9.夜の廊下

 いつも通りの表情、いつも通りの仕草。嶋田さんとのお遣いから帰って来た伊織は、何も変わったそぶりを見せなかった。


「お遣いは、何も問題なく済んだの?」

「うん」


 私の言葉に、彼は少し首をかしげた。


「本当に?」


 イナゴ豆キャロブ入りのクッキーを少しだけ齧り、飲み下す。私はこれが大好きで、いつもは何枚も食べてしまうのだが、今は全く味がしない。


「さっき、嶋田さんにお遣いを指示された時、にぃっ、て、こんな感じでわらったでしょう」

「嗤ったかなあ」

「うん。ちょっと、嫌な感じだった」

「へえ。さっきのお遣い、俺はただ嶋田さんの後ろでぼけーっと突っ立っていただけで、面白いことも腹が立つこともなかったよ」

「そう」


 彼の顔を覗き込む。その表情から何も読み取れない。やはりあれは気のせいだったのだろうか。


「そっか、ごめん変な事言って。あとちょっと気になったの。嶋田さんの恋人の話。あれ……」

「ああ、あれね」


 そこで伊織は初めて表情を変えた。ふわっと花がほころぶような微笑を浮かべる。


「執事になるのって結構大変らしいけど、うまくいくといいよね。ああいう話って、なんか聞いていて嬉しくなる」

「嬉しくなる? さっき、羨ましいって」

「うん。凄く、凄く、羨ましい。だからきっと嶋田さんは幸せなんだろうなあと思うと、嬉しいだろ」


 ああ、そうだ。この人は、こういう人だった。


 なんだか、さっきの嗤い顔の事など、どうでもよくなってきた。私はお茶のおかわりを淹れようとポットに手を伸ばし、伊織に「俺の仕事を取るな」と言われて笑った。


 私も嶋田さんが羨ましい。

 自分の好きな人が、自分を好きになってくれる。想い合う人同士、長い生涯ずっと一緒にいることを誓う。


 私は、どれひとつとして叶わない。

 私は性格が悪い。だから自分と比較して、嶋田さんが羨ましくて、心がじくじくと痛む。




 薄暗い夜の廊下は、しんしんと冷気が満ちている。私は厚手のカーディガンの前を掻き合わせ、窓の外を見た。

 完璧に整えられた庭は、僅かな月明りに照らされて、藍色に沈んでいる。自分の靴音が廊下に響く。


 地下から食べ物の匂いが漂って来る。使用人達の夕食の匂いだ。醤油や胡麻油の匂いに混じって、鼻につんと刺さるような香辛料の匂いがする。

 皆、私ほど血の味に頓着していない。彼らにとって食事とは、あくまでも自分の命を繋ぎ、自分が楽しむためのものなのだろう。

 吸血族の不老不病のために食事をしているわけではないのだ。


「ああ、臭い! なんなのあいつら、汚らわしいったら」

「まあいいじゃないか。この食事が私達の血になるのだから」

「だからよくないのよ! この間なんか、女中連中が大蒜にんにく食べたのよ。信じられる? 口の中がずーっと痺れて、自分の肌から大蒜の臭いがして、すっごく気持ち悪かったんだから!」

 

 怜様と美那様が帰って来た。どこかの家のサロンへ行っていたらしい。静かなお屋敷の中に、美那様の大声がわんわんと響く。出迎えた井村さんが、「彼らには十分注意しておきますので……」などと言っていた。


「おや、凛子。どうしたんだい、こんな所で」


 階段を昇って来た怜様は、私の姿を認めると笑みを浮かべた。


「おかえりなさいませ。あ、別になんでもないです。伊織は地下に行っちゃっているし、何もすることがないので……」

「でもここは寒いよ。冷えは体に障るだろう。早く部屋にお戻り」


 私の手を取り、怜様が言った。

 滑らかな怜様の手は氷のように冷たい。けれども怜様に触れられた途端に頬が熱くなる。嬉しさと恥ずかしさで、心臓の動きが大きくなる。私は頬の火照りを悟られないように俯いた。


