7.誤解

私達の気まずい空気を、野太い濁声だみごえが引き裂いた。


「こんなうまい話を足蹴にするとか、意味わかりませんね! じゃあいいですよ、姉の嫁ぎ先だからってわざわざ好意で話を持って来たのに、こんな扱いを受けるなら今後一切話を持って来ません! 今時、資産だけで家を保っているところなんか、叶家以外、どっこもありませんよ! あんたはそうやって黴の生えた価値観に縛られたまま、よぼよぼの姿を晒して叶家と一緒に滅んでいけばいい!」


 遠くから聞いただけで一発で分かる。あれは秦家の当主の声だ。彼の声に被さるように、ご隠居の聞き取れない大声が響き渡る。

 扉を少しだけ開けて外を覗くと、大柄で丸々と太った秦様が――美那様の弟らしいが、見た目は全然違う――、紙の束を廊下に叩きつけて階段を降りるところだった。


 少し遅れて、怜様が秦様に駆け寄り、何かを言っていた。


「もう知らん! お前も同類だからな!」


 秦様は怒鳴って怜様を小突き、ぞろぞろ連れてきたお付きと一緒に帰っていった。


「おぉい、伊織、出て来い」


 暫くすると、一回りやつれた井村さんが、紙の束を抱えて部屋に入って来た。


「お疲れ様です」

「疲れたよ」


 井村さんは瞳だけでなく白目まで充血して紅くなっている。秦様とご隠居と怜様の間に挟まれて大変だったのかもしれない。普段のきちんとした身のこなしをどこかに捨て、彼はネクタイを緩めて椅子にだらしなく座り込んだ。


「喉渇いた。伊織、吸わせてくれるか」

「薄くてまずいですよ」

「だよな。いかにもまずそうだもんなお前。いいよな人間は水が飲めて」


 井村さんは紙の束を伊織に見せた。


「伊織、金勘定は出来るか」

算盤そろばんと帳簿記入は一通り出来ます」

「やっぱりお買い得だなお前。盗みなんかしなくても稼げたんだろうに。まあいいや。さっき秦様から頂いた書類の計算をする。一緒に手伝え」

「いいんですか、そんな仕事を俺に手伝わせて」

「しょうがないだろ。この家で算盤が使えるのは叶様と私とお前だけなんだから」


 紙の束を伊織に渡した井村さんは、扉の方に目を向けた後、声を落として言った。


「ご隠居様や叶様は昔気質の方だから、事業で儲けることを良く思っていないんだ。だから慈善事業まで金儲けの手段にしている秦家を嫌っていてね。知っているよな? 秦慈善孤児院」

「はい……」

「でな、美那様と接するときは、なんとなくその辺りの面倒な事情を考えたうえで喋るんだぞ。分かるよな? 美那様はああだから。『ああ』が何なのかは、察しろよな」


 こくこくと無言で何度も頷く伊織を見て井村さんは少し笑い、部屋を出ていった。少し遅れて伊織も出ていく。




 井村さんに掻きまわされた空気が部屋からなくなると、急に重い空気が体の中を満たした。一人で椅子に座っていると、さっきの伊織との気まずいやり取りや、秦様の怒鳴り声ばかりを思い出してしまう。

 頭を一回大きく振り、立ち上がる。


 考えていても仕方がない。私も喉が渇いた。使用人部屋に行って自分でお茶でも淹れよう。そういえばこの間伊織が淹れてくれた、オレンジピールのお茶、美味しかったな。あれ、何をどのくらいの割合で混ぜたんだろう。


