10.まどろみ

 ストーブが、灯油の匂いを漂わせながら低い唸り声を上げている。ソファに座っていると、頭ばかり火照ってきて、足元が寒さに痺れる。

 さっきから伊織は黙って机に向かっている。井村さんに渡されたらしい書類を見ながら、鉛筆で何かを書いている。時折算盤を弾いている。付き人部屋には机がないからと、私の部屋で作業することになったのだ。


「何を書いているの?」


 泣いたせいで喉がおかしく、変な声になってしまった。伊織は手を止め、顔を上げた。


「隣国の商人が、叶様の領地で商売をしたいんだって。その書類の確認をしろって言われて」


 具体的な作業の内容も教えてくれたが、よく分からなかった。随分と井村さんに頼られているみたいで、少しほっとする。この分なら私がいなくなっても、伊織はこのお屋敷で生活できるだろう。


 私がいなくなっても。

 その時は、すぐに来る。


 心臓が、破れそうに痛い。


「凛子」


 伊織は作業の手を止め、私の隣に座った。しゃくりあげる私を、気遣わしげに見つめている。


「ばかみたい……。私、本当、ばかみたいだよね」


 私の言葉に彼は首をゆっくり横に振り、涙を指で拭ってくれた。

 その手の小指側の縁は、微かに銀色の鉛筆跡がついている。


 ああ、そういえば、農場にいた時から、伊織は鉛筆の跡がついた手で、暗闇を怖がる私の手を握ったり、私の涙を拭ったりして、いつも支えてくれていた。


「も……もし、お米が喋れたら、私、お米に、怜様と同じことを言っていたと思うの。日照りや台風に負けないで元気に育ってね、収穫して食べる日を楽しみにしているよって」


 恥ずかしい。叫びだしたくなるほど恥ずかしい。食料の分際で恋をしていることを、美那様に気づかれていた。怜様にも知られてしまった。

 そのうえで、怜様は私の血を吸い尽くす日を楽しみにしている。


 当たり前なのだ。もともと私はそのためにこのお屋敷に貰われたのだから。

 翡翠は貴重だ。だから翡翠だと判明した途端に、他の人に先を越されないよう、すぐに買われ、何年も飼われる。その間、大事に扱われる。それは別に私だけではない。殆どの翡翠が同じような運命だ。

 人間なんて、翡翠なんて、そんなものだ。

 

「どうして、好きになっちゃったんだろう……」


 人間のくせに。食料のくせに。

 閉鎖された空間で、美しく優雅な人に優しげな声を掛けられて、何かを間違えてしまったんだろうか。捕食者を好きになる事で、死への恐怖から目を逸らそうとしているのだろうか。

 どれも当たっているようで、どれも違う気がする。何年も答えの出なかった問いが、今になって頭の中を駆け巡る。


 俯き、丸めた私の背中を、ぽん、ぽん、と軽く叩かれる。


「俺の今の気持ちを正直に言えば、凛子、何考えてんだよ、あんな奴を好きになりやがって、ふざけんな、って感じだけど」


 伊織の言葉に顔を上げる。

 言葉遣いとはうらはらに、彼の表情は穏やかだった。


「どんな形であれ、凛子が泣く姿は、見ていてつらい」


 涙の滲んだ目を乱暴にこすってみる。泣き止んでいるつもりなのに、喉の奥の痙攣が止まらない。


「その辺を普通に歩いている人達だって、人を好きになったからって必ずしも想いが叶う訳じゃないだろ。嶋田さんみたいなのは、物凄い幸運の部類に入ると思う」


 頷く。私は農場とお屋敷以外知らないが、多分この世界中の人間や吸血族の多くは、一度は叶わない想いに苦しんだことがあるのだろうな、と思う。


「それなのに、人を好きになる。なんでなんだろうな。しかもはたから見たらよせばいいのにって奴を好きになる人もいるし、好きにならなきゃもっと楽に生きられるのにっていう人に、人生を捧げるしょうもない奴もいる。でも、しょうがないんだよ、きっと。なんか最近、そう思うようになった」


 うん、多分、しょうがないんだと思う。私はもう一度頷いた。


 なんでだろう。どうしようもない片思いをしている事も、それを相手の配偶者の口から相手に知られたことも、その相手にもうすぐ命を奪われることも、何一つ状況は変わっていないのに。

 ただ、その事実を伊織に受けとめられた。それだけなのに、不思議と心が柔らかくいで来る。


「でもな、俺は凛子をこれ以上泣かせたくないし、苦しい思いをさせたくない。たとえそのために一時的に凛子に嫌な思いをさせたり、俺が嫌われたりしてもいい。凛子が幸せになるためなら、なんだってする」


 うん、と頷いた後、言葉に引っ掛かりを感じて首をかしげた。

 なんとなく流れで頷いてしまったが、今の言葉、いままでの話から変に飛んでいないか。私の幸せ、といっても、どうせあと三カ月だ。嫌われてもいいとか、なんだってするとか、なんかいつかどこかで聞いたような台詞だし。気持ちは嬉しいが、一体、何が言いたいのだろう。


「……まあいいさ、何があっても、俺は凛子の味方だ。とりあえずそれだけは覚えておいてくれ」


 伊織は子供の頃のように、ぷに、と私の両頬をつまんで引っ張った。そして立ち上がり、私の頭をぽんぽんと軽く叩くと、微笑んで机に向かった。




 ストーブが、部屋の空気の上のほうだけをあたためている。

 普通に座っていると足元が冷えで痺れてきたので、私はソファの上で丸まり、伊織が作業をする姿をなんとなく眺めた。


 ストーブの低い音。鉛筆の走る微かな音。ぱちぱちと算盤をはじく音と、時折、しゃっ、と算盤の上に指を滑らせる音。

 灯油の匂い。

 もつれたまま眠気に揺らぐ、私の心。


 ソファに横になった。途端に眠気が覆いかぶさって来る。今日一日、色々なことがあったのに、ストーブの熱と、伊織がそばにいるという安心感が、大きな欠伸となって表れた。しかも「ほわぁぁ」の声つきで。


「随分男前な欠伸だな」


 伊織に笑われたが、反論する気力もない位眠い。私は適当に微笑むと、ちょっとだけのつもりで目を閉じた。




 背中と膝の裏に違和感を覚えて、意識がゆっくり浮上する。

 いつの間にか、しっかり眠っていたようだ。目を開けようとした時に、自分の体が宙に浮かんだ。

 誰かに、抱きかかえられている。


 誰かって、多分伊織だろう。私はなぜか目を開けることを躊躇い、少し体を固くして寝たふりを続けることにした。

 少しすると、後頭部と背中、足の裏に柔らかいものが触れた。体が沈み込む。ベッドの上に寝かされたらしい。

 体の上に毛布が掛けられる。毛布は肩の上まで引き上げられ、軽く押さえられた。


「おやすみ」


 低く、柔らかく、心のひだに滲み込むような伊織の囁き声が聞こえる。


「もう少し、もう少ししたら、助けられるから。今度こそ絶対に、守り抜くから」


 傍らに立つ伊織の体が近寄る気配がする。

 私の額に、大きな手がそっと触れる。


「凛子」


 手は額にかかる髪を掻き上げ、離れていった。

 言葉は一度途切れ、続いた。


 低く、柔らかく、心の襞に滲み込むような、静かな静かな、熱のこもった声で、囁いた。


「愛している」

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