第九章その1 再会、そして今生の別れ

「またここに来るとはなぁ」


 鈴鹿峠の薄暗い山道。以前ここに来た時は随分とひいひい言っていたものだが、ここ最近は身体が長距離歩行に順応してしまったのか、たいして辛いとは思えなくなっていた。


「おい兄ちゃん、有り金縁部置いていけや」


 そんな山道の脇から、大柄な山賊の男がさっと飛び出し俺の行く手を塞ぐ。


 だが男は表情一つ変えず立ち尽くす俺を見て、目をぱちくりとさせて笑うのだった。


「……と、あんた白石屋じゃねえか。どうした、うちの姫様にご用かい?」


 俺が「ああ」と頷くと、山賊の男は根城にしている山中の小屋に俺を案内した。


 小屋とは言っても案外頑丈そうな造りで、壁には幾度も補修の手が加えられている。


 その引き戸が開けられると、山賊の頭の少女、若葉が驚いた顔で出迎えてくれたのだった。


「あんた、こんな時に来るなんて偶然だね。まるで神様が導いてくれたみたいだよ」


「どうしたんだ?」


 俺は小屋の中を覗き込んだ。


 藁やござの敷き詰められた地面、その真ん中の囲炉裏の傍で誰かが座っている。真黒な袈裟を着て頭を丸めているので、どうやら僧侶のようだ。


 でも、何でこんな所にお坊さんが?


 じっと目を凝らして俺と僧侶の目が合う。


「ああ!」


 その瞬間、俺と僧侶は互いに大声を上げてしまった。


 髪の毛はすっかり無くなっているが、への字に曲げた口の不愛想な顔、忘れるはずが無い。


「ご、権六……さん!?」


 白石屋の番頭だった権六だ。俺がこの時代に来た初日、沈没事件で店を出た彼が目の前にいた。


 袈裟姿の彼は這いつくばって部屋の隅に慌てて逃げるが、それを見た若葉の「兄さん、逃げちゃだめだよ!」という鋭い声に動きを止めてしまった。


 そう言えば権六と若葉は兄妹の関係だったな。


 喉がさっと乾く感覚に襲われながらも、俺は息を整えて囲炉裏の傍らに座り込む。


「あの……」


 俺が声をかけると権六はゆっくりとこちらに向き直った。ぶるぶると震え、瞳は涙で滲んでいた。


「権六さん、その格好は一体? 川辺屋に移ったはずじゃ?」


「栄三郎さん……私はあなた方に会わせる顔がありません」


 絶え絶えに、彼は頭を下げた。


「話してください、どうしてここに?」


 正直なところ、ゲンコツの一発でも叩き込みたい気分だった。


 権六は伏し目がちながらも俺の顔を見つめ、口を開いた。


「川辺屋に脅された私は八幡の町を出た後、堺に移りました。ですが妹を……若葉を通じて白石屋が無事であることを知り、己可愛さに慕うべき旦那様を捨てた私はもう生きていくことはできませんでした。あの後私は出家し、今こうして修行の旅に回っているのです」


「あなたのお気持ちはわかりました。ですが……もし川辺屋の企みがうまくいっていたら、どうするおつもりだったのですか!? 番頭だったあなたならおわかりでしょう、白石屋は本当に潰れるところだったのですよ!」


「ええ、それは私も承知しておりました。川辺屋の主に店の者の面倒は湖春お嬢を含めて全員受け持つと言われ、私はそれを信じ川辺屋に移ったのです。こうすれば少なくとも白石屋の名は汚れぬまま店を終えることができると」


 その時、限界までたまった涙が権六の頬を伝い始めた。


「でも甘かった。堺で働く内に同じような境遇の者と多く出会い、店主の人となりがわかってきたのです。あの男はそんな情をかける者ではない、商売相手のことも世間のことも何も考えていない。ただすべてを独占したいだけだと。要らないものは容赦なく切り捨て、困窮する者に哀れみの目さえ向けない人なのだと」


