2.全てがすれ違う【凛子・十九歳】

1.被食者の恋

 私の首から、すぅ、と牙が抜け、冷たく柔らかな唇が離れる。

 同時に体中の血液が一気に巡るのが分かる。

 体が火照る。頬が熱い。

 小さく穿たれた二つの穴から温かな血が流れる。その血を辿るように、冷たい舌がぬらりと這う。

 私の唇から、吐息が漏れる。

 視界が揺れる。私は腰掛けていたベッドの上に倒れ込む。


「ごちそうさま。凛子は、おいしいね」


 私の傍から立ち上がったれい様は、僅かに乱れた髪を整え、形のよい唇に優雅な微笑みを湛えて、部屋を出ていった。




 かのう家に『花嫁』として貰われてから、五年が経った。今年、私は二十歳になる。


 叶家は、ここ、東京国に幾つかある名家と言われる家の一つだ。名家の中では下の方で、結構経済状態は厳しいらしいのだが、海の見える丘の上に建つお屋敷は立派で、晴れた日は真っ白い壁に太陽が反射してきらきらと輝いている。その美しいさまを、丁寧に手入れされた庭で眺めるのが、私の楽しみの一つだ。

 お屋敷のものすべてが、叶家の若き当主である、怜様の美意識のもとに整えられている。遠い西にある異国の文化に、東京国の文化を混ぜた独特の雰囲気だ。

 『花嫁』の外見も決まっている。私は黒髪を腰まで伸ばし、毎日丁寧に梳く。裾の長いスカートを穿き、踵の高い靴を履き、赤い口紅をつける。


「『花嫁』は一生、私の体の一部になるのだからね。美しくいておくれ。怖がらなくていい。凛子の顔が恐怖や苦しみで醜く歪まないように、優しく命を奪ってあげる」


 お屋敷に貰われた日、吸血や死への恐怖で涙ぐむ私を、怜様は柘榴石ガーネットのような瞳で見つめ、そう言った。




 吸血直後の不調から復活した私は、軽く伸びをして立ち上がった。

 今日はこれから、どうしよう。

 貰われて五年にもなると、吸血されるのにも慣れてしまったし、命の期限が近いことも、感覚が麻痺してしまったのか、却って実感できなくなってしまった。

 ひと財産かけて購入するらしい『花嫁』は、他の使用人と違い、家の用事をすることはあまりない。他の吸血族に攫われたり吸血されたりしないよう、外出も禁じられている。

 だから毎日することがない。


 こんな時、字が読める人は、本を読んだりするのかな、と思う。

 そして伊織を思い出す。


 体が弱く、力仕事が出来ないかわりにと、農場の中で彼だけが文字や計算を習っていた。だから他の子と違い、彼だけが知識を持ち、考える頭脳を持っていた。

 それがあだになったのだろうか、と思う。

 もし伊織が、考えることを知らず、農場を信じ、皆と同じように過ごしていたら、農場内で浮くこともなく、先生達に盾突くこともなく、そして私を救おうなどと考えることもなく、平和な人生を送れたんじゃないだろうか。

 五年前、警官に捕まってから、伊織の姿を見ていない。彼がその後どうなったのかも分からない。

 農場から、彼の存在自体を否定されてしまったのだ。まともに調べられ、裁きを受けているとは思えない。


 会うことは望めないだろう。でもせめて、彼が今、どうしているかを知りたい。

 彼が生きている、という事実が欲しい。


 頬に触れる。脱走する日の夜、伊織がそっと触れた唇の感触を思い出す。

 「凛子のことが好き」と言って、人生を懸けて私を救ってくれようとした、彼の熱い唇。

 あれが、私が知る唯一の、血の通った人間の唇の感触だ。

 

 ねえ。

 今、どうしているの?

 あなたのあたたかな笑顔が、懐かしくて、少し苦しい。


 


 伊織の思い出に浸っていた時、外から車のエンジン音が聞こえた。私は急いで窓を開け、お屋敷の入口を見下ろす。

 黒塗りの自家用車の前で、髪の毛の残量が厳しい運転手がうやうやしく頭を下げている。暫くするとお屋敷の扉が開き、黒い外套姿の怜様が姿を現した。


 その姿を見て、胸がきゅっと小さく叫び、心がふわりと浮き上がる。

 だが次の瞬間、浮き上がった心が握り潰され、泥沼に沈み込む。


 怜様のもとへ、黒貂セーブルの外套を纏った美那みな様が歩み寄り、自分の腕を絡ませた。


 遠目からも分かる、美那様の美しい姿。

 透き通るような白い肌、丁寧にこてを当てられた艶のある黒髪、大柄で肉感的な体型、そして華やかな顔立ち。

 怜様と並んでも全く見劣りしない。怜様の奥様として、美那様よりふさわしい方はいないんじゃないかと思う。しかも美那様は、東京国いちの名家、はた家の出身だ。


 どうしてこの世には、こんなにすべてを持った人が存在するのだろう。

 そしてどうして私はこんなにつまらなく、しかも人間なのだろう。


 息を呑むほど美しい夫婦が、仲睦まじく寄り添い合っている。

 美しく整えられた庭、磨き込まれた自家用車。運転手の頭髪以外は、現実とは到底思えないような、完璧な世界。

 重厚なエンジン音を響かせて二人が出かけたのを見届けた後、私は鏡に映った自分を見て、目を逸らした。


 美しくいておくれ、と言われても、私にはこれが限界だ。

 印象の薄い顔、小柄で貧相な体型。伊織はよく私の黒い髪や瞳を「きれいだ」と褒めてくれたが、そんな事を言ってくれたのは後にも先にも伊織だけだし、自分自身も特別どうとも思わない。

 私は農場出身の、つまらないただの人間。


 ベットの上に仰向けに倒れ込む。

 両手で顔を覆い、深く溜息をつく。


 ばかだなあ、と思う。

 この家に貰われてから、一体何度、この思いに囚われたことだろう。

 怜様は私を大事にしてくれる。でもそれは、私が二十歳になり、血が成熟するまで、健康でなければならないからだ。

 自分の不老不病のために。叶家の厳しい経済状態の中、無理をして買った『翡翠』の、を取るために。

 そこに『私』へ向けられた目はない。


 寝返りを打つ。

 シーツを強く握る。


 ばかだなあ。

 ばかだなあ私。

 どうして怜様のことを、好きになってしまったのだろう。


 食料の、分際で。

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