4.最期の想い
お屋敷にいる人全員が、ご隠居の部屋に集められた。
部屋の中は人間の体温で生温かい。微かに血の臭いがするのは、ご隠居のベッドの脇にある瓶に溜まった血のせいだろう。随分大量の
「申し訳ないことでございます。もう、手の施しようが……」
怜様に向かって医師が
ご隠居が目を開けた。怜様に握られた手を見、もごもごと何かを言っている。怜様はご隠居に顔を寄せ、「お任せください」とか「ありがとうございます」などと言っていた。
ご隠居は少しの間目を閉じ、再び開けて辺りを見回した。
そして怜様の後ろに立つ、美那様の所で視線が止まる。
「……な、あっ……け」
重い瞼を開き、腫れた唇を何度も動かして何かを叫ぼうとしていた。それを聞いた美那様が一歩前に踏み出したところを、怜様が睨む。
ご隠居は何度か叫んだあと、反対側を向いて顔を片手で覆った。
咳込み、体を震わせる。咳込む度に、腕に刺された管を通って、赤黒い血がじゅうじゅうと瓶の中に流れ込む。
「聞こえたでしょう。美那さん」
抑揚のない怜様の声が響く。使用人達はお互いを見合い、なんともいえない表情をしている。
伊織が私の方を見て囁いた。
「ご隠居は『来るな、見るな、あっちへ行け』って言っている」
美那様はご隠居に向かって何かを言おうとしていたが、怜様と目が合い、唇を噛んで俯いた。だが、部屋を出ることはなかった。
使用人達の間に、気まずい空気が流れる。
「美那さん、いい加減にしてもらえませんか。あなたは向こうに」
「あの」
怜様の言葉に被さるように、いきなり伊織が声を上げた。
皆、一斉に伊織を見る。彼は周りを見回して軽く身を引いた後、腰の引けた恰好をしてベッドの方へ近づいて行った。
伊織の突然の行動を見て、私の掌に嫌な汗が滲む。
「あ……ええと、も、申し訳ないです、このような時に、失礼をいたしまして。あ、あの、ご隠居様」
伊織は険しい表情をした怜様を見て何度か小さく頭を下げた後、ご隠居に顔を近づけた。
「もし俺が頓珍漢な事を申し上げましたら、どうか愚かな掬い上げの言った事だとお許しください。あの、奥様に、来るな、見るな、向こうへ行けと仰りたくなるお気持ち、俺は凄く分かります。ですが」
美那様が怒りを顕わにして伊織につかみかかろうとする。伊織はそれを手で制し、頭を下げた。息を呑み、再びご隠居を見る。
「人間の立場だからかもしれませんが、ご隠居様の、敢えて老いを受け入れる姿勢は、その、それだけで格好いいと思うんです」
伊織の言葉に怜様は目を細め、美那様は眉間に皺を寄せた。
「奥様から、ご隠居様と奥様が昔からのお知り合いだと伺いました。老いて、いつか来る日を迎える。生き物として自然なその姿は、決して格好悪くないと思うんです。ですから、今のお姿も、堂々とお示しになってよろしいのではと。……その姿もまた格好いいと、俺は思います」
私には、伊織の言いたいことが分かるようで分からなかった。だがご隠居は伊織の言葉を聞いて、軽く頷き、微笑むような表情を見せた。
ご隠居の視線は伊織から美那様の方へ向かう。
それを見て、伊織は腰を屈めたまま私のそばまで戻って来た。
ご隠居は怜様と美那様を交互に見つめ、もう一度、微笑むような表情を見せた。
そして辛うじて私でも聞き取れる声で
「どうじゃ」
と言い、そのまま、動かなくなった。
医師からご隠居の死亡が告げられた。
美那様がご隠居のベッドの脇に座り込んで肩を震わせている。その傍で、怜様は声を詰まらせながらも使用人達に今後の指示を出した。
窓に目を向ける。いつの間にか星は姿を消し、藍色の空の端が乳白色の光に溶け込んでいた。
使用人達が項垂れて部屋を後にする。私達も怜様に軽く頭を下げ、部屋を出ようとした。
