2.農場からの脱走(1)

「な……何言ってんの!」


 突拍子もない伊織の提案に、私は思わずひっくり返ったような声で叫んだ。


「無理だよ、すぐに捕まるに決まっているよ」

「声大きい。大丈夫だ、皆が眠ってから抜け出そう」

「抜け出せたって、その後どうするのよ。先生達がいつも言っているじゃない。農場の外は怖いって。ちゃんとした家に貰われない農場の子は、貧民窟で血を売って生きているって」


 小さい頃から何度も聞かされていた。農場でちゃんと生活していれば、きちんとした家に貰われて、その家の使用人をしながらたまに少し血を吸われるだけの、安定した生活が待っていると。だけどそうでなければ……。


「あんなの大袈裟に言っているだけに決まってんだろ。ちょっと考えれば分かるじゃないか。外で生活する大多数の人間は、商売や勤め人なんかをして生きているんだよ。俺は字も読めるし、金勘定も出来る。間違っても凛子に血を売らせるようなことはしない」


 彼は私に、外の社会のことを色々話してくれ、大丈夫だと言った。農場の外に出ない女子と違い、伊織は作業やお使いなんかで結構外に出ることがある。だから私よりは色々分かっているのだろう。話を聞いていると、つい大丈夫な気がしてきてしまう。


 だが、やはり、逃げる、なんて。

 それに。

 そう。それ以前に。


「でも私、まだお仕事なんて」

「そんなもの、俺が働く」

「俺がって、そんな……。そんな、だからさ、そこだよ。翡翠なのは私なんだよ。伊織は貰われる家が決まっているんだよ。なのになんで、なんで……なんで、伊織は」


 月明りを浴びる、彼の潤んだような目を見つめた。


「私のために、そんなことをしようとしてくれているの?」


 見回りをする先生の靴音が聞こえた。だが、先生は物置の扉を開けることなく通り過ぎる。伊織は扉の向こうから靴音が聞こえなくなると、私の方を見つめ直して言った。


「凛子を死なせたくない。吸血族に触れさせたくない。そのためなら俺は、なんだってする」

「にしたって、私のために伊織、大変な目に遭うかもしれないんだよ? 何もしなければ、平和に暮らせるのに。私、伊織の人生をめちゃめちゃにしたくないよ。ねえ、なんで」

「んなの、決まってんだろ」


 私の言葉を遮った彼は、そこで言葉を切り、視線をあちこちに向け、息を呑み、私を見つめた。


「凛子のことが、好きだからだよ」


 いきなり「好き」なんて言われて、思わずどきりとしてしまった。いくらなんでもこの言葉は、女の子としては衝撃が強い。まるで愛の告白みたいだ。


 分かっている。伊織には私以外の友達がいない。だから、私が「好き」なのだ。

 そこまで、大事に思っていてくれたんだ。

 彼の深い気持ちに触れ、心がじんわりとあたたかくなる。


「ありがとう」


 彼が微笑んだ。その微笑みを見て、また心臓が騒ぎ出しそうになる。だから違うって。私は腕を組んでわざと少し怒ったような口調で言った。


「でもさ、いきなり『好き』なんて言うから、一瞬びっくりしちゃった。やだもう、私が変なふうに誤解しちゃったらどうするつもりだったのよう」

「変……な?」


 私の言葉を受け、伊織は何かを考えるように少し目を動かした。


「まじか……」


 そして長く深い溜息をついた後、がくりと膝に手をついた。


 あ、今、結構恥ずかしい事言っちゃったかもしれない。どうしよう、命にかかわる真剣な話をしているところだったのに。


「ごめんごめん、冗談だよ、なんとも思っていないからに受けないで」


 慌てて手を横に振り、早口で言ってみる。


「ありがとう。凄く嬉しい。そんなに私の事を考えていてくれたなんて」


 私は、不思議な表情をしながらのろのろと顔を上げた伊織に向かって微笑みかけた。

 ちょっと恥ずかしいけれど、やっぱり伝えた方がいいと思う。頬の火照りを笑顔でごまかし、背の高い彼を上目遣いに見て、言った。


「伊織、大好き」


 彼は私の言葉に少し身を引いたが、俯いて微笑み、私の頬に細く長い指を滑らせた。

 柔らかな彼の唇が、私の頬に触れる。たまに彼がする親愛表現なのだが、「好き」なんて言葉の後だと、やはり少しどきどきしてしまう。

 だからなのか、今日の彼の唇は、いつもより熱い気がした。


三つ刻になったら、ここに来て。じゃあ」


 微笑みを消し、堅い表情でそう言った後、彼は自分の部屋に戻っていった。




 自分の事で、彼を危険に巻き込みたくない。この先、ちゃんと生活できるかも分からない。そう思っていたはずなのに。

 未熟で愚かだった私は、何故か彼の言葉を受け入れた。


 受け入れてしまった。




 農場を抜け出した私達は、廃ビルの一室で夜を明かした。

 外に出ようとした途端、目の前に警官の黒詰襟服があった。慌てて隠れる。警官が通り過ぎる。気付かれなかったようだ。伊織と顔を見合わせ、息をつく。


 そろそろ朝食という時間だったのだろう。辺りには肉と香辛料と古い調理油の臭いが漂っていた。

 気持ち悪い。『農場』の厨房のにおいとは違う。

 農場では、血がまずくなる食材は使わない。だから私は、生まれてから一度も肉やくん(葱や大蒜にんにく等)、刺激の強い香辛料を口にしたことがない。

 でも、農場を逃げ出してしまった以上、これからはこんな臭いのするものを食べなければならないのだ。


 私はまだいい。でも、食が細く、体の弱い伊織に耐えられるわけがない。

 やっぱり、帰ろう。私のために、伊織を犠牲にしてはいけない。


「ねえ、ごめん、やっぱり帰ろう。逃げ切れないよ。伊織だって、おとなしく鳳家に貰われた方が絶対いいもん。私はもういいから」

「いいわけないだろ。凛子は『翡翠』なんだ。貰われたら、最期だ」


 路地の方を伺っていた伊織は、振り返るなり厳しい口調で囁いた。

 彼の柔らかな茶色の髪が、射し込む朝日に照らされて金色の輪郭を描く。女の子みたいな顔とは不釣り合いな、骨ばった大きな手が私の肩を掴む。


 知らなかった。

 いつから彼の手は、こんなにも力強くなっていたのだろう。

 

「凛子が吸血族なんかに食われてたまるか。凛子は、なんとしてでも俺が守る。なんとしてでも、だ」

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