な商売がなされるべきです」


 棟弥さんの目には炎が宿っていた。きっと彼も俺と同じようなことを思っていたのだろうが、俺が痺れを切らしたことで感化されたのだろう。


「棟弥さん、ありがとう。俺は決めたよ」


 俺は頷いて返すと、手代たちの顔を見渡す。皆、目には活気がみなぎっていた。公正な商売を良しとする近江商人としての誇りは、彼らにも確実に受け継がれている。


「この蝦夷でアイヌの人たちが自分たちで稼ぎ和人とも対等に渡り合えるよう、新しい商売をあり方を切り開こう! それが俺たち日牟禮会が蝦夷に来た理由、為すべき使命なんだ!」


 直後、手代たちは「おおっ!」と声をそろえて腕を突き上げる。


 俺がここで何をすべきか。その迷いはようやく晴れた。

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