第十二章その1 いさかいの終わり

 大晦日を間近に控え、八幡の町は新年の準備に奔走する人々でいつも以上に賑わっていた。


 だが懐かしき白石屋はこの日、物々しい雰囲気に包まれていた。


 店舗に集まった大勢の人々は道まで溢れている。しかも全員が声を漏らすことも無く黙ったままじっと奥の座敷に目を向けていた。


 その床の間には俺と湖春ちゃんが並び、対面して川辺屋の店主と棟弥さんが座っていた。


「本当に……うちの者が迷惑をおかけました」


 川辺屋の店主は神妙な面持ちで歯切れ悪く話す。


 湖春ちゃんの喉がごくっと鳴った。いつも見ている近所のおじさんのはずが、こんな風に接してくるのは初めてのようだ。


「私は後世に店を残すため、思いつく限りの商売を行い弟子たちを育てました。ですが弟子の暴走を招いたのは他ならぬ私の監督不行き届きです。こればかりは言葉では謝罪し切れません。申し訳ありません」


 これまでと違い問題が大々的に明るみになった以上隠し通すのは不可能だと覚悟を決めたのか、店主は俺に向かって畳に頭を擦りつけた。


「私からも謝らせてください。栄三郎さんを危険な目に遭わせたのは私が不甲斐ないからです。いかなる罰もお受けいたします」


 続いて隣にいた棟弥さんも背中を折る。


 ふたりは背中から突き刺さる視線を感じているのか、いつもより身が小さくなっているようだった。


 この場にいたのは俺たち当事者だけではない。八幡に本店を置く商家の主たち、それに代官所の大本久道おおもとひさみちさんらを始め立ち合いの武士たち十数名が、襖を取っ払った別の座敷から事の成り行きを見守っていた。


 彼らはいわば証人だ。対外的に重要な決断を行うとき、こういった第三者を置いて公的な発表の場とすることも多かった。


 そしてそんな人々を招くとなれば、商人として決するものはただひとつ。


「頭を上げてください」


 俺は演劇のように、よく通る声をふたりにかける。川辺屋のふたりはしばし頭を下げたままだったが、やがてゆっくりと顔を上げた。


 これから起こるすべてを受け入れるとでも言いたげな、穏やかな目だった。


「幸い大きな怪我もありませんので私のことは心配しないでください。それよりも問題は川辺屋さん自身のことでしょう」


 続く俺の言葉にふたりは唾をのみ込んだ。湖春ちゃんも目を合わせるのが辛いのか、伏し目がちになっている。


 升衛門はじめ数名が役人に捕らえられ、さらには噂が広まり得意先からも納品を断られていた。そもそも幹部クラスがごっそりといなくなったせいで、川辺屋江戸支店は現在機能停止状態に陥っている。


 きっかけは俺の書状だが、遅かれ早かれ川辺屋内部のクーデターは発生していたのだ。大商家のスキャンダルはたちまち各地に広まり、時間が経つにつれ収束するどころかさらに別の根拠もない悪評まで立っていた。


 店主はぐっと拳を握りしめると、改めて背筋を伸ばし、宣言した。


「すべて私の責任です。今すぐこの川辺屋の看板を下げましょう。もう店は閉めます」


 列席した役人も商人も、皆黙って頷いた。武士の落とし前の付け方が自刃であるなら、商人の流儀は閉店だ。


「父さん……」


 隣の息子が小さく呟く。これが道理だと頭ではわかっていたであろうが、いざ店が無くなるとなれば棟弥さんも辛い。


 誰もが当然だと納得するような空気。それを切り裂いたのは俺だった。


「それは今一度お考え直しください」


 予め示し合わせておいた湖春ちゃん以外、その場にいた全員の時間が止まった。


 皆の視線を受けながら、俺は話し続けた。


「川辺屋さんは八幡でも一番の名士となっています。その店がある日突然無くなったとなればどうなるでしょう。多くの者が路頭に迷いますし、取引先も困惑します。各地への流通への打撃が大きすぎます」


「ですが――」


 川辺屋の店主が口を挟もうとしたその時だった。


「それは私も賛同しますな」


「拙者もでござる」


 後ろの座敷で次々と声が上がり、ざわめきが起こった。


 商人の一人が「あのう、どちら様で?」と声をかける。


「名乗り遅れて申し訳ない。私、日野の大葦屋の店主でして、栄三郎殿とは紀州徳川家印の椀の関係で共に商売を行っているのですよ」


「拙者は彦根藩より参った山根良房やまねよしふさと申す。彦根藩としても近江の大商家が突如いなくなるのは堪え難い」


 日野の大葦屋の若大将、そして彦根藩の剣豪山根さん。いずれも俺が今まで出会った人々で、商売仲間であり互いに利益を分かち合っている。


 同時に八幡の商人にとっても見逃すことのできない有力者たちであり、その発言の影響力は大きい。


「そうだそうだ!」


 機に乗じて代官所の武士である大本さんも立ち上がる。いつもはやや頼りない彼だが、この時ばかりは勇士に見えた。


「川辺屋は確かに良くない噂もあったが……でも、それでも長い間この八幡を日本の誇る商都として守ってきたんだ。おかげで八幡の町は大いに栄えたし、近江商人の名を全国に轟かせることができた。今回の不始末は許されることではないが、店を潰す必要は無い!」


 この八幡を治める武士として、重要な税収源である商家は保護したいのが本心だ。それは他の商人や近隣の藩としても同意見だった。彼らも川辺屋のおこぼれに預かっている側面が大きい。


 皆、川辺屋を憎らしく思いながらもいなくては困るものだと理解していた。ただそれを口にすることは道理にそぐわないと、正直に言うことができなかった。


 しかし被害者である俺は別だった。


「その通り、川辺屋の看板を外す必要はありません。そこで提案です。この機会に店を棟弥さんにお譲りしてはいかがでしょう?」


「は、はい?」


 一同がどよめいた。


 棟弥さんも店主も、目をぱちくりと開いている。


 被害者である俺が厳罰を望まないと言えばそれで済む。


 川辺屋の店主は確かに憎たらしいが、以前話し合ったように棟弥さんには川辺屋の後を継いでもらいたいと思っているのが正直な気持ちだ。


 白石屋と川辺屋とで協力関係を結べば、今まで以上に大きな事業に携わることもできる。


 綺麗事だと言われてもいい。甘ちゃんだと思われてもかまわない。お人好しにはお人好しなりの筋の通し方があるのだ。


 ただ八幡の町のダメージを最小にして、棟弥さんはじめ多くの人々を守る方法はこれだと、湖春ちゃんはじめ親しい仲の人々とも了承を得ていた。


「ですがそれではあまりに軽すぎるのでは?」


 比や汗まみれになって、川辺屋の店主が身を乗り出す。


 俺はゆっくりと首を振った。


「私はそれでかまいません。棟弥さんとは個人的な付き合いもありますが、彼は真っ直ぐな方です。そこは私が保証します。もし道を間違えそうになった時には、他の商人ともども引き戻しましょう」


「本当に……それでよろしいのですか?」


「何も問題ありません。商人は善良にして誠実であることがまず一番です」


 途端、店主の目から止めどなく涙がこぼれ落ちた。


 そして改めてゆっくりと、頭を下げるのだった。


「寛大なるお慈悲、深く感謝申し上げます」

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