第十八章その2 実りの季節

 つい先日までは夏の盛りだったというのに、そこを過ぎれば朝方には肌寒い風が吹き付ける。蝦夷では秋の到来は早いようだ。


 だが秋は大地の恵みの最も豊かな季節でもある。


 アイヌの男たちは川の上にカヌーのような大木をくり抜いた船を浮かべ、そこから先が鈎型になった長いもりを水面近くの魚影めがけてひっかける。


 別の場所では川を塞ぐ大型の網を張ったり、木でできた円錐型の仕掛けを水底に沈めている。


 いずれもアイヌ伝統の鮭漁だ。不平等な相場とはいえ、彼らにとっては島外の品を得るための貴重な交易品、表情は真剣そのものだった。


 琵琶湖の湖岸でも投網とあみやウナギ筒を使う漁師の姿をよく見たが、あちらにはさらにえりと呼ばれる巨大な定置網を仕掛け、湖水の流れと迷路で魚を囲網かこいあみに追い込む漁法もあった。


 蝦夷ではそこまでの大規模な漁業はまだ発達しておらず、遡上する鮭をターゲットに地道に捕まえる方法が主流のようだ。ちなみに北海道といえば地引網を使ったニシン漁が有名だが、あれは頑丈な巨大網が持ち込まれたさらに後の時代の話である。


 ともかく今は実りの秋、厚岸の港はいつも以上に人で賑わっている。


 そんな往来に出されたアイヌの簡素な店には、多くの人々が群がっていた。


「さあさあ、蝦夷の新たな名産、ジャガイモだよ!」


「西洋では広く愛される味! でも芽だけは絶対に取り除いてくれよ」


 ゴロゴロとした物珍しい異国の作物に感心する人々。その隣では大型の鍋でジャガイモを茹でる俺たち白石屋の面々。


 夏の初めに植えたジャガイモは無事に夏を越して収穫を迎えることができた。本来の旬の時期は逃してしまったが、ジャガイモは強い植物なので食糧としてはさほど問題は無い。


「ジャガイモってのもこうやって食えば美味くなるんだな」


 茹でたてのジャガイモを手に取って、はふはふと息で冷ましながら頬張るのは松前藩士の水牧さんだ。


「でしょう? さあさあ、今ならお試しに無料タダで! さあさあみんな寄ってくれよ!」


 カゲさんが高らかに呼びかけると、道行く人も続々と集まる。この人、農学者じゃなくて商人の方が向いているんじゃないか?


 この時代、ジャガイモは一般に調理法が広まっておらず、観賞用の作物として認識されていた。この感覚は現代に生きる人々にとって、ひょうたんと言えば観賞用が主流だが、実際には食用の品種も少数ながら存在するという事実に近いかもしれない。


「まさか蝦夷でこんな作物が獲れるとはな」


 和人に混じってアイヌの男も山積みにされたジャガイモに目をこらし、その表面をじっと観察している。


 俺はすかさずジャガイモをいくつか持って、男に歩み寄った。


「ジャガイモは寒冷地でも育ちます。よろしければ種イモをお譲りしますよ。来年の春に植えれば、3月ほどで収穫できます」


「それはいい、米の代わりになりそうだ!」


 男はそう礼を言って受け取った。


 それを見て俺も私もと人々が手を伸ばし、賑わいはピークを迎える。


「おやおや、日牟禮会の皆様ではありませんか」


 だがその賑わいもひとりの男の登場で一気に静まり返ってしまった。


 この厚岸の実質の支配者、大門屋の店主だ。


「お姿を見かけないと思っていたのですが、まさかこんな商品を生み出していたとは。これは驚きました、今まで昆布と鮭に頼っていたアイヌ相手の商売に新しい風が吹きましたね」


