8.気づかない

 私はずっと、ご隠居の事を誤解していた。

 言い訳ができないこともない。険しい声で話していたから聞き返すのが怖かったし、「なんて言っているんですか」なんて怜様に聞けない。だから分からなかった。

 だから五年間ずっと、私に向けられていた目を悪意あるものだと思っていた。


「私、ご隠居に申し訳ないことしちゃった」


 椅子に座り、俯く私に、伊織はカモミールとリンデンのお茶を出してくれた。優しく甘い香りが、寄り添うように私を包む。


「別にご隠居に対して何かを言っちゃった訳じゃないんだろ」

「そうだけど。でも、言っていることをちゃんと聞かないで、怒鳴られているーっていう気持ちでご隠居の事を見ていた事が申し訳なくって。駄目だなあ私。ご隠居の気持ちを、全然分かっていなかったんだ」


 言葉はきちんと聞かなければいけない。

 だが、私の場合、そもそも人が何を思い、自分と接しているか、今まできちんと向き合っていなかった気がする。

 このお屋敷で私は特別扱いを受けているが、それは「私」だからではなく「花嫁」だから。私の考えはそこで止まっていた。

 そんなお屋敷の中で、「私」の人生を考えてくれている人がいたなんて、知らなかった。


 このお屋敷にいる人達のこと。怜様は好きだし、美那様は苦手だけどちょっと憧れているし、女中達は受け付けないし、伊織は勿論大好き。自分はこうして人に対して色々な気持ちを抱いているのに。

 私、もしかしたら、今まで相手の気持ちを、思い込みだけで深く考えていなかったんじゃないか。


 ……あれ? ちょっと待って。


「俺、別に凛子を非難するつもりはなかったんだよ。直接失礼な事をしたわけじゃないんなら、ご隠居の事は、これから違う目で見ればそれでいいんじゃないかな」

「うん……。ありがとう。もしご隠居に言えるタイミングがあったら、『気にかけてくださっておそれいります』くらいは言いたいな。あのね、今回の事で分かったんだけど、私、今まで人の気持ちとか、あんまり深く考えたことなかった気がするの。たとえばさ、今、ちょっと思ったんだけど、伊織、私の事、『好き』って言ってくれるじゃない」


 私がそこまで言った時、伊織の体がのけ反るようにぐらりと揺れた。テーブルに手をつき、ティーポットが揺れる。ただでさえ大きな目を、更に大きく見開いている。私は言葉を続けた。


