6.逃亡(1)

 ベッドから降り、ストーブを消す。ブン、という音を立ててストーブが消えた途端、部屋に静寂が重く満ちる。

 いつもの習慣で口紅をつけた後、紺色の外套をきっちり着込む。廊下に出る。人はいないようだ。伊織の部屋の前に立ち、軽く扉を叩く。扉が開かれたので、体を部屋の中に滑り込ませる。


 伊織の部屋は薄暗い上に狭い。小さなベッドと箪笥しかないのに、人が二人いると身動きがとりづらくなる。必然的に、彼に寄り添うように立つことになる。

 目の前の伊織の服装に、思わず顔をしかめた。外套も着ず、灰色のシャツと擦り切れた丈の足りないズボン、穴の開いた布靴という格好なのだ。


「何、その恰好。ばっちいよ。いつもの仕着せと外套は?」

「ばっちいって言うなよ、これ、俺の私服なんだから。それにあれを着て夜中歩いていたら目立つだろ」


 確かに仕着せ姿は目立つかもしれない。でもこんな格好で冬の夜の街を歩いたら寒いだろうに。


「さて……あ、誰かいる」


 伊織は扉を細く開けて廊下を窺った。私も耳を澄ます。微かに人の歩く音がする。トイレの場所が地下なので、夜中でもたまに人が歩いているのだ。


「こそこそーって階段降りて、裏口から出るのじゃだめ?」

「今の時間は裏口にも錠前が掛けられているんだよ。開けられないことはないけど、距離や人目を考えると、あの方法が一番確実だって」


 分かっている。ちょっと言ってみただけだ。私は渋々頷いた。


「あ、そうだ、嶋田さん宛の手紙と壜、机に置いておいてくれた?」

「うん」


 伊織に頼まれて、私の机に嶋田さん宛の手紙と小壜を置いて来た。壜の中身は私が使っていたラベンダー油。手紙には帳簿記入と、ラベンダー油を使ったニキビの手入れについて書かれているらしい。


「あのくらいじゃ、つぐないにならないけれど。でも、嶋田さんには幸せになって欲しい」


 再び廊下を窺う。軽く頷き、私の手を握る。

 薄暗い部屋の中で、彼の鳶色の瞳が私を見つめる。


「怖い?」


 自分でも気づかぬうちに震えていた私の手を、伊織は両手で包み込んだ。

 私は微笑もうとしたが、上手くできなかった。多分、泣き出しそうな顔をしていると思う。

 伊織は手を離し、私を包み込むように柔らかく抱き締めた。

 頬が伊織の胸に触れる。外套や上着を着ている時よりも、彼の肌のぬくもりを近くに感じる。


「大丈夫、俺が必ず守るから。不安で委縮する心が一番怖い。ここを抜け出せたら、向こうの世界まですぐだ。そして向こうへ行ったら」


 私を抱く手に力が入る。


「ずっと一緒に、幸せになろう」


 伊織の囁きが、体の芯に染み通る。震える心を奮い立たせる。

 彼の腕から離れる。頷いて、彼の手を強く握る。


 部屋の扉を大きく開ける。


 


 廊下には誰もいなかった。様子を伺いながら、お屋敷の一番端にある客室へ向かう。

 扉を開け、中に入る。この客室は特別室なので、殆ど使用されることはない。そして窓が二箇所ある。お屋敷の裏側にある広い庭のある方と、お屋敷の側面にあたる方だ。

 側面の方はさほど視界がひらけておらず、木立がある。そして塀までの距離が短い。伊織はそっと窓を開け、外を窺った。


「ねえ、こそこそーって階段降りて」

「もう、ここまで来たら覚悟して。大丈夫だよ、二階から一階に降りるだけなんだから」


 伊織は所々に結び目のあるロープを取り出し、端に取り付けた金具を窓枠に引っ掛けた。そのまま物凄く簡単そうにするするとお屋敷の壁を降りていく。

 外に降り立った伊織が、月明りの中、手招きをしている。ここまで来たらやるしかない。私は靴を外套のポケットに押し込んで窓から乗り出した。


 途端にぐらりと目眩がした。


 なんだこの高さは。落ちたらどうなるか、想像するのも怖い。


 ロープに手を掛ける。怖いから目を閉じたいが目を閉じたらもっと怖いことになる。脚を外に出し、ロープを支えにしながら壁に足をつく。ざらざらした壁が、薄い絹の靴下ストッキングに引っかかる。


 結び目を頼りに、ぐ、と片手を下に移動させる。体重を支える手に力を入れたいのに、恐怖で力が入らない。壁についた足を動かす。足の裏にざらざらした感触を強く感じる。早くも靴下が破けたようだ。下を見ないように、自分を照らす月を見据え、降りる。


 なんとか地上に降り立った。大して時間は経っていないのだろうが、物凄く疲れた。手が汗でべたべたする。伊織はロープを動かして外し、私に走るよう無言で促した。

 靴を履き、お屋敷を背にして走る。


 

 

 こちら側は庭も大して広くなく、しばらく走ればすぐに木立の中に身を潜ませられる。走りながらお屋敷の方を振り返ってみたが、長年私を緩やかに捕えていたお屋敷は、月明りの中、蒼白く佇んでいるだけだった。


