2.抱えた秘密
ご隠居が倒れた。
あの後、嶋田さんから少し話を聞いたところによると、朝、ご隠居の部屋に掃除に入った女中が、どんなに物音を立ててもベッドから起き上がらないご隠居を不思議に思い、井村さんに報告した、というのが発見の経緯だそうだ。
皆、近いうちにこのような状況になる、ということは分かっていたらしい。それでもお屋敷の中の空気は乱れ、怜様の顔から穏やかな笑みが消えた。
あれから三日ほど経った。
伊織は時折井村さんに呼ばれ、ご隠居の事で手伝いをしているようだ。私はこの件は完全に蚊帳の外で、詳しいことは何も分からない。
ご隠居にも、一度も会っていない。
何をすることも出来ないのだが、それでもご隠居の容体やお屋敷の様子が気になって、廊下に出た。
お屋敷の中は静かだ。それなのに空気は荒れており、ざわついた気配に心が乱される。大分前に怜様に家督を継いだとはいえ、やはりご隠居の存在は大きい。
廊下の端に、美那様が立っているのが見えた。あのあたりは怜様達の部屋がある所なので、出入りできない。廊下の隅から様子を窺ってみる。
美那様が扉に向かって話しかけた。
「ただのお見舞いなのに。どうして私が中に入っちゃいけないの?」
美那様の言葉に、扉の向こうから声が答えた。殆ど聞き取れないが、多分怜様の声だ。
「容体……で……」
「ご隠居様は私にとってお義父様なのよ。秦家の事は関係ないわ。一目会わせて下さったっていいじゃないの」
「……が、……嫌だ……」
そこで扉が開いた。怜様が顔を出す。
「父上が会いたくないと言っているのだよ。見舞いはいらない。黙って自分の部屋に戻っていておくれ」
扉が閉じる。
美那様は扉の前で俯き、立ち尽くしていた。
私は様子を窺った事を後悔し、自分の部屋に戻った。
部屋に戻ってからも、心に砂を擦りつけたような不快感は消えなかった。
今は非常事態で、怜様は冷静でないだろう。ご隠居は秦家出身の美那様をよく思っていないのだろう。だが、だからといってあんな言い方はないんじゃないか。
俯いた美那様の姿。いつもは自信に満ち溢れていて、堂々と振る舞っている。あんな姿、見たことない。
……見たことない?
心に何かが引っかかる。
あれ、もしかしたら、何度か見かけたことがあるかもしれない。だが、具体的にいつかは思い出せない。
なんだろう。心がざらざらする。
愛しげに怜様を見つめる美那様。
自信に満ち溢れた美那様。
その姿を思い返し、ふと、違和感を覚える。
その傍らにいつもいるはずの怜様の表情が、思い浮かばない。
伊織が私の部屋に戻って来てすぐに、嶋田さんが来た。
嶋田さん、頬に新しいニキビがいくつも出来ている。忙しくて疲れているのかな、と思う。
「ああ、いた。伊織、お遣い頼むよ」
「俺一人でですか」
「うん。鳳家なんだけど」
「鳳……」
伊織は一瞬私の方を見て、困った顔をした。
うん。確かにそれは困るだろう。昔、鳳家に貰われる話があったのに、農場を脱走したのだから。
「申し訳ありませんが、鳳家はちょっと」
「え、何、だめなの?」
「あの、えーとですね、鳳家は昔、ちょっと不義理というか迷惑をかけたことがありまして、その、敷居が高いんです」
「なんだよー。何やらかしたんだよもう」
嶋田さんは大袈裟に溜息をついて腰に手をあてた。
「じゃあいいよ、鳳家の方は僕が行く。うーん、じゃあ黛家の方、頼もうかな。この間一緒に行ったところ。いい? 大丈夫?」
「道は覚えています」
「大丈夫って、道じゃないよ。一人で外に出るの初めてだけど、いい? 絶対に変な気起こして逃げたりしないでよ? もう、本当に頼むよ?」
「大丈夫ですよ。絶対に、逃げたりしません」
その時伊織は、少し俯き、
「折角頂いた仕事ですから。絶対に、戻ります」
一瞬、口の端を歪めた。
まただ。また、あの表情。
嶋田さんを
嶋田さんが部屋を出てすぐに、私は伊織の上着を掴んで引いた。
「ちょっと」
私の声に顔を向けた彼の表情には、邪気や悪意のようなものは感じられない。私を見つめる潤んだような大きな目に、思わず吸い込まれそうになる。その感覚に戸惑いながら、言葉を続けた。
「今、また、にいっ、ってやった」
「そう?」
「うん。なんか、嶋田さんのことをばかにしたような、嫌な感じの嗤い方だった」
「ばかになんかしていないよ。俺はあの人に対して特に何か思うことはないし」
「……でも、にいっ、ってやったのは、否定しないんだ」
私の言葉に、彼は少し目を逸らした後、再び私を見つめた。
「嶋田さんの事は本当になんとも思っていないし、あの人は何も関係ない。迷惑をかける気もない。頼まれた用事はちゃんとやるし、必ずここに戻る。でも」
私を見つめる目が、躊躇いがちに伏せられる。
「……自分が、こんなに臆病だと思わなかった。五年間、ずっと信じて疑わなかったことが、正しいのかどうか急に分からなくなって。正しいに決まっているって言い聞かせている今のままでいいのかって」
彼の両手は強く握りしめられ、微かに震えていた。
「それにまだ、確実じゃない。だから今は何も言えないんだ。ごめん、もう、行くから」
窓辺に立ち、伊織の姿を目で追う。
彼はご隠居の診察に来たらしい医師に、丁寧に頭を下げていた。やがて視界から消え、私の知らない『外』の世界へ出ていった。
お屋敷の周りは高い柵に囲われており、門の前には人がいる。だから外出が許可された人だけが『外』に出られる。
私は『外』に出られない。ただ、私の場合、外出許可云々以前に『外』で生活出来ないだろう。
叶家に『翡翠』として貰われた身なので、逃げれば警察に追われる。警察の目をかわしても、仕事が出来ない。もし、なにかの拍子で、叶家から逃げた翡翠だと警察以外に知られたら、それこそどんな目に遭うか分かったものではない。
だからいずれ命を奪われるのが分かっていても、目先の暮らしのためにここにいるしか選択肢がない。
伊織は『外』での生活について、当たり障りのないことしか話さない。罪の経緯も、隠しているわけではないようだが、聞けないでいる。
彼の事は何でも知っていると思っていたのに、いつの間にか、何も分からない人になってしまっていた。
『外』の世界で、伊織は何を見、どんな生活をしていたのだろう。
そして今、何を考え、何の秘密を抱えて、外に出たのだろう。
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