3.言い争い

 伊織が外に出てどの位経っただろう、騒がしい声が聞こえたので廊下に出てみると、階段の上あたりで怜様と美那様が言い争いをしていた。

 美那様が一方的に騒いで怜様がのらりくらりとかわす、という光景はたまに見かけるが、今日は怜様も険しい顔をしている。どうも、さっきの「お見舞いする、しない」で、またもめているようだ。


「秦家秦家って、私はここに嫁いでいるんだし、実家と話す機会なんか殆どないんだから関係ないでしょ! それにご隠居様が、そんなに私の事を避けていると思えないんだけど!」

「どういう風の吹きまわしなのかな、美那さんがそこまで義父思いだったとは知らなかったよ。私が美那さんの優しさに気づけていなかったのか、それとも昔、何かあったのか」


 二人の姿を見ていると、また、あの心のざらつきが蘇る。私は今、二人の前に姿を現すべきじゃない。部屋に戻ろうとした時、美那様が大声で何かを叫びながら、手で顔を覆って走って来た。

 急いで廊下の端に寄ったが、前の見えていない美那様を避けきれず、軽くぶつかってしまった。


「や……っ」


 私にぶつかった拍子に美那様がよろめいた。それと同時に足元から「ゴキ」という音がする。


「なんなのよ。もう、やだ……!」


 廊下に座り込んだ美那様の足元には、四寸くらいある靴の踵が、無残な姿をさらして転がっていた。美那様は両掌で何度か床を強く叩き、私の事を睨み付けた。

 長い睫毛に縁どられた、華やかな紅い瞳が潤んでいる。


「大丈夫ですか……」

「大丈夫なわけないじゃないの、足ひねったんだから! 手を貸しなさいよとろいわね!」


 今の「大丈夫ですか」は、足のことを言ったのではないのだが、そんなことは言えない。私は靴と踵を持ち、美那様に肩を貸した。


「あの、取り敢えず私の部屋に来ませんか? どうしよう、今、伊織も嶋田さんもいないですけど」


 立ち上がり、ふと、さっきまで怜様のいた場所を見ると、既に怜様の姿はなかった。

 美那様が転んだところ、見ていなかったのかな、と思う。


 


 自分の部屋なのに、物凄く居心地が悪い。ストーブの低い音が、やたらと大きく聞こえる。

 美那様は私の部屋のソファに座り、ぶつぶつと文句を言いながら足首をさすっていた。

 だが私は、美那様の足を案ずるより、どうしても怜様の目の前で私の気持ちを晒された事を思い出してしまう。ぐつぐつと濁った怒りが湧き起こり、先程の光景の不快感と合わさり、胸の中が重苦しくなる。


「いい匂いね」


 美那様は顔をあげ、ぽつりと言った。


「人間の部屋は食べ物や体臭のせいで臭いのに。あなたの部屋は草や花の匂いがする」


 私の重苦しい心をよそに、彼女の口からいきなり好意的な言葉が出て来て、一瞬どう切り返したらいいのか分からなかった。


「ええと……ありがとうございます。これ、多分、伊織が淹れたお茶とか、焚いた香草とかの匂いだと思います。伊織、私の体調とか、気分とかに合わせて、香草とか、刺激の弱い香辛料とかを混ぜて、毎日色々作ってくれるんです。私が何も言わなくても、その時私が一番いい匂いだと思うものや、一番おいしいと思うものを作ってくれて。なんで分かるのか、よく分からないんですけど」


 話している途中から、別にここまで説明する必要はなかったと思ったが、美那様は私の話を最後まで黙って聞き、すっと目を細めた。


「あの子、やっぱりそうだったんだ。全く、不憫だこと」

「は?」

「何その失礼な口のきき方は。なんでもない。あなた、前々から頭悪いと思っていたけれど、まさかここまでとは思わなかったっていう話」


 失礼だけれど言い返せない事を言われ、私は唇を強く結んで俯いた。美那様の棘のある言葉が続く。


「そういえば、もう三月みつきを切っているんでしょ、あなたが主人に食べられるまで。よく平気よね、毎日のほほんとしていて。私の食べた翡翠なんか、この時期大騒ぎして大変だったわよ」

「あ……え、と」


 箱の中に固く押し込めていたものを無理矢理こじ開けられたような気分に、言葉が詰まる。やっぱり、そういうものなんだ、と少し思う。


「それは勿論、怖いです。でも……なんというか、五年も経つと、だんだん麻痺してくるというか、実感できなくなってきたというか、考えられなくなってきて、怜様は優しいし、苦しまないようにするって仰っていたし、それにここ暫くは伊織が来たりして、伊織がいると、なんでなのか安心しちゃって、それだけで怖い感じが薄くなるというか、その……」

「もういい。話長い。分かった。要するにあなた、全てにおいてものを考えることを放棄しているわけね。私の一番嫌いな人種だわ」


 美那様は捻った足首をぐるぐる回し、軽く頷いた。靴を脱ぎ、ソファから立ち上がる。

 腕を組み、私を睨みつける。


「あなたは自分の置かれた状況をそのまま受け入れて何もしない、何も考えない。命の危機でもあがかない。人の好意も理解できない、主人を好きになっても顔赤くするだけでなんの行動もしない。その程度の人間よね。今の私と主人のやり取りだって、何していたんだろうーって思うだけで、それ以上考えられないんでしょうね、あなたみたいな人は」