「でも『好き』って色々あるよね。例えばさ、私の事、どんなふうに『好き』なの?」


 私が全てを言い終わらないうちに、井村さんが部屋に来て、伊織を連れていった。




 さっき怜様も言っていたが、今日は天気が良く、比較的暖かい。私は庭に出た。


 丘の上に建つお屋敷の庭から向こうを見下ろす。青い海に太陽が溶け込み、柔らかく輝いているのが見える。冬の午後の太陽は淡く穏やかな色をしている。

 庭に目を戻すと、少し離れた所で雀が体をまんまるにして震えていた。確かにいくら暖かいとはいえ、外套なしでは寒い。私も雀と一緒になって震える。


 この美しく平和な世界にいられるのも、あと三カ月なのか。


 暫く忘れていた恐怖と絶望が、心の隅からぞろりと手を伸ばす。ご隠居の言葉と、吸血する前の怜様の笑顔を思い出す。

 肩を抱いて震える。

 その肩を、ふんわりと柔らかな感触が包み込んだ。


「何やっているんだよ。何か羽織らないと風邪引くぞ」


 伊織が後ろからショールをかけてくれた。肩を抱いた私の手を、ショールの上からそっと包み込む。

 彼の掌から、じわりと温もりが染み通る。

 心の隅に巣くう恐怖と絶望が、温もりに溶けてゆく。


「風邪を引いたって……」


 どうせあと三カ月の命だし、という言葉を呑み込む。体を少し動かし、背後から伝わる彼の体温を感じ取る。


 なんでだろう。伊織がそばにいるだけで、凄く心が安らぐ。

 やっぱり、大好きだなあ、伊織……。


「あ、そうだ、話がまだ途中だったんだ」


 私は振り返って伊織を見上げた。


「さっきの続き。伊織、私の事、どんなふうに『好き』なの?」

「はああっ?」


 伊織の口から愉快な声が飛び出した。彼の体がぐらりと揺れる。俯き、眉間に指をあてている。軽く溜息をつく。


「ねえ、大丈夫?」

「え」

「伊織、さっきもふらっとしていたでしょう。また目眩したの? 体調よくないの?」

「いやそのこれは目眩じゃ」

「ちょっといい?」


 私は彼の顔を引き寄せ、鳶色の目元に指を置いた。

 下瞼を引き下げる。案の定、彼の下瞼は真っ白だった。


「なんでかなあ。伊織、血が薄いの全然よくならないね。ちゃんと食べている? 今度から使用人部屋じゃなくて私の部屋で食事しようよ。伊織が食べているか見張っているから」

「いやだからそうじゃなくてあのな俺は」

「二人とも仲いいよねえ、相変わらず」


 顔を真っ赤にして何かを言おうとしていた伊織の言葉に被さるように、嶋田さんの声が割って入って来た。にこにこと私達の所へ駆け寄って来る。


「伊織がこの屋敷に来るって聞いた時、僕、凛子さんの事が心配だったんですよ。『地下独房入りの凶悪犯』を付き人にして大丈夫なのかってね」

「あはは、ありがとう。私も実は不安だったの、どんな人が来るのか。そうしたら伊織なんだもん。良かったよ。あのね、今、伊織のことが心配だよって話をしていたの。脚もよくなったし、元気っぽくしているけど、ほら」


 軽く抵抗する伊織の頭を持って、下瞼を嶋田さんに見せる。


「知っていますよ。叶様が『絶対に吸うな』って仰っていましたから。にしても本当に仲がいいですね。なんだか『花嫁と付き人』っていうより、『昔からの友達』みたいです」

「俺みたいな人間に気さくに接して下さる、凛子様に感謝しています」


 私が狼狽する間もなく、伊織が言った。頭を掴んだ私の手を外して、少し体を離す。

 体が離れるのと同時に、彼の体温に包まれていた私の体に冬の冷気が刺さる。


「うん。感謝だよね。だからこの屋敷では悪さをしないでよ。屋敷の外の悪党仲間みたいなのとも、もうつるんじゃだめだよ」

「分かっています。それに俺は今まで人とつるんで何かをした事はありません」


 私の方を少し見て、目を逸らし、言葉を続ける。


「家族も、仲間も、友人も、いませんから」


 この場での模範的な回答である伊織の言葉が、ちいさな棘になって心に刺さる。


「そっか……」


 嶋田さんは俯き、軽く石畳を蹴った。

 海からの風が、ざわざわと木々を撫でて昇ってくる。


「僕もさ、家族は、いないんだ」


 嶋田さんは海を眺め、上着のポケットに手を入れて言った。


「凛子さんには前にちょっと言ったけど、僕、おおとり慈善孤児院の出だから」


 鳳、の言葉に、伊織は目を細めた。

 鳳家の運営している孤児院は、吸血族や半吸血族専用だ。だから鳳家で使用人になるためには、吸血できる体が絶対条件だ。そのせいで伊織は使用人としての価値を認められながらも、鳳家に貰われなかった。


 嶋田さんは暫く俯いていたが、やがて顔を上げ、ニキビ跡だらけの顔をおもいきりほころばせた。


「でもね、僕は独りじゃないよ。ちょっと自慢していい?」


 上着のポケットから財布を出し、中に入っていた写真を広げ、伊織に見せる。私も写真を覗き込んだ。

 そこには、切れ長の目の可愛い女の子が写っていた。


「綺麗な目をされていますね」


 女の子を指し、伊織が言った。嶋田さんは嬉しそうに笑った。


「でしょでしょ。実物はもっと綺麗だよ。瞳の色は金赤色でね。比佐子ひさこ、って言うんだけど、比佐子、僕と同じ孤児院の半吸血族で」


 嶋田さんは、写真の女の子を愛おしそうに撫でた。


「僕が執事になれるって決まったら、結婚しようって約束しているんだ」


 無言で頷く伊織を見て、嶋田さんは言葉を続けた。


「僕らはさ、生き物としては最強だと思うんだよ。人間の血でも、水や食べ物でも生きられる。それなのに吸血族にも人間にもばかにされて。そんな同じ境遇同士が、支え合って生きてきたんだ。正直に言うと他の女の子にちょっとよそ見をした事もあるけど、やっぱり僕には比佐子しかいない。でさ、もし将来結婚して子供が産まれたら、大事に大事に育てるんだ」


