第五章その3 棟弥の決断

 川辺屋の跡取りの棟弥さんは茶屋の主人に一言二言告げると、奥の座敷へと通された。


「川辺屋の良くない噂は度々耳にします。父が賄賂を贈っただの、良からぬ輩と手を結んだだのと。ですが父がそんなことするはずは無いと私はずっと信じていました」


 白色の表面の真ん中に赤、それを挟んで2本青の筋が入っている糸切り餅を用意されたものの、俺はそれには手を付けず彼の話に聞き入っていた。


「そう、信じていました。ですが最近、夜に父が誰も伴わず出歩くことが多くなったので、先日不思議に思い後を付けたのです。驚きました、父は役人の家に入って行ったのです。その役人はうちとは商売のやり取りをしたことはありませんのに」


 座り込んだ棟弥の身体は小刻みに震え、目は激しくまばたきしていた。


「まさかと思い、帳簿を片っ端から調べ直しました。すると何度も何十何百両と奇妙な会計が記録されているのです。信じたくはありませんでしたが……父が不正を行っているのは確かなようです。山賊とつながりがあるとかいう噂も、恐らくは事実でしょう」


 死にゆく前の肉親を見るような目を棟弥は俺に向けた。


 当然、ずっと慕っていた生みの親が自分の知らないところで悪事に手を染めていたというショッキングな事実、普通なら受け入れることさえできないだろう。


 この時代、役人には役職手当が無く、商家からの賄賂などはむしろ役得としてまかり通っていた。時代劇では悪代官が毎度のように商人から賄賂を受け取っているが、それを咎める人の方がむしろ少なかった。


 だが今回は明らかにそれを凌駕している。山賊と手を組むという明らかな悪事を役人にまで手を回して見逃してもらっていたことが問題だ。彦根藩が動かなければこの問題にはそもそも取り組まれることさえ無かったのだ。


「私は父に問い質しました。そして言われたのです、お前のようなお人好しは商売には向かない、いつか店を潰すのが目に見えている、そのために今の内に地盤を頑丈なものにしているのだとも」


 棟弥の目に涙がじわっと浮かび、彼は袖で拭った。


 改めて真っ赤な目を俺に向け直す。


「責任は父の横暴に気付かなかった私にあります。もうこれ以上父を見過ごしてこの町、いや近江の商人全体の信用を下げることはできません。お願いです、どうか川辺屋を潰してください!」


 さすがにこれは予想できなかった。


 俺は「ええ!?」と間抜けな声を上げ、慌てて自分の口を押えたほどだった。


「そ、そんな、川辺屋は棟弥さんの生家でしょ? それを潰せだなんて、ご自分が何を言っているのかわかっているのですか?」


 俺はうろたえながら尋ねた。だが棟弥さんは一点俺の顔を見つめながら、微動だにしなかった。


「ええ、私はいたって真面目です。一族の不正は一族が落とし前を着けなければなりません」


 きっぱりと言い切るその姿に、なんだか俺の方が申し訳なく思えてしまう。


「ここ最近白石屋が勢いをつけているのは周知の事実です。その立役者に栄三郎さんがいるということも。この方ならなんとかできるかもしれない、私はそう思ってあなたに打ち明けたのです」


 彼の決意は固かった。たとえ一族のことであっても不正を見逃すことはできないという責任感に溢れていた。この人の意思は詐欺師やソフィストであっても曲げることはできないだろう。


 ついに俺は折れた。ふうと息を整え、ゆっくりと話す。


「棟弥さん、あなたのお考えはよくわかりました。ですがいくらお父上が不正に手を染めようと、店自体を潰すのはさすがに気が引ける。店に勤める多くの人間が路頭に迷います。それならばいっそのこと、お父上を早く隠居させて、あなたがその跡を継ぐというのはどうでしょう? そのためならば私も協力します」


「そんな、不正をした川辺屋の看板はもう継げませんよ」


「それならいっそのこと、古い店を壊して新しい店を建てればいい。川辺屋の地盤を引き継ぐも心機一転して新たな商売を開拓するも自由ですが、いずれにせよあなたや不正とは無関係の者まで一生を棒に振るようなことだけは私も嫌ですから」