 階段を降りようとした時、怜様達の部屋の方向から怒鳴り声が聞こえた。またご隠居が癇癪を起こしているらしい。


「ご安心ください父上。秦様に売却するような真似は致しませんから。それより少し外の空気でも吸いませんか? 今日は暖かいですよ」


 微かに聞こえた怜様の言葉に思わず階段を降りる足が止まった。


 どうしよう。ここじゃ逃げたり隠れたりできない。ご隠居に、また怒鳴られる。


 暫くすると、怜様と一緒に、車椅子に乗ったご隠居が出てきた。車椅子を押しているのは井村さんだ。その少し後ろに、伊織がいる。そこへ美那様が部屋から飛び出して来て、怜様に詰め寄った。


「あなたがたってなんでいつもそうなのよ! あの子の言う事を悪く捉え過ぎだわ!」

「私だって出来るだけ好意的な目で見ていたいよ。だが彼の言葉は信用できない。利益をちらつかせて、我々の土地を奪おうというのが見え見えだよ。これ以上美那さんと話していると父上の体に障るから、自分の部屋にいておくれ」


 怜様の口調は穏やかだが、思わずぞっとするような冷たさが籠っている。美那様は紅く彩られた唇をきつく噛むと、高い靴音を響かせて自分の部屋の方へ歩いて行った。


「おや、凛子」


 怜様の態度と美那様の剣幕に押されて立ち竦んでいたら、怜様に声を掛けられた。視線を逸らし、階段の隅に移動し、頭を下げる。


 顔を上げた時、ご隠居と目が合った。ご隠居は私の姿を認めるや、いつものように車椅子から身を乗り出すようにして私の事を指差し、大声で怒鳴った。


「……とんでもにゃ……じゃ!」


 ご隠居は翡翠を食べていない。だから肌は皺だらけで黒ずみ、髪は白髪でまばらだ。黄ばんで濁った目を見開き、歯の殆どが抜け落ちた口を大きく開いて怒鳴る。


 怜様も、私を食べなければ、いずれこうなるのだ。


 怒鳴られながら、そんな思いがちらりと頭をよぎる。


「……おかしい……じゃ! ……」


 ご隠居の怒鳴り声を聞いて、怜様は大きな溜息をついた。


「その話はもういいでしょう。では階段を降りますよ。伊織、車椅子を階段の下に運びなさい。終わったら井村が戻るまで、凛子の所で待ちなさい」




 階段を昇って来た伊織は、眉間に皺を寄せた険しい表情をしていた。


「お疲れ様。また怒鳴られちゃった。そうだ、ねえ、この間のお茶」

「凛子」


 私の言葉を遮り、伊織は低い声で言った。


「さっき凛子が言っていた『怒鳴られる』って、今みたいなことを言っていたの?」

「そうだよ。ご隠居が怜様と一緒に移動している時、ああやって怒鳴られるの」

「あれは凛子を怒鳴っているんじゃないよ」


 伊織が何を言っているのか分からず首をかしげる。彼は腕を組み、俯いた後、真っ直ぐに私を見た。


「ご隠居は歯が少ない上に口がうまく動かないんだろうね。特定の音が発音できなかったり、別の音になるみたいだ。俺、わりと訛りとか、そういうのを聞き取れるたちらしくて、今、ご隠居が何を言ったのかも聞き取れたんだ」


 伊織は外に向かう車椅子に目を向けた。


「ご隠居は、凛子にじゃなく、叶様に怒鳴っていたんだよ。凛子の事でね」


 ご隠居達は外に出た。扉の開けられるのを見る。

 そこに伊織の言葉が襲った。


「『こんな将来のある若い娘さんの命を奪うなど、とんでもないことだ。我々は人間の命を少しずつ頂いて生かされていることを、皆、忘れておる。翡翠の命と引き換えに若さを保つなど、おかしいだろう。そんなことを平気でする奴は、もはや自然の生物ではない。吸血の鬼だ』」




「凛子」


 ご隠居の出ていった扉を見つめ、立ち尽くす私に向かって、伊織は微かに震える声で、静かに言った。


「人の言葉を思い込みで判断するのは良くない。その人が何を言いたいのか、きちんと聞かないといけないよ」

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