3.夜道

「てめえっ! 凛子に何しやがる!」


 伊織は叫び、座席を倒して体を乗り出した。腕を伸ばしたところを井村さんに押さえつけられる。滅茶苦茶に揉み合い、伊織は井村さんに張り手を食らわせた。

 その伊織の姿を見て、私の体がすっと動いた。怜様の腕から離れようともがく。ドアを開けようとするが、取っ手を動かしても開かない。なおも開けようとしたところを怜様に捕まれ、押さえつけられた。近づく怜様の顔から体を逸らす。言葉にならない叫び声が口から溢れる。片腕で抱いた赤ちゃんが大声で泣き出す。ドアの方を向き、取っ手に手を掛ける。


 その時、何かの割れる大きな音がした。それと同時に怜様の手の力が緩む。

 首を動かす。

 助手席側の窓ガラスが割られている。

 振り向く。


 体を乗り出した伊織が、井村さんに押さえつけられながら、ガラスの破片を怜様の喉元に当てていた。


「凛子を離せよ」


 怜様を睨み付ける伊織の顔。

 何度か見かけたことのある、荒んだ目つき。

 喉元にガラス片を当てられながら、怜様は感情を失った声で言った。


「あなたは今、圧倒的に不利な立場にいるのが分かっているんですか」

「分かってんよ。でも知るかよそんなもん。いいから凛子を離せ」

「分かっているなら黙って見ていなさい。彼女はもともとそういう運命なん」

「てめえの若さのために凛子は生きているんじゃねえ!」


 井村さんに背後から引っ張られ、怜様の喉元からガラス片が離れた。


「もし凛子の命を奪ったら、俺はこの場で命を絶つ」


 今度は手にしたガラス片を自分の首筋に当てる。


「そうなりゃ秘密は分からずじまいだ。いくら老いない体を手に入れたって、いずれ秦家は叶家を飲み込む。そのうえ『掬い上げを手に掛けた』っていう格好悪い噂も流れるかもな」


 怜様に向かって、唇を歪めて笑う。


「やめて! 命をって、何言ってんのよ!」


 私の叫び声と、赤ちゃんの泣き叫ぶ声が、割れたガラスから外に溢れる。

 怜様は視線を外し、少し俯いた後、顔を上げた。


「……伊織の持つ情報の質によります」


 怜様の言葉に、伊織と井村さんの動きが止まった。怜様が軽く息をつく。


「取り敢えず今は伊織の言う場所へ行きましょう。そしてその秘密がどれだけの価値を持つかこの目で確かめます。もし、成熟した血の『花嫁』を手放す価値のあるものであれば、二人を解放します。ただし、その価値がなかったり、私を謀ったりした場合は、容赦しません。どうです。これなら文句の言いようがないでしょう」

「叶様! それでは半ば伊織の言いなりみたいなものではありませんか!」


 井村さんが体を乗り出して反論した。伊織は怜様の言葉を受けて、少し沈黙し、ガラス片を持つ手を下ろした。


「はい。文句はありません。目的の場所には、この大きさの車は停められないので、ここから歩いて行きます」

 

