5.唯一の手段

 夜が明け、お屋敷の中は慌ただしい空気に包まれていた。

 明日行われるご隠居の葬儀の準備で使用人達が走り回っている。つきあいのある家からの弔問客が次々と訪れる。

 私は人前に出られないので部屋に籠っていたが、伊織は井村さんや嶋田さんにちょこちょこ声を掛けられ、殆ど私の部屋にいることはなかった。


 ご隠居とは、結局、言葉を交わすことができなかった。

 自分が心に秘めていた気持ちをうまく伝えられず、最期の直前まで真意を誤解されていたご隠居。

 微笑みを浮かべた黒い顔を思い出す。

 思いが伝えられないって、つらかっただろうな、と思う。


 自分が伊織にした仕打ちを思う。

 考えなしに伊織に「大好き」と言って抱きついた自分と、さっきの「その気持ち、凄く分かるな、と思ったんです」という言葉が重なる。


 あの時の、伊織の言葉ひとつひとつを咀嚼する。

 今なら分かる気がする。私の好意は、表せば表すほど、男性としての彼を否定していたようなものだったのだろう。

 息苦しくなり、胸に手を当てる。


 ふと、伊織に抱きついた時の、広い背中を思い出す。




 今夜、怜様と美那様はお屋敷に帰って来ない。一晩中、墓地に併設されている建物に籠るからだ。

 吸血族の風習で、葬儀は遺族と亡くなった人が共に一晩過ごしてから行う。詳しくは知らないが、夜、孤独な新しい死体に悪霊が取り憑くと、不死身の鬼となって夜な夜な墓場を彷徨い歩くことになるから、らしい。




 夕食が済んだ。

 伊織は、私の食器をテーブルから下げてくれている。

 その黙々と働く端整な横顔を眺める。


 消し炭色の詰襟をきっちり着込んで働く姿は、すっかりお屋敷の中に馴染んでいる。井村さんには頼りにされ、嶋田さんともうまくやっているみたいだ。それはいいことなのだけれど。

 何度か湧き上がった疑問がまた、頭をもたげる。


 そもそも怜様は、どうして伊織をお屋敷の中で使おうと思ったのだろう。


 はじめは読み書き算盤ができる付き人を安く雇えるからかな、と思っていたのだが、伊織のそういった能力は、あまり把握していなかったようだ。井村さんがよく「そんな事もできるんだ」と驚いているから。

 それに凶悪な犯罪でないのは分かっていたにしても、伊織の罪は今一つはっきりしない。そんな人をお屋敷に入れるのに、躊躇はなかったのか。


 怜様は、伊織をある部分で特別扱いしている。ぱっと見では分かりづらい彼の体調の事も分かっているようだし、ご隠居の臨終の席でも、結局伊織に言わせたいだけ言わせていた。

 そこまでしているのに、伊織を見る目は決して優しいものではない。

 そんな事、伊織だって全部気付いている筈だ。なのにこうして何食わぬ顔をして働いている。


 分からない。

 怜様も、伊織も。私の「好き」な人達の抱えているものが、見えない。




 食後の腹ごなしのつもりで一階のエントランスのあたりをうろうろしていたら、来客があった。

 慌てて隠れる。井村さんが対応に出ていた。


「――申し訳ないことでございます。お伝えせず……いえ、そのような意図ではなかったかと存じますが……はい、そちらにいらっしゃいます……あ、あ、それは、ええとではこちらからも電話を繋いでみま……あ、しょ、少々お待ちくださ……あっ」


 井村さんが引き留める仕草をしていたが、お客さんは帰ってしまった。

 井村さんは暫く閉じられた扉を見ていたが、やがて難しい顔をして歩き出した。私とすれ違ったが、私の事は意識していなかったようだ。歩きながら「どうするかな」などと呟いている。