「かたじけない……ありがとうございます!」


 深く頭を下げる棟弥。


 その悲痛な彼の姿を見ているのはどことなく辛く、俺は手元の糸切り餅を一切れ口に放り込んだ。


 餡の甘味と同時に密かに冴え渡る塩味。ミントにもよく似た爽やかな後味が小気味良く、いくらでも食べられる。


 この重苦しい雰囲気もいくらか晴れ、俺はつい口走ってしまった。


「この糸切り餅、美味しいですね!」


 棟弥も顔を上げる。晴れ晴れとしながらも、哀愁も漂う笑顔だった。


「ええ、多賀大明神門前の名物です。ただ足が速くてその日のうちに食べないといけないのが難点ですが」


「そうか……この時代食糧の保存は大変なんだな」


「この時代?」


 棟弥が首を傾げるので、俺は慌てて手を振った。


「いやいや、こっちの話ですよ。もし不作になったりすれば、その時食べる物が無くなったら困るなー、なんて」


「ええ、飢饉が起こるとそれは大変ですから。彼岸花の根でさえ掘り返して食べなければならないほど困窮してしまいます」


 口から出任せで言ってみたものの、本当に昔の日本は幾度となく飢饉に苛まれてきたのだ。


 江戸時代250年の間にも四大飢饉を始め大小様々な食糧難が記録されている。異常気象による凶作やイナゴの大発生で、今日の食べ物さえも手に入らない事態が数年おきに起こっていたのだ。


 神社や道端に生えている彼岸花は根に毒を持つが、飢饉の時にはそれさえも貴重な食糧となった。沖縄や奄美諸島ではこれがソテツになり、有毒な樹木から澱粉質を取り出して飢えをしのいだという。


「最近はどうです?」


「この辺りは10年ほど前に起こってからは特に発生していません。ですがここ数年、奥州では米も野菜も不作が続いて、慢性的に食糧不足だと聞いています。幕府も救米を配っているそうですが、大坂や江戸の大商人が価格を吊り上げて十分な量を用意できないのが現状のようです」


「そうかぁ、そこに食糧を持っていったらすごくありがたがれるだろうになぁ」


「ええ、ですが不作のせいで藩も農民も、それを払えるだけの蓄えがありません。貧しい者はより貧しく、富める者はより富む、悲しいですが事実です」


 白石屋がいくらピンチだといってもやはり経営者、そこらの農民や町人に比べれば莫大な富を築いた雲の上の人々なのだ。毎日ご飯が食べられるだけでも感謝しないといけないな。


 その時、ふと俺は思い立った。食糧難も商売につなげられるのではないか?


「棟弥さん、ちょっとお父上に頼み込んでみましょうよ!」


「何をです?」


 目をぱちくりと開ける棟弥。意外とかわいらしい顔をする。


「白石屋の家訓です、目先の利益より信用を。今は困っている農民の人々も、再び活気付けば大切なお客となり得るのではないでしょうか」


「ええ、確かにそうですが……」




「はぁ、奥州に食糧を届けたい?」


 丁稚や手代が慌ただしく走り回る店内、机で帳簿に筆を走らせていた川辺屋の主人は目を丸くした。


「ええ、今奥州の人々は艱難辛苦に直面しています。そこに我々が手助けすれば、彼らは私たちを大いに信用してくださるでしょう」


 そんな父を前に棟弥は背筋を伸ばして力強く述べた。店の者たちは作業の傍らで、そんな彼にちらちらと目を向けていた。


 川辺屋の店主は口をとがらせ筆先を息子に向けた。


「それはそうだが、そんな一文にもならんことに金を使うなんてできないぞ」


「いえ父上、食糧を受けっとった方々は後に大切な顧客となり得ます。川辺屋の評判は上々、長い目で見れば大きな利益を生み出すのではないでしょうか」


 しばらく考え込む父。だがやがてため息を吐くと、書きかけの帳簿を付け直し始めたのだった。


「ふん、お人好しのお前らしいな。まあ払ってやってもいいが、それほど金は用意できないぞ」


「ありがとうございます」


 棟弥は一礼し、店を飛び出る。


 店の外で待っていた俺はガッツポーズで彼を迎えた。


「やりましたね」


「ええ、それでは私は他の商家にも掛け合ってみます!」


 爽やかな笑顔を向けた後、棟弥は駆け出して別の店への向かった。船を手配し、東北に大量の米と物資を届けるための協力者を探しに。


 当然、白石屋からも米や物資を出すつもりだ。寄付を出せば遠くの地でも名が知られ、宣伝効果が期待できる。


 同時に川辺屋や他の店の名も知れ渡ってしまうが、近江の商人全体の信用の向上にもつながるので問題は無いだろう。


「じゃあ俺も次の商売を考えるか……ん?」


 大きく伸びをしたその時だった。


 ちょうど食料品屋の軒先に置かれた樽が目に入り、ついその中を覗き込む。


 そこには茄子の漬物がぎっしりと詰まっていた。まだまだ暑さも残るこの季節、みずみずしい茄子の果肉はちゅるんと喉を潤してくれるだろう。


 糸切り餅のほのかな甘さの残る口に、漬物はいつも以上に美味しそうに思えた。


 だが同時に俺は別のことも考えていた。さっき飢饉の話を聞いたせいで、そのことが印象に残っていたのだろう。


 飢饉となれば米はもちろん、野菜だって不足する。それは何も飢饉のときだけでなく、雪深い地域ならどこでも……。


「これだ!」


 ひらめいた俺は無意識に樽の中に手を伸ばし、気が付けば漬物を一つまみ取り上げていた。

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