 井村さんが小さな声で悪態のようなものを呟いた。だが怜様の一瞥を受け、黙ってドアに手を掛ける。

 誰もが不満を抱えた様子で、車から降りた。

 赤ちゃんが泣き続けている。私は両手で抱き直し、そっと揺すった。

 助手席から伊織が降りる。立ち上がった時にぐらりと体が揺れたので、支えようと近寄った。だが、微笑んでやんわりと制されてしまった。


 繊細で、どこか悲しげな微笑。

 さっき、窓ガラスを割り、井村さんを叩き、強い口調で怒鳴っていた人とは別人みたいだ。

 あの姿を思い出し、今の姿を見て思う。何と言ったらいいのだろう、うまく言葉に出来ないのだけれども。


 これから伊織と一緒に歩いていくのなら、この、彼の奥に潜んでいる、あまりにも脆く鋭い『強さ』から、彼自身を私が守らなければ。




 暗い道を歩く。私と伊織のすぐ後ろに怜様と井村さんが続く格好だ。

 赤ちゃんは落ち着いたのか、大人しくしている。歩きながら伊織は扉のことや向こうの世界のことを話したが、怜様も井村さんも信じていないようだ。


 いつの間にか風が止んでいた。規則的な足音が、星のない空に吸い込まれていく。


「伊織」


 背後から怜様が声を掛ける。伊織が振り向いた。


「あなたの凛子への恋慕の情は、薄々気づいていました。ですが、どうしてこんな、大して美しくもない愚かな女のために、ここまでするのですか」


 大して美しくもない愚かな女、か。

 怜様は、私をそう見ていたんだ。

 そうだったんだ。


 怜様の言葉に伊織が眉を顰めた。


「それは、凛子だからです。凛子だから愛している。それだけです」

「言葉になっていませんよ。簡単に愛などと言いますが、それは恩を仇で返し、屋敷を抜け、命を懸ける程のものなのですか」

「そうです」


 伊織は私を少し見て、前を向いた。

 暫くの間ののち、口を開く。


「これから向かう世界には、吸血族が存在しません。人間の血を糧にする似たような架空の存在を、向こうでは吸血『鬼』と言います」

「なんだよそれ。失礼な話だなあ」


 井村さんが不満そうに呟いた。伊織はそれには答えず、話を続けた。


「俺は凛子を愛しています。凛子のためならなんだってする。吸血鬼は架空の存在ですが、俺は凛子を守れるなら」


 息をつく。彼の白い息が、闇に溶ける。


「幾らでも、鬼の道に堕ちます」


 伊織の言葉に、怜様は言葉を返さなかった。

 夜の道に、靴音だけが響く。




広場から倉庫まで距離がある。怜様と井村さんは、二人でぼそぼそと話し始めた。今回の怜様の対応を、井村さんが遠回しに非難しているようだ。


 夜明け前の、一番寒い時間。

 赤ちゃんは時折手足をばたばたさせるが、おとなしくしている。本当は生まれて間もない赤ちゃんを、こんな寒い外に出してはいけないのだ。なるべく外套でくるむように抱っこする。


「伊織、さっきはごめんなさい」


 私の言葉に、彼は首を傾げた。


「秘密を教えるなんて、勝手なことを言って」

「ううん。これしか方法はなかったと思う。出来ればこの手は使いたくなかったんだけど、結果的に、今、こうやって落ち着いているし。だから感謝しているよ」


 そう言って笑ってくれたが、私は複雑な気分だった。

 確かに、今の状況は落ち着いている。このまま農場の人に見つからないよう無事に向こうの世界に行き、怜様があの世界を見れば、解放される可能性は高いだろう。だが、それで済む話でもない。


 吸血族の怜様が、向こうの世界の存在を知ってしまう。

 怜様が誘拐に手を染めるとは思いたくないが、吸血族が向こうの世界の存在を知り、利用するのは、良いことのように思えない。

 向こうの世界にとって、吸血族は「いてはならないもの」だ。


 やはり、向こうに行ったら、どうにかしてあの扉を塞がなければ。




 もう暫く歩くらしい。赤ちゃんを抱っこし続けていると、少しずつ腕や脚が痛くなってくる。伊織が履いている、いかにも楽そうな向こうの世界の布靴が、心の底から羨ましい。


 大きな民家の前を通った時、伊織が立ち止まって呟いた。


「あ、椿」


 彼の声に顔を上げた。

 民家の低い塀の向こうから、椿の木が枝を広げている。艶やかな葉に抱かれた紅い椿の花が、街灯の光を受けてひっそりとこうべを垂れていた。


「本当だ。椿。紅い椿だね」


 伊織を見上げる。

 微笑みあう。

 あの日の朝、花園で交わした会話と想いを思い出す。


 ああ、どうしよう。

 こんな状況なのに、凄く苦しい。

 好きの気持ちで胸が潰れそうだ。


「嶋田は、散々反論していたんですよ」


 いきなり浴びせられた怜様の声に、あたたかな胸が一気に冷えた。


「彼には秦家の秘密云々は話していませんでしたが、伊織が脱出する可能性は、ある程度考えていたみたいですね。ですが、まさか『花嫁』を連れ出すとは思っていなかったようです。伊織はそんなことはしない、凛子さんは散歩に出ただけだ、僕は伊織を信じている、と随分長い時間言い続けていました」


 伊織の顔から微笑みが消えた。表情を失った端整なだけの顔で、黙って歩き続ける。


「孤児院の見張りは、彼自ら手を挙げたのですよ。それがどういう気持ちからかは分かりませんが、もしかしたら、『一晩中見張っていたが、伊織も凛子も来なかった』と私に報告したかったのかもしれませんね」


 怜様、なんで今、嶋田さんの話を始めたんだろう。


 伊織の性格からして、こう言えば彼の感情に揺さぶりをかけられるかもしれない。だからだろうか。

 怜様も嶋田さんも、伊織がお屋敷を脱走したこと自体は、「やはりやったか」と思っているのが見える。二人とも、より重く考えているのは、『花嫁』を外に逃がしたことのようだ。

 怜様が拳を上げたのも、今、こんな話をしているのも、『花嫁』を逃がしたことによる怒り、なのだろうか。


「嶋田さんには嫌な思いをさせてしまったと思っています。ですが、凛子を救いたいという俺の気持ちは何も変わりません」


 伊織は感情の振り切れた無表情のまま、淡々と答えた。


「嶋田さんには、少しだけ算盤と帳簿記入を教えました。ですから俺がいなくても大丈夫だと思います」

「知っているよ。でもな、あれも結構傷ついたみたいだぞ。僕に算盤を教えたのは、執事になるのを助けてくれるためじゃなくて、逃げるためだったのかーってな」


 井村さんの言葉に伊織は答えなかった。

 多分、伊織は本当に嶋田さんに執事になって欲しくて、算盤を教えたのだと思う。だが、今、それを言っても、言い訳にしか聞こえないだろう。


「執事、ね」


 怜様は呟き、ふっと笑い声を漏らした。


「半吸血族を執事にしなければならない程、叶家は落ちぶれていませんよ」


 その言葉に、伊織は勿論、井村さんも答えることはなかった。そして怜様もそれ以上言葉を繋げなかった。


 無言のまま、歩き続ける。

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