第十七章その2 大地の恵み

「さあ召し上がれ!」


 祖父母、両親、そしてイソリとチニタの兄妹というアイヌ一家に囲まれての夕食は、それは楽しいものだった。


 俺はイソリが手伝ってくれたお礼にと、商品として持ってきた米の一部をこの集落に贈った。当然これは雇い賃には含まれていない。


 だがそうとなればもらいっぱなしにしないのが大自然を生き抜いてきたアイヌの人々、イソリのチセに案内され、あっという間に焚き火を囲んでの食事が用意されたのだった。


 イソリのお母さんが腕をふるい、その米を早速他の雑穀や木の実と混ぜて煮込んだお粥を作り、さらに鹿の干し肉までご馳走してくれた。


「うはあ美味い、久しぶりの米だぁ!」


 一家と肩を並べたカゲさんこと佐藤さとう信景のぶかげさんも嬉しそうにお粥を掻き込んでいる。彼は一家の居候も同然だった。


「カゲさんってばすっかりコタンの生活にも馴染んじゃって」


「すまないねえチニタちゃん、ろくでなしの食い扶持が一人増えちまって」


「いいわよ、家族が増えたみたいだし。それにこの綺麗なお椀、全部カゲさんがくれたんだから」


 チニタが自分の使っている椀を高く掲げた。


 本土でも相当に高価な漆器だ。ここに初めてきたとき、厄介になる代金として一家に贈ったのだろう。


 だがこれほどの漆器を用意できるのなら、信景さんの実家は相当な金持ちではないのか?


「そういえば信景さんはどうして蝦夷に?」


 気になった俺が尋ねると、信景さんは食事の手を一旦止めた。が、すぐにへっへと笑って「ああ、俺のことは気軽にカゲさんて呼んでくれよ」と返した。


「俺の家は代々、出羽でわの国ではそれなりに名の知れた医者なんだが……何するにしても、医学や農業で成功した爺さんたちとな、どうしても比べられてしまうんだよ。で、今まで誰もしてこなかったことをやろうと思って、はるばる蝦夷まで来たわけよ」


 陽気に語るカゲさんだが、その表情にはどことなく影が差していた。


 なるほど、エリートの家の子はエリートなりのプレッシャーがあるようだ。


 出羽の国と言えば東北の日本海側、冬は雪に閉ざされる厳しい自然環境である点は蝦夷と同じだ。


 だが蝦夷の寒さは桁が違った。雪の量云々よりも高緯度と寒流である千島海流の影響で、冷え込みの厳しさが凄まじく跳ね上がる。


 出羽でうまくできたのだからと意気揚々とこの地に来たものの失敗の連続で、さらに松前藩に納める場所代すらも払えず、カゲさんの心は折れる寸前ではないだろうか。


「ところで父さん、お腹の調子が悪いって言ってたよね。ほら、カムイケウキナを摘んできたから、飲んだらいいよ」


 黙々と粥をすすっていた父親に、イソリが懐から何本か植物を取り出して見せつけた。緑の茎と小さな葉っぱの、葉脈が随分とはっきり浮き出ている以外は取り立てて注目することは無さそうな見た目だ。


 採集中イソリが話そうとしたところでちょうどチニタがやって来て、詳しく聞く前にうやむやになってしまったあれだ。


「そういえばそのカムイ……ケウキナって、何ですか?」


「胃の薬になるのです。よかったらどうぞ」


 イソリがその内の一本を俺に手渡す。


 試しに鼻に近付けて匂いを嗅いでみる。不思議なことに、歯磨き粉にも似た刺激のある仄かな香りが漂っていた。ハーブの一種のようだが、どこかで嗅いだ匂いだな。


 俺は以前宗仁さんがやっていたように葉っぱを一枚手にはさむと、平手でパンと打ち合わせた。


 再び鼻を近づける。今度はその香りがさらに濃厚に、より強く俺の鼻孔を突き刺した。そして同時にはっきりと記憶が呼び起こされた。


「そうか、これハッカ(正式にはエゾハッカ)なんだ!」


 お菓子のドロップでもおなじみの、あのハッカの匂いだった。小さい頃は他の甘い味と比べてハズレのように思っていたが、いつの間にか一番好きになっていた人も多いだろう。


 そういえば北海道はかつて世界有数のハッカの生産地だった。特に北見きたみ市はハッカの一大名産地として知られ、精製したハッカ油を世界中に輸出していた。


 米も育たぬ厳寒の北海道だが、ハッカは寒冷地でも栽培可能なので広大な農地が整備された。ちなみに後の時代に栽培されたハッカは古来より日本に自生する品種ではなく、品種改良などで生産性の大きく高められたものである点には留意しておきたい。


