3.農場からの脱走(2)
改めて外を伺い、警官や農場の人がいない事を確認し、外に出ようとした。
その時、背後から呻き声のようなものが聞こえた。
足を止める。振り返る。少し離れた部屋から、何かを引き摺るような音と呻き声が聞こえた。私達の他に、このビルに人がいたんだ。
伊織が私を庇うように前に立った。私は彼の背中にしがみつく。広い背中に守られながら前を覗く。視界の端で、茶色い枯れ枝が動いている。
それが痩せ細った人間の腕だと分かるのに、そう時間はかからなかった。
「……くれよぅ」
それは、ゆっくりと通路に姿を現した。
ざり、ざり、と通路のゴミの上を四つん這いになって進む。
煮しめたような色の服、茶色の皮膚が垂れ下がった手足。束になった灰色の髪が顔を覆っていた。スカートを穿いていたから、女だったのだろう。
伊織は少しずつ後ずさりをした。その歩調に合わせるように、それも這い寄って来る。
辺りには、酸っぱいような、腐ったような、今まで嗅いだことがない強烈な臭気が漂っていた。
「なあ、旦那ぁ……」
それが顔を上げた。皺だらけの顔の落ちくぼんだ目を見開く。
そして震える手で髪を掻き上げ、歯のない口を開いて、笑った。
「血を、買ってくれよぅ……」
灰色の髪の隙間からは、皮膚が崩れ落ち、原形をとどめていない首筋が覗いていた。
自分の叫び声が、ビルの通路の中に反響した。
「待て、凛子っ」
伊織の声が聞こえたが、構わず私はビルを飛び出した。
やっぱりだ、先生達の言う通りだった。今見たのは、きっと農場を追い出された人の末路だ。私達は逃げ出しちゃいけない。反抗しちゃいけない。どうしよう、このままじゃ私もああなっちゃう、あれは私だ。少し先の私だ。あんなになっても生きていかなきゃいけないなら、花嫁になって、二十歳で死んだほうがいい……。
頭の中は、今見た人の姿でいっぱいになっていた。そのあまりに衝撃的な姿は、私から思考を奪うのに充分だった。
「凛子、落ち着いて」
「いやあぁぁ!」
私の腕を掴む伊織に向かって、私は怒鳴り散らした。
「やだよ、見たでしょ、あんなになっちゃうんだよ、農場を逃げ出したら、あんなになっちゃうんだよ。どうしよう、どうしよう私、どうしてくれるの、伊織は私があんなになってもいいっていうの、やだ怖いよ、あぁ」
「落ち着け!」
伊織は私の肩を激しく揺すった。私は涙の滲む目で彼を睨み付ける。彼は少し周りを見回した後、声を落とした。
「周りを見てみろ。今の人みたいな人間が、他にどこにいる? 今の人が農場出の人だって何故決めつける? それに言ったろ、俺は凛子の血は売らせない。どんな事態になっても、それだけはさせない」
「そんなの分かんないじゃん。お仕事なかったらああしなきゃ生きていけないんだよ、もしそうなったら」
「だから。凛子にはさせないって言っているだろ」
道路の真ん中で言い争っている私達を、通行人が何事かと見ていた。伊織もそれに気付いたのか、俯いて私に道の端へ行くよう促した。
けれどもその時、私は気付いてしまった。
伊織の最後の言葉の意味していることに。
背筋に冷たい水が走る。
「伊織、まさか、いざとなったら、自分の血を売るつもり……?」
私の視線から、彼は目を逸らした。
「じょ……うだんじゃないよ」
伊織は血が薄く、体が弱い。そのため、事業の関係上、吸血できる体が使用人の絶対条件である鳳家は、伊織の能力を評価しながらも、なかなか引き取れないでいるのだ。
そんな体で不特定多数相手の売血なんかしたら、あっという間に命を落としてしまう。
「やっぱりだめだよ、帰ろう。どうやっても私達は」
「そう。農場の外に出たら危ないよ」
背後から声を掛けられ、振り返った。
私達のすぐ後ろに、黒詰襟姿の警官が三人、立っていた。
私達は抵抗する間もなく警官達に取り押さえられた。
「秦家の農場から連絡を受けたのは、ついさっきだったんだよ。すぐに見つかって余計な手間がかからなくてよかった」
私の手を掴んだ警官は、妙に穏やかな声で話しかけてきた。
「この坊主のせいか」
「まあ、そういうことにしておけ、との事だ」
「ふん」
伊織は警官の一人に羽交い絞めにされ、口に何かを巻かれていた。もう一人の警官が、呻きながら暴れる伊織を睨み付け、顔を寄せる。
「てめえ、まさかこの子の血を穢していないだろうな」
血を穢す。
その時私は子供だったけれども、それがどういう意味なのかくらいは知っていた。
男の人に「穢された」女子は、血の価値が下がる。そう言い聞かされていたから。
怒りで両手が冷たくなる。私は伊織に話している警官に向かって叫んだ。
「ふっ、ふざけんじゃないわよ、この助平! 不潔! い伊織と私がそんなことするわけないじゃない! 何考えてんのよ、冗談じゃないわよっ!」
「こら。分かったからそんなに叫ぶんじゃない。さあ、農場に戻るよ」
私を掴んだ警官は、くつくつと変な笑い方をした後、歩き出した。
こうなってしまっては、もう帰るしかない。私は警官に手を引かれるままに少し歩き、やがて、伊織が一緒に来ない事に気がついた。
振り返る。伊織は警官二人に押さえつけられながら、道端に停めてあった車に引き摺り込まれていた。
「伊織は一緒に帰れないの? なんで伊織だけ車? 警察署で何か調べられたりするの?」
私の言葉に、警官はまたくつくつと笑った。そして妙に穏やかな声で、言った。
「何を言っているんだね。あの坊主と農場に戻れるとでも思っているのかい?」
農場に戻ると、院長先生が両手を広げて駆け寄って来た。
「まあ凛子ちゃん、無事でよかった! だめよぉ勝手にお外に出ちゃ。危ないんだからね」
私をぎゅっと抱きしめる。警官は院長先生に挨拶をして帰っていった。
「迷子になっちゃって、怖かったでしょう。さ、朝ごはん食べましょ。今日は叶家へ行く日なんだから、沢山食べて頂戴ね」
私から離れた院長先生は、にこにことして食堂の方を指差した。
「まい、ご?」
「ね。今朝、こっそりお外に出て、迷子になっちゃったのよね。本当だったら凄ーくいけない事なのよ」
迷子じゃない、と言いかけて、院長先生が何を言いたいのかに気がついた。叶家に貰われる日だというのに、「貰われる直前に脱走しようとしました」とは言えなかったのだろう。
そうか。私は叶家の「花嫁」になるんだ。
伊織があんなに、助けようとしてくれたのに。
「院長先生」
「なあに?」
「伊織は、どうなっちゃうんですか?」
確かに逃げようと言い出したのは伊織だが、私はそれに同意し、自分の意思で逃げ出した。その辺りの事をきちんと言わなくていいんだろうか。まさか、「花嫁」を守る為に、その辺をうやむやにして、伊織一人に罰を受けさせるつもりなんじゃないだろうか。
「伊織?」
「そうです。さっき警察に捕まっちゃったんです。でも悪いのは伊織だけじゃ」
「伊織、って、だあれ?」
院長先生は首を傾げ、微笑んだ。
「先生、知らないわぁ、そんな名前。だあれ? お外にいた人の名前?」
微笑みを湛えながら、言葉を続ける。
「うちには、そんな名前の子、いないものねぇ」
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