 そこで嶋田さんは急に頬を赤らめた。


「……なんてなっ!」


 伊織の腕をばしばし叩く。


「十七の若造が何を言うって思っただろ今!」

「思っていません」

「思ったよ絶対。ねえ、伊織はどうなのさ。僕なんかと違ってもてるでしょう。なんか経験豊富そうな気がする」

「さあ、どうなんでしょうね」


 照れ隠しなのか、伊織の腕をばしばしと叩き続けながら話す嶋田さんを見て、伊織は少し笑った。


「俺は、あなたが羨ましいです」


 二人のやり取りを聞いていて、私は複雑な気持ちになった。

 嶋田さんは、伊織に対して一切悪意なく接している。そして伊織の詳しい生い立ちや事情までは知らない。

 『花嫁』と仲良くできて良かったね、今の状態を保ちたいなら悪いことはしちゃだめだよ、家族がいないのは自分と同じだね、でも僕には心の通じ合っている人がいるんだよ。

 嶋田さんの気持ちはそれだけなのだろう。好きな人を自慢したい。自分がどれだけ比佐子さんを好きなのか言いたい。それは多分、自然な感情だ。

 だが、それを聞いた伊織は、どう思うか。


 伊織は育った場所から存在自体を否定され、刑務所を出入りし、地下独房にまで入れられた。叶わない恋もしているらしい。今だって、一見平和に見えるが、私がいなくなった後どうなるか分からない。

 私がいなくなれば、彼は本当に独りになってしまう。

 そんな中、今の話を、どう受け止めたか。


 伊織は人の幸せを妬むような人ではない。けれどもやはり、自分の境遇と重ね合わせてしまうのではないか。今、どういう気持ちで「羨ましい」と言ったのだろう。

 純粋という名のやいばは、時として悪意よりも鋭いのかもしれない。ならば。


 ああ、やっぱり、もっと人の気持ちを考えるようにしなきゃ。

 私だって、気がつかずに誰かを傷つけるような事を言っているかもしれない。でも問題は、「気がつかず」だから、そう簡単には「気がつかない」かもしれないことだ。

 せめて自分の好きな人を傷つけるようなことは、したくないのだけれど。


 ……あ、そうだ。好きな人といえば。


 さっき伊織に聞こうと思っていた事。また聞きそびれてしまった。嶋田さんがいる前で聞くのもどうかと思ったが、私は口を開いた。


「あああっ!」


 私が話をしようとした時、嶋田さんは大声を上げた。


「まずい! やばい! どうしようこんなにお喋りしちゃった!」

「どうしたんですか」

「僕がここに来たの、伊織とお喋りする為じゃなかったんだよ。あのさ、これから僕と一緒にまゆずみ家にお遣いに行こうって言いに来たんだ」


 うおーやべー遅れるーなどと呟きながら、嶋田さんは写真を財布にしまった。


「お遣い? お屋敷の外に出るんですか、俺が」

「そうそう。これはさ、伊織の試験みたいなものだと思ってよ。井村さんがね、伊織が僕と一緒にお遣いに行って、何も問題なさそうなら、今後僕が忙しい時とか非番の時に、外出する用事を頼みたいんだってさ。これって凄いことだよ、分かる?」

「分かっています。脱獄と窃盗の前科者ですから」

「そうそう。だから叶様や井村さんの信用を裏切らないでよね」

「はい。おそれいります」


 嶋田さんは私に会釈をすると、速足でお屋敷に向かって行った。伊織は私に「失礼します」と言い、後ろを向き、嶋田さんの後を追った。


 その、一瞬。

 後ろを向くとき。そのほんの一瞬ではあったが。


 伊織は、片頬を吊り上げて嗤った。


 歪んだ笑み。

 なにかを企んでいるかのように嶋田さんを見据える、鳶色の瞳。

 

 私はストールを掴み、肩を震わせた。

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