 そこで一旦話を切り、軽く溜息をついた。

 急に始まった美那様の話に、最初何が起きているのか訳がわからなかった。だが、否定的な言葉を掛けられた事に対する突発的な怒りが収まると、徐々に美那様の言葉のひとつひとつに、心の隠れた部分が深くえぐられる。

 怒ることすら出来ず、ただ、立ち尽くす。


「あなた、主人を独占したいとか、主人のために何かしたいとか、考えたことある?」


 独占は思っていないが、何かしたいとは思っている。だって私はいつも怜様の好みに合わせて外見を整え、血の味に気を配っている。

 と、そこまで考えた時、気づいた。


 あ、違う。

 私は怜様のためにやっているんじゃない。


 「こうしなさい」と言われたから外見を整えているだけ。

 小さい頃から「血の味に気を配りなさい」と農場で言われてきたから習慣になっているだけ。

 私は、「怜様のために」と自ら考え、何かをしてはいない。


「……あ、その感じだとなさそうね。じゃあ何、あなたの『好き』って、その人を見て顔赤くして好き好きーって思うだけのものなの? どう? ……そうなのね。あなた、本当にばかね。あのね、今、あなたは私の敵でも脅威でもないことがよーく分かったわ。まあ、貧相な餌だから最初から勝負にならないけれど。うん。それが分かっただけでも、足を捻った甲斐があったかも」


 美那様は赤く彩った唇を吊り上げて嗤うと、両方の靴を優雅につまみ、軽く首を傾げて扉に向かった。

 その時、お遣いから戻った伊織が部屋に入って来た。眉間に皺を寄せ、険しい表情をしていたが、美那様の姿を認めて丁寧にお辞儀をした。


「あ、奥様、靴を」

「いいのいいの。靴折って足捻ったけど、お喋りしていたら治っちゃったし。あなたはせいぜい、報われない奉仕でもしていなさい」


 もう、これ以上話を聞くのが堪えられない、一刻も早く部屋から出て行ってくれと念じていたのに、美那様は扉の所で「あ」と言って私の方を見た。


「そうだ、さっきの主人との話は大したことじゃないのよ。あなたの頭で下手に詮索されても困るから一応言っておくわ。主人がね、私にご隠居様のお見舞いをさせてくれないの。ご隠居様が私に会いたくないって言っているらしくって。秦家の者の顔は見たくないんだろうって言うんだけど、そんなのひどいわ。だって、私にとってご隠居様はお義父様だし、そもそも私やご隠居様が小さかった頃は、秦家も叶家も同じようなものだったんですもの」


 最初、美那様の話している意味が分からなかった。だが、五年もこのお屋敷にいて初めて知った事実に衝撃を受け、さっきまでの言葉が一瞬吹き飛んでしまった。

 誰も教えてくれなかったし、私自身考えてもみなかった。美那様の外見から、すっかり怜様と同年代だと思い込んでいたから。


 美那様はにこやかに話していたが、紅い瞳は潤み、語尾が微かに震えていた。


「ご隠居様、昔はあんなに頑固じゃなかったのよ。それほど仲が良かったわけじゃないけど、私にとって弟みたいなものだったの。なのに主人ったら、勢いに任せて私とご隠居様の仲を勘ぐるようなことまで言うんですもの。ふふ、はたから聞いたらばかばかしい夫婦喧嘩よね。じゃ、ごきげんよう」

 



 美那様の出ていった後、伊織は扉を閉じ、そのまま扉の前で立ち尽くしていた。


「ねえ」


 声を掛けたが、返事をしてくれない。


「おかえりなさい。お疲れ様」


 軽く頷いた様にも見えたが、やはり立ち尽くしたままだ。


「お遣いどうだった? ねえ、今の美那様の話、知っていた? 私、実は知らなかったの。それはそれで凄いけどさ。もう、びっく」


 話し掛けながら伊織の顔を覗き込み、言葉が途切れた。


 床の一点を見つめている。

 聞き取れない言葉を呟いている。

 上着のポケットを強く掴んでいる。


「いお……」

「えっ」


 そこで彼は初めて私が近くにいることに気づいたらしく、ふっと顔を上げてこちらを見た。


「大丈夫?」

「うん。ごめん……」


 伊織は視線をあちこちに移したのち、私を見つめ、ポケットの中に手を入れた。


「あった。なくなっていなかった。もし、取り換えられていなければ、これで……」


 早口でそう言って、ポケットの中にあったものを取り出す。


「警察に自首する前、これを隠していたんだ。それを取りに行った。長くなるから、今夜、ゆっくり話す。じゃあ、井村さんの所へ行って来る」


 伊織が見せてくれたのは、掌の中に隠れるくらいの、小さな鍵に似たものだった。

 



 だが、その日の夜、伊織から話はなかった。

 その晩、ご隠居の部屋に、お屋敷の者全てが集められた。

 ご隠居は、今夜限りだろう、と言われて。

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