 涙ぐむ権六の背中にそっと若葉が手を置いた。


「つまりあのままだったら、白石屋の者は全員路頭に迷っていただろうさね。特に……店主と家族は」


 兄の意を汲んで、妹がフォローする。


 史実なら湖春ちゃんは自ら八幡堀に飛び込むのだから。想像しただけでぞっとする。


 落ち着きを取り戻した権六は鼻をすすり、再び話し始めた。


「私は長年旦那様を慕っていました。日々衰えゆく店と旦那様を見て、もう見ていられないと辛かったのも事実です。そんな時に川辺屋から若葉の存在を突き付けられて……」


 言葉に詰まる兄に、隣に座った妹はまたしてもその背中に手を回した。


「兄さん、あたいも悪いと思ってるよ。山賊が身内だなんて話しが広がったら白石屋はもう終わりだからね」


 まるで若葉も不本意で山賊をやっているような口ぶりだな。


 そんな俺の考えを見抜いたのか、山賊の少女は兄に代わって話し出した。


「少し昔のことを話そうか。あたいらは八日市ようかいちの貧しい農家の生まれなんだ」


 八日市とは八幡からも近い町のことで、大凧祭りで有名だ。立地の関係で商売に出る時はよく通過している。


「兄貴が白石屋に奉公に出て手代になってからは仕送りもしてくれていたんだ。あたいは4年前、とある武家に奉公に入ったんだけど……まあここの親父がすこぶる変態でね。結局、色々あって使用人たちと一斉に逃げ出したんだ」


 具体的に何があったのか、尋ねたいとはまったく思わない。幼い若葉にとってどれだけ怖かったか、想像するのは難くない。


「いやあ、あの時は心底すかっとしたよ。でも一度逃げ出した連中を受け入れてくれる場所なんてもう無い、それが世の常さ。遊郭なんてましな方で使用人の多くはその日暮らしで糊口をしのいだり、盗みに手を染めたりと散々だった。世を捨てて尼になった女中もいた」


 軽いノリで話す若葉だが、その目は笑っていなかった。当時はよほど辛かったのだろう。


 奉公人たちにとって商家や武士の主人はいわば身元保証人であり、転居や転職において推薦する役割もこなしていた。だが逃走するなどして主の庇護を失った者はまともな職にも就けず、残りの人生を落伍者として過ごすしか無かったのだ。


「あたいも山奥の尼寺を目指して歩いていたんだけど、途中で倒れてしまってさ。そこを通りがかった山賊の頭に助けられて、まあその後も色々あって山賊の娘として育てられてしまったんだよ。去年その頭も亡くなったから、今はあたいがその後釜を引き継いだのさ」


 彼女の言う「色々」の部分は本当に込み入っているようだ。先代の頭はきっと行動力と統率力を見込んで、幼い彼女を次の頭に決めたのだろう。


「兄さんとは密かに連絡を取り合っていたんだけど、川辺屋にそのことがばれてしまって。あんたがいなかったら、今頃白石屋は食い物にされていたかもしれないね」


 若葉が一通り話し終え、ようやく震えも治まった権六は再び口を開いた。


「栄三郎さん、私の行動は断じて許されるものではありません。ですがせめて、旦那様のお身体を良くするくらいのお返しはできないかと思い妹を訪ねたのです」


 そう言いながら兄は傍らに置いた木の箱をそっと俺の前に出した。


 大き目の重箱くらいの嵩かさで、権六は上の蓋を外す。


「これは……?」


 中身を見て俺は首をひねった。箱の中は細かく木枠で分類され、石のような骨のような、いずれも意味不明な物体ばかりだった。


 何の目的に使うのかさえわからない俺に、権六は説明した。


「堺で見つけた薬の原料です。その道に通ずる者でしたらこれらから薬を作れると思います。聞けば今白石屋には医者の方も出入りしておられるとか」


 宗仁さんのことか。確かに漢方医に詳しい彼ならこれらも有効活用できるかもしれない。


 堺は江戸時代でも上方貿易の中心地であり、日本はおろか長崎や対馬藩を通じ外国の物も集まっていた。特に朝鮮半島からもたらされる大陸の薬種やくしゅは貴重な資源であり、当時日本に持ち込まれたサイの角やイッカクの牙などには今なお大切に保管されている物もある。


「今まで働いた金でなんとかここまでそろえました。これを妹を通じて旦那様にお渡ししようと思ったのですが、ちょうどあなたがここに来られて……お願いです、どうか旦那様にこれをお渡しください!」


 途端、権六の目から滝のように涙が溢れた。


 止めどなく湧き出る男の涙に、俺はこの人は心底白石屋の店主を慕っていることを感じ取った。


「権六さん、あなたの想いは十分に受け止めました。必ずやお渡しします」


「ありがとうございます!」


 僧侶は深く頭を上げた。したたり落ちた涙の粒が、乾いた藁を濡らしていた。




 その後、権六は東へと旅立っていった。彼が近江へ帰って来ることはもう二度と無いだろう。

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