「凛子、足元に気をつけて」


 ふかふかした土が高い踵を捉える。だがこの靴は履き慣れているので、走るのにさほど苦労はしない。

 それより伊織だ。ちょっと続けて走っただけなのに、早くも息切れしている。


「大丈夫? 少し歩こう」


 とはいえ見回りや犬に見つかったらまずい。苦しさを押し殺そうとする伊織の手を強く握り、何度も辺りを窺う。

 木々が風に揺れる音、私達が地面を踏みしめる音。それらとは違う、私達を追う足音や怒号が聞こえないか、耳をすませる。

 心臓の音が、どくどくと口から吐き出される。


 彼はそんな私を見て、息を整えながら言った。


「今の時間、見回りはここを通らないし、犬は朝まで起きないよ」

「そ、そんなの分からないじゃない」

「その位、調べたり策を取ったりしているに決まっているだろ」


 僅かに差し込む月明りの中、伊織は息をついた後、薄く笑った。


「凛子、俺の五年半をなめるなよ」


 やがて、木立の向こうに塀が見えてきた。


 


 石造りの塀は、人の背よりもずっと高く、上部には鉄の柵がついている。柵は優雅な装飾が施されているが、先端は尖り、見ているだけで痛そうだ。

 伊織は柵にロープを引っ掛け、すいすいと昇った。柵に手を掛け、外を窺う。


「うん。誰もいない。今のうちだよ、急いで」


 そう言って塀から降りると、私の目の前でかがんだ。


「ねえ、本当に大丈夫? 私、見た目より重いよ?」

「何言ってんだ、大丈夫だよ凛子くらい」


 むきになってそんなことを言う。私は再び靴を脱ぎ、ロープを掴み、伊織の右肩に足を載せた。左側は、なるべく肩の傷痕に触れないよう、足首を捻じって首の付け根に足を載せる。


「上、向かないでよ。スカートの中、覗かないでよ」

「んな事思いつきもしなかったよ!」


 伊織は思い切り下を向くと、両肩に載った私の足首を掴み、ゆっくりと立ち上がった。ふわりと視線が上昇する。

 手を伸ばしても、柵に届かなかった。石の継ぎ目やロープを使ってよじ登り、なんとか柵に手を掛ける。

 ひんやりとした鉄の感触。軽く気合の声を出して塀の上に登る。柵にしがみつき、かがみ込む。

 柵の向こうに、月に照らされた道と、空き地と、民家がある。

 「外」の世界がある。


「こっちの通りは昼間でもあまり人がいないんだ。でも急ごう」


 ロープを外側に垂らし、伊織は柵を乗り越えて塀の外に降り立った。彼の後に続くべく、柵を思い切りまたぐ。

 先の尖った装飾が怖い。外套やスカートを引っ掛けないようにたくし上げる。太腿に嵌めた靴下止めガーターが顔を出す。

 真剣な表情でこちらを見ている伊織に向かって、あっち向けと身振りで示す。でも理解してもらえなかった。両手に力を入れ、突き刺すように冷たい柵を強く握りしめる。

 あと、少しだ。


 ロープを支えに降りる。塀の高さはお屋敷の二階に比べれば低い。ここまでくれば仮に落ちても大した怪我はしないだろう。そう思った途端に足が壁を滑った。

 慌ててロープを掴む手に力を入れようとしたが、遅かった。私の体はふっと一瞬浮かんだ後、真っ直ぐに落下した。


「わっ」


 咄嗟に私を受け止めようとしてくれた伊織は、支えきれずに後ろへひっくり返った。そのまま私と一緒に地面に倒れ込む。結構な音を立てて、重なるように道路に転がった。


「いてぇ……」

「ご、ごめん! 大丈夫? 怪我しなかった?」

「大丈夫、なんでもないよ。それより凛子はどう?」

「私は大丈夫だよ。でも」


 そこまで言って、自分が伊織の上にのしかかったままの状態であることに気がついた。慌てて下りる。何故か少し恥ずかしくなる。

 大丈夫、とは言っているが、落下した私の下敷きになって転んだのだ。伊織の華奢な体が大丈夫とは思えない。私は「本当に大丈夫なの?」と言おうとした。

 だが、その言葉を喉の奥で呑み込んだ。


 多分、伊織は、私に必要以上に気遣われたり、いたわられたりするのを嬉しく思っていないんじゃないか。

 私の前では、強くたくましい存在でありたいと思っているんじゃないか。

 彼の言葉の端々を思い出して、そんな気がしてきた。


 であれば、気遣いの言葉をやかましく重ねるより、本当に大丈夫なのか黙って見守ればいいんじゃないか。

 伊織が立ち上がり、私に向かって手を差し伸べた。彼の手を取り、立ち上がる。

 今の様子だと、確かに怪我や捻挫なんかは大丈夫そうだ。だから微笑み、軽く頭を下げるだけにした。




 自分の部屋を出てから、まだそれほど時間は経っていないだろう。

 最後に転んだこと以外、ほぼ問題なく、拍子抜けするほどあっさりと、お屋敷の外に出られた。

 人生で二度目の「外」を見る。

 舗装された道路。小さな民家の集まり。空き地。

 月明りの中に、静かに沈む世界。

 だが、私の居場所は、「この世界」ではないのだ。


 手を繋いで少し歩いた後、伊織はお屋敷の方を振り返り、睨むように暫く見つめていた。


「どうしたの?」

「うん……」


 曖昧な相槌の後、軽く首を傾げた。


「ちょっと、色々、思う所があって」


 やがて首を振り、私の方を見た。


「お屋敷を出て終わり、じゃないからね。ここから農場の倉庫まで結構歩くよ」

 

 頷く。かつて農場を脱出した時の事を思い出す。外に出るのは、あくまでも「始まり」なのだ。


 足音が、「外」の世界に響く。

 少しずつ、お屋敷が遠ざかっていく。

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