「こんな小娘にまで気遣うなんて、本当にあなたはお優しいのね、女には」


 美那様の声が、耳のすぐそばで響いた。顔を上げると、月明りに照らされた美那様の華やかな顔が目の前に迫っている。何故か怒り顔だ。後ろにいる怜様は、困ったような曖昧な笑みを浮かべて肩をすくめていた。


「女の形をしていたら、こんな貧相な人間でもいいの、あなたは」

「なんの話だい、いきなり」

「今日だってそうだったわ。誰彼構わずにこにこ微笑みかけて」

「社交だからね」

「ええそうね、社交と言えば聞こえはいいわよね。じゃあこの小娘に対する態度は何よ。気遣って、手まで取って」


 なんなんだ一体。美那様がいきなり突っかかって来ることは今までにもあったが、今日は突っかかり方がきつい。なにか嫌な事でもあったんだろうか。

 だいたい、「怜様の美しい奥様」という、私から見れば羨ましいばかりの立場にいながら、なんで私なんかに構うんだ。

 美那様は爪を紅く染めた白い指で私の顎を持ち上げ、顔をさらに近づけた。

 紅い唇を歪めて嗤い、囁く。


「そんな事するから、この子が勘違いして、あなたに恋をしちゃうんじゃないの。全くもう、たかが手を取られたくらいで顔を赤くして、ばかみたい」 


 頭に血が上り、手が冷たくなる。脚が震える。

 美那様の指が顎から離される。

 唇がわななく。


「そういう事は、本人の前で言うものじゃないよ」


 怜様の静かな声が、耳の奥で低く響く。


「あらなんで? 本当の事なのに。あなただって知っていたでしょう?」

「だから。もう、おやめ」


 美那様は怜様に近づき、体を摺り寄せて腕を絡ませた。怜様を見つめ、私を見、口角を吊り上げて嗤う。

 階段の下から井村さんの声が聞こえた。伊織に何かの指示をしている。

 階段を昇る靴音が聞こえる。

 伊織がこちらへ向かって来る。


「美那さんは、時々凛子に厳しいことを言うね。この際言っておくよ。もうこれ以上、そういった事はやめておくれ」


 美那様に腕を絡めとられたまま、怜様は私を見て微笑んだ。


「凛子は私の大切な『花嫁』だ。彼女にはいつも心安らかで美しくいてほしいのだよ」


 私を見つめる。

 私の目を見て微笑む。目を細め、口角をきゅっと上げて。

 柘榴石ガーネット色の瞳に、光が宿る。

 

「心の状態は味に影響する。人間みたいに水や酒が飲めるわけじゃないんだから、味は大事にしたいのだよ。それにもうすぐ血が成熟するからね。やはり大切に育て上げて、最良の状態で頂きたいじゃないか」


 おやすみ、と言って、怜様は美那様を伴い、自室の方へ向かった。




 廊下に座り込む。離れてゆく怜様と美那様の後姿がぼんやりと見える。二人の姿が湖の底のように揺らぐ。

 二人が扉の向こうに消える。湖は歪み、涙が滲む。

 伊織が駆け寄り、跪いて私の手を取る。あたたかな、大きな手が私を包む。

 そのぬくもりが目の奥に響き、涙が零れる。


「もう、やだ……」


 鼻の奥が痛い。恥ずかしさと、愚かな自分への怒りで心が痛い。

 絶望が、私の心臓を掴んで押し潰す。

 伊織の手のぬくもりだけが、私をちいさく支えてくれる。


 伊織は、廊下に座り込んで泣き続ける私に、跪いたまま、ずっと寄り添ってくれた。

 そしてハンカチで涙を拭い、ゆっくりと滲み込むような声で囁いた。


「寒いから、部屋に戻ろう」

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