「伊織」
怜様の抑揚のない声に、伊織は振り向いた。
「父の
怜様は伊織に顔を寄せ、眉を微かに上げた。部屋に残っていた使用人達は、その様子を見て足早に部屋を後にした。
「『花嫁』の付き人でありながら、老いを受け入れない主人に嫌味でも言いたかったのですか」
「違います。確かに『花嫁』の命と引き換えに不老不病の体を得るという発想は……あ、いえ、失礼いたしました。あの、ご隠居様は恐らく、秦家云々という問題ではなく、奥様だからこそ、この部屋に入らないでほしいと仰ったのではな」
「何それ、さっきから失礼ね! あんたなんかに何が分かるのよ!」
「申し訳ないです、言葉が足りませんでした。違うんです。あの、奥様はご隠居様のことを弟のようだと仰っていましたよね。ですからご隠居様も、奥様のことを好ましく思っていらっしゃったと思うのです」
そこで伊織は「あ」と呟いた。
「えっと恋愛とかではないです。そういうものでは全然全くなんでもなく」
両手を激しく左右に振り、そう早口で付け加える。
「美那様は、お子様の頃からお美しかったと思いますので、おそらくご隠居様にとって、憧れのお姉様のような存在だったのでしょう」
「でしょうね」
美しいと言われ慣れている人らしい、淡々とした相槌が返って来た。
「その後ご隠居様は、老いを受け入れてお過ごしになっていました。そこへ、変わらぬ姿の奥様が、怜様のもとに嫁いでいらした」
伊織は一瞬、私の方へ目を向けた。
「好ましく思っていた女性が、美しい姿で自分の目の前に現れた。なのに自分は老い、変わってしまっている。そうなれば、たとえ容姿を気にしないたちであったとしても、それなりに思う所はあったでしょう」
無意識にか、伊織は自分の白髪をつまんだ。
「老いた吸血族の最期は、かなり容貌が変わります。だからご隠居様は、老いた姿を美那様に見られることは耐えられても、最期の姿を見られるのは耐えられなかったのかな、と思ったのです。これは殆ど俺の勘というか想像のようなものですが。ただ、秦家云々の問題で美那様を避けるなら、『来るな、あっちへ行け』とは言っても、お顔を隠して『見るな』と言うかなあ、と。それに、俺の言葉にご隠居様は微笑んで下さいましたので、そう大きく外れてはいなかったと思います」
皆、ベッドの上のご隠居を見る。ご隠居の傍らに立っている医師が、居心地悪そうに手にした瀉血用の管を弄んでいた。
ご隠居は、腫れ上がった真っ黒な顔に微かな笑みのようなものを湛え、静かに眠っている。
最期に「どうじゃ」と言って示した姿。
その姿は決して美しくはないけれど、堂々としている、と思う。
「庶民の平たい言葉で言うなら、ご隠居様は、美那様に対して格好つけたかったのだと思います」
伊織の言わんとしていることを理解したのだろう、美那様も怜様も、今は黙って伊織の話に耳を傾けている。
医師が機器類を片付ける物音と共に、伊織の声が部屋に満ちる。
伊織は視線をご隠居から美那様に移し、そして私を見つめた。
私を見つめ、少しの間言葉に詰まる。
視線を美那様に戻し、話を続ける。
「これは本当にただの俺の想像ですが、たとえ立場が義父になっても、単なる幼馴染でも、弟扱いされても、ご隠居様は、美那様……『憧れのお姉様』の前では、最期まで『男』として格好よくありたかったのではないかと思うのです」
そして最後に、ぽつりと呟いた。
「もしそうなら、その気持ち、凄く分かるな、と思ったんです」
美那様はご隠居の傍に跪き、黒い額をそっと撫で、穏やかな震える声で囁いた。
「たっちゃん、ばかね、格好いいわよ」
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