 わざとらしいくらいに腰の低いこの初老の男に、俺は「そう思ってくださったのでしたら大変光栄です」と丁寧に返す。


「いやいや、蝦夷の地でも農産物が得られるとはまさか思ってもいませんでしたよ。そこでこのジャガイモ、もっと蝦夷全土に普及させてみてはいかがでしょう?」


 大門屋は摘まれたジャガイモをひとつ手に取り、その表面を服の袖できゅっきゅと磨きながら言った。


「それについては私たちも考えていました」


「それなら話は早い! 種イモを私たちが買い取った後、うちの商船を使って蝦夷中に運ばせます。ええ、ご心配なく、大門屋は特別に蝦夷全土で商売をしても良いとの許可を松前様よりいただいておりますので」


「確かに名案ですね」


 俺は頷き返した。最終的に蝦夷全土にジャガイモの栽培を広めるのは、アイヌの食糧事情改善の一助となるだろう。


 だがこの男の魂胆はわかっている。種イモを俺たちから買い取った後、驚くほどの高値で別の土地のアイヌに売りつけるつもりなのだ。


「でしょう?」


 店主は思い切り口角を上げ、福助人形さながらの満面の笑みをこちらに向ける。


「ですがお願いがあります。それで種イモをアイヌの人々に売りつける場合、ジャガイモ1貫(約3.75キログラム)に対して鮭とば1本と交換することをお約束ください」


「な!?」


 俺の返答に店主は固まった。続く言葉が出ないようで、多くの人々に見守られながらも黙ったままだった。


 だがしばらく経った後、再び貼り付けたような笑顔に戻ると口を押えてほほほと笑うのだった。


「日牟禮会さんは冗談がお上手ですね。そのような価格では儲けが出ません、私たち商人が身を削ることになります。そもそも私たちが売りつける価格がそれなら、日牟禮会さんから買い取るのはもっと安くなってしまいますが、それでもよろしいのですか?」


「当然です。私たちは単に儲けるためだけにこの地に来たのではありません。この地で良き商売を行うために、アイヌの人々と一緒になって新たな商売の道を考えているのです」


 臆せず俺は淡々と返す。


 ついに店主はギロリとこちらに鋭い視線を向けた。


「そんな、この種イモだけでも十分、困窮するアイヌの人々に救いの手を差し伸べる素晴らしい商品ですよ。それをせっかく大門屋の所有する販路に乗せられるのに、よろしいのですか?」


 口と目を必死で笑わせる。だがこめかみはぴくぴくと小さく脈打っていた。


「ええ、せっかくですが」


 そんな店主の目をじっと見据え、俺はゆっくりと頭を下げる。


 直後、店主は無言のまま手に持っていたジャガイモをゆっくりと山の中に戻した。そして口をもごもごとさせながら俺の方を向くと「種イモの商売については時期尚早ですかな。では、皆様の繁盛を願っていますよ」と言い残して足早に去っていったのだった。


「はは、あの狸親父の驚いた顔、最高だな」


 姿が見えなくなった途端に手代の一人が言うと、店員にも客にも笑いが伝播する。


「俺も前からあの愛想笑いが気に入らなかったんだよ。はあースッキリした!」


 和人の商人であろう客のひとりが手を打って笑いを堪えている。


 利益最優先の大門屋の店主は利益になり得ないことなら絶対に見向きもしない。例え俺たちが優れた商品を開発しても、それで自身に利益がもたらされないとわかればすぐに手を引くはずだ。


 そう踏んで俺は出血覚悟の価格設定を強要してみたが、効果は絶大だったようだ。これであの店主も俺たちの商売に無闇に首を突っ込んでくることは無くなるだろう。


 だがそれ以上にアイヌに救いの手を差し伸べる、というその発想が俺には受け入れられなかった。まるでアイヌが和人に劣る民族のような言い回しではないか。


 少なくともこの北方の大地において、生き抜く知恵と勇猛さでは俺たちではアイヌの人々に及ばない。創り出す産物もアットゥシを始め、和人が真似しても簡単にできる物はないのだ。


「でも確かに、これを蝦夷中に運ぶのは大変だな」


 俺がぼそっとひとりごちると、次のイモを茹で始めていたカゲさんが能天気に返した。


「別に海を使わなくても、内陸にはアイヌしか知らない交易路もあるらしいぜ」


 さすがに冬の蝦夷の陸路はきついな。


「いずれにせよ今からでは冬になると海は時化しけますし、今年は近くのコタンに配る程度で十分でしょう。収穫に成功したとはいえ、来年はさらに畑の規模を大きくしたいので」