 お客さんが何を話していたのかは殆ど聞き取れなかった。

 だが、薄暗い中離れた場所で見ただけなのに、その姿は私の心の中に強烈に焼き付いた。


 裾の長い喪服を着た、怜様よりも少し若いくらいの女性だった。

 彼女のすらりと均整の取れた体の線は、地味な喪服を通してもはっきりと分かった。

 丁寧に纏められた艶やかな髪、涼やかな目元、すっきりとした鼻梁と口角の締まった唇。儚げに見えながら、どこかしっとりと濡れたような雰囲気は、女の私が見ても思わずどきりとするほどの艶めかしさを含んでいた。


 誰なんだろう。


 吸血族っぽい見た目だったが、普段この家に来るお客さん達程身なりもよくなさそうだった。

 まあ、考えても答えは出しようがない。私は自分の部屋に戻った。




 部屋に戻ると、伊織がストーブの近くの椅子に座って窓の外を眺めていた。

 ストーブの上には小さな壺が置かれている。部屋を満たすクラリセージの仄かな香りは、あの壺から漂っているのだろう。マスカットに似た甘い香りは、数々の疑問で混乱する心を鎮め、すっきりとさせてくれる。


「伊織、食事は?」

「後にする。多分」

「えー、なにそれ。多分って、伊織、食べない気満々でしょう」

「じゃあ食べるよ。でも後で。先に、話したいことがあるから」


 伊織は私の方を向き、両手を膝の上で組んだ。潤んだ大きな目が、私を真っ直ぐ見つめている。

 か弱く可愛い、女の子のような顔立ち。

 けれども膝の上で組まれた骨ばった大きな手は、「女の子」のものではない。五年の間に色を失った髪の毛は、「か弱い」なんて言っていては生きていけない経験の果てのものなのだろう。


「話したいこと?」

「うん」


 伊織の視線と表情を見て、私は頷き、彼の正面に椅子を持ってきて座った。

 これは、食事の事などを喋っている場合ではない。

 伊織は少し俯いた後、組んだ両手にぐっと力を入れて顔を上げた。


 風が窓ガラスを揺らす音がする。


「まず、俺の前科の事から話す」


 息を呑み、頷く。


「うん……。でもそれ、言っちゃいけないとか、そういうのないの?」

「一応刑務所から詳しい話はするなみたいなことは言われたけど、強制はしようがないよね。叶様にも聞かれたことは結構話したし。勿論、『農場の子の誘拐』は、作られた話通りにしたけど」


 唇を歪めて薄く笑う。確かに、あの件は真実を話すわけにはいかなかっただろう。


「最初に捕まった理由は知っての通りだし、二度目は脱獄したけど潜伏先がばれたから。その辺りはまあ、それだけ、だよ。今日、話したいのは、三度目に捕まった理由」


 淡々とした口調の伊織の話を聞きながら、心臓が痛いほどに苦しくなる。

 三度目に捕まった理由。詳しいことを聞いていないし、なんとなく怖くて聞けなかった。


「窃盗と、住居侵入でしょ? 何を盗んで……どこに、入ったの?」


 私の言葉を受け、伊織はポケットの中をまさぐった。


「盗んだのは、これ」


 掌の中にあるのは、例の小さな鍵のようなものだった。


「正確には、これは合鍵。本物の方は元に戻して、別の鍵を盗んだことになっている」


 合鍵、というからには鍵なのだろうが、それは今まで見たことのない形をしていた。

 小さく薄く、不思議な形をした鍵。


「入った場所は、『農場』」

「農場!」


 大声を上げてしまい、慌てて口を塞ぐ。私を見て、伊織は少し笑った。


「叶様には『農場の鍵を盗んで侵入した』までは言っている。全くの嘘ではないし、多分役所にある調書にもそう書いてある。俺の最初の罪は農場の子の誘拐だから、また同じような事をしようとしたなと思われたかもしれない」


 伊織は、掌の中の鍵を見た。


「この鍵は、秦家と、農場の、深い罪の象徴だ。でも、俺にとっては」


 鍵を握り締める。

 私を見つめる。


「この鍵は、俺が凛子を救える唯一の手段だ」

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