 中学の頃に家族旅行で北海道を訪れた時、一面に広がるハッカ畑を目にした思い出がありありと蘇る。お土産に買ったハッカ油の入浴剤を間違って大量に入れてしまい、風呂を上がった途端、真冬の夜に裸で放り出されたような寒気を感じたのは今でも定番の笑い話だ。


 適地適作の発想はこの北海道の産業を大いに盛り上げただろう。人々は思い通りにならない自然を相手に立ち向かうのではなく、逆にその気候を利用し、工夫を重ねてしたたかに生きてきたのだ。


「そうだよ、この蝦夷じゃあ米の栽培はまず難しい。でも何も作物が育たないわけじゃない」


 気が付けば俺は力説していた。皆、匙を持ったまま俺を見て固まっている。


「この寒さにも耐えられる作物を育てて、それを売ればいいんだ! うまくできれば高価な米を買わなくても食糧の確保ができるし、希少な商品にすれば和人相手にも優位に立てるはずだ」


「そんなこと言われてもなぁ。米に代わる作物って、何があるかねぇ」


 カゲさんが吐き出した。ここに来てから尋常でない努力を重ねて来たものの一向に報われてこなかった彼の言葉には諦観の念も込められていた。


「例えば……そうだ!」


 俺は手を打った。ちょうど良い作物が手元にあったのに気付いたのだ。




 翌日、数人の手代を引き連れた俺を見てチニタは感激していた。あまりコタンの外に出たことが無いのだろう、一度にこれだけ多くの和人を見たのは初めてのようで、興奮して手代たちを質問攻めにしていた。


 だが一方で出羽のカゲさんは俺の持ってきた物を見て目を丸くしていた。


「なんだよこれ、ただのジャガイモじゃないか。これは毒だぞ、アイヌたちを殺すつもりか?」


 俺が持ってきた袋には新潟で購入したジャガイモが入っていた。自分たちで植えようと思っていたのだが、必要としている人に提供する方が有用だろう。


「いいえ、毒があるのは芽の部分だけです。そこさえ取り除けば寒い土地でもすくすく育つ、本当に優秀な作物なのですよ」


 実際にドイツやアイルランドのような小麦の育ちにくい寒冷地では、ジャガイモは今なお主食として扱われている。現代でもスナック菓子の工場は北海道に集中していることから、北海道が日本のジャガイモ生産においてどれほど重要な位置を占めるかは言うまでもないだろう。


「誰から聞いたんだ、そんな話?」


「長崎でオランダ人から」


 もちろん嘘だ。高砂屋の主人ならともかく、俺のような外部の者がオランダ人と接触できるほど出島の壁は薄くない。


 だが信じ込ませるにはなかなかに説得力を持った論拠であったようだ。


「じゃあ仕方ない。あんたを信じてやってみるよ」


 もうどうにでもなれという思いもあったのだろう、カゲさんは俺から袋を受け取った。


「サブさん、カムイケウキナを集めてきました」


 そこにイソリと2名の手代が根っこごと取ってきたエゾハッカの株を籠一杯に入れて帰ってくる。北見ハッカの成功に倣って、このコタンでもハッカを栽培できないか試してみようと思ったのだ。


「ハッカの栽培法なら聞いたことはある。確かにこれなら売れば買う奴はいると思うが……果たしてうまくいくかねぇ」


 鍬で畝を作りながら、カゲさんが苦笑いする。


 この時代、ハッカの栽培は一部で始まっていたらしい。薬用として頻繁に使われていたようだ。


「まずはやってみましょう、チャレンジ精神ですよ!」


 俺は包丁でジャガイモを半分に切りながら力強く言った。だがそこで皆が一様に顔を見合わせる。


「ちゃれんじ? そんなアイヌ語、聞いたこと無いぞ」


「私も。お兄様、知ってる?」


「いいえ、私も知りません。どこの部族の言葉ですか?」


 そろって首をひねる一行に、俺は「お、オランダ人から聞いたんだ!」と慌てて誤魔化した。

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