 苦笑い混じりに話していると、「いやいや、本当にイソリさんには助かりますよ」と聞き慣れた声が耳に届いた。


 棟弥さんだ。彼はイソリとチニタのアイヌ兄妹を連れて、厚岸湖の方まで出歩いていたのだった。3人とも両手で抱える大さの籠を持ち、その中にぎっしりと何かを詰めている。


「場所はチニタが教えたんだからね」


「もちろん、チニタちゃんのおかげだよ。本当にありがとう」


 えへんと胸を張る少女に、棟弥さんは微笑みかける。


「棟弥さん、どうでした?」


 人混みを掻き分けて俺が尋ねると、棟弥さんは至上の喜びの顔をこちらに向けるのだった。


「ええ、本当にピッタリでした。まさかこんなに手に入るなんて」


 棟弥さんが抱えていた籠の中を見せると、そこには湿った緑色の草のようなものが大量に入っていた。


「何です、これは?」


 こんな物何に使うのだとでも言いたげに、手代のひとりが目を丸くする。


「ミズゴケだよ。おがくずみたいにユリ根を包み込むんだ」


 俺は棟弥さんの籠に手を突っ込み、ひょろっと細長いコケを一本つまんでその柔らかい感触を確かめた。


 棟弥さんが発見したユリ根は現在栽培も順調に進んでいる。だがユリの球根は非常にデリケートで衝撃に弱く、傷つくとすぐに変色してしまう。乾燥、逆に湿りすぎにも弱く、店売りされる際にはおがくずといっしょに袋詰めにされているのが常だ。


 収穫を前に保管と出荷用のおがくずを探したのだが、おがくずは燃料としても重宝されるので梱包用に回せるだけの量が確保できず、かと言ってこれ以上の木を切るとこの地を管轄する木材商に何を言われるかわからない。


 そこで思いついたのが厚岸湖周辺の湿地に自生するミズゴケをクッション替わりにすることだった。


 園芸を趣味にしている方ならばミズゴケを触る機会も多いだろう。コケ植物の一種であるが吸水性に優れ、土を乾燥から守るため鉢植えに敷くことも多い、ぼろぼろとしたあの植物片だ。


 全世界の湿地で見られるミズゴケだが、殊に寒冷地では枯れた後も分解されずそのまま沈殿し、積もって残ることが多い。


 実はイソリらアイヌの人々は傷の手当の際にミズゴケを脱脂綿代わりに使うことがある。実際にこのアイデアも頭を悩ませている棟弥さんの隣で、指を切ったチニタの怪我をイソリが治しているのを見て思いついたらしい。


 他にも球根の保管や、余分な成分の含まれていないことからバーミキュライトの代わりに土壌改良にも使える。あらゆる面でユリ根栽培の心強い味方になってくれるだろう。


 当初はこの地で何を商品にするかも決まっていなかったのが、今では出荷の準備も着々と進んでいる。まだ1年目ということもあり決して大きな利益にはならないが、俺たちは至って充実していた。毎日毎日、物事の前進していく様子を肌で感じられてこれ以上無い喜びを感じていた。


「しかし冬の間はどうやって過ごそうか?」


 唐突にカゲさんが言うと、俺たちは再び現実に引き戻される。


 冬の蝦夷は海の名産を求め、厳寒にも負けず多くの男たちで賑わうのだ。特にこの厚岸ではたらの一本釣りと厚岸湖の牡蠣かき漁が熱いらしい。


 だが他の商人が漁業に勤しむ一方で、すっかりアイヌの人々と農業に専念していた俺たちは冬の間、これと言ってやることが無い。本土とは桁違いの寒さを前に、チニタたちアイヌの女性陣の紡ぎ出すアットゥシ織作りの手伝いくらいしかできることは無いだろう。


「冬は寒さが厳しすぎます。無理せず、ゆっくりジャガイモや鮭とばを食べながら乗り切るのが一番ですよ」


 にこやかに笑うイソリの言葉に、俺は「それもそうだね」と頷き返した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る