6.叶家と秦家

 伊織がこのお屋敷に来て、何日くらい経っただろう。

 彼は私の身の回りの世話のほか、執事の井村さんや従僕の嶋田さんの手伝いをしている。『掬い上げ』だからと距離を置かれていたのは最初のうちだけで、真面目な上に読み書きが出来、仕事の呑み込みも早い伊織は、重宝されているようだ。


「吸血できなくても、『掬い上げ』の安い給金でこれだけ使えれば充分もとは取れますね。伊織は実にお買い得でした。さすが叶様、お目が高い」


 もうちょっと遠回しな表現でもいいんじゃないかと思うが、井村さんが怜様にそんな事を言っていた。


 伊織が地下独房に入った大きな理由は『二度の脱獄』で、別に残虐な罪を犯したせいとかではないそうだ。そのあたりも、早くお屋敷に馴染めた原因の一つかな、と思う。

 だが、三度目に犯したという『窃盗と住居侵入』に関して、怜様は「詳しい罪状は公表されていないのだよ。こういう場合は、私も皆も、下手に詮索しない方が身のためだからね」としか言わなかった。


 伊織と二人だけの時間が出来ると、彼は外の事や今までどんな仕事をしていたのかなどを話してくれる。だが犯した罪の事も、想いを寄せている人の事も、私の命の限りの事も、殆ど話題にすることはなかった。そして私も、何となく怖くて聞けないでいた。


 淡々と、不安になる程淡々と、時が経つ。


 


 今日はお屋敷全体の空気が違う。

 一見、いつもと変わらない朝だが、お屋敷全体に、突き刺さるような空気が満ちている。怜様はいつもの穏やかな雰囲気を纏ってはいたが、私に牙を立てたものの殆ど吸血しなかった。

 お屋敷の空気や怜様の様子で、ああ、今日はのか、と分かる。


「いい? 絶対外に出ちゃだめだよ。ホント頼むよ」

「分かりました。こちらにおります。出ませんから。大丈夫ですって」


 昼食後、嶋田さんと伊織がいきなり私の部屋に入って来た。嶋田さんに背中を押される格好の伊織は、うんざりしたような顔をして溜息をついている。


「大丈夫う? 出ちゃ駄目な所は出ちゃ駄目なんだよ。絶対だよ。平気かなあ、伊織、脱獄名人だし……って、おぅ」


 最後の一言は色々まずかったと思ったのか、嶋田さんは語尾を濁して私の部屋から飛び出して行った。


「どうしたの? 出ちゃだめって、何事?」

「叶様に『来客中は絶対に凛子の部屋から出るな』って言われて」


 きれいに切り揃えた白髪頭を掻きながら、伊織は昔の口調に戻って言った。


「来客って、はた様だよね。わざわざここへ来るって事は、またご隠居とひと騒動起こすんだろうなあ」

「ひと騒動?」

「うん。内容は分からないけど、本当に騒動になるんだよ。下手するとこの部屋まで声が聞こえるよ」


 この家の当主は怜様だが、怜様のお父さんであるご隠居がこのお屋敷にいる。ただ、殆ど寝たきりの生活をしていることもあり、めったに会うことはない。

 ご隠居は私を見かけると、唾を飛ばして大声で怒鳴る。何を言っているのか聞き取れないのであまり気にならないのだが、私を嫌っているのかなあ、と思う。


「そんな騒動起こす人に見えなかったけどなあ。俺、一度ご隠居に会ったことあるけど、優しい人だよね。『君は悪人の相ではない。反省し、よく働き、更生しなさい。そのために当家を踏み台にしてもいい』なんて言ってくれた」


 え、あのご隠居が?


「そんな事言ってもらったの? 私なんか会うたびに怒鳴られるよ。何言っているのか分からないけど。あ、ご隠居の話、よく聞き取れたね。えー。なんでだろう。やっぱり伊織が可愛いからかなあ。美人は得だよねえ」

「なんだよそれ。全然嬉しくないし」


 伊織は子供の頃から「可愛い」と言われるのを嫌がる。特に私に言われると凄く嫌そうな顔をする。案の定、今回も嫌そうな顔をした。

 彼はそっぽを向いて少し怒ったような顔をした後、私の方に向き直り、「それに」と言って一回息を呑んだ。


「俺は、自分なんかより、凛子の方がずっと可愛いと思う」


 頬を染め、そんなことを言う。

 いつもそうだ。彼は私の事を可愛いと言ってくれる。自分が大して可愛くないのは自分が一番よく分かっているから、言われるたびになんとも言えない気分になる。

 だが、彼は冗談で言っているわけではないらしい。私は微笑んで言葉を受け止めた。


 伊織は少しかがんで私の頬に顔を寄せた。唇で頬に触れる、親愛表現をする時の仕草だ。

 だが、彼は顔を寄せただけで、私の頬に触れることなく立ち上がった。


「あれ?」


 伊織は私に背を向けると、窓に向かって歩き出した。軽く拍子抜けしてしまった私は、こちらから親愛の情を示そうと彼に駆け寄り、背後からぎゅっと抱きついた。

 思ったよりもずっと広い背中に軽く戸惑う。


「どうしたの? 伊織。ね、大好きだよっ」


 私に抱きつかれ、伊織は立ち止まったまま動かないでいた。私の言葉に応えず、暫くそのまま時間が過ぎる。


 やがて、彼は直立したまま、喘ぐような声を絞り出した。


「そういうの、もう、やめてくれ……」


 抱きついた背中が、伊織の声に合わせて僅かに震える。私は彼の体に回していた腕をほどき、ゆっくりと離れた。

 私が離れると、伊織は深い溜息をついた。


「ごめんね」


 私の言葉に、彼は振り返ることなく首を横に振った。


 心の中に鉤爪が刺さる。

 ふと、以前言っていた、伊織の好きな人の事を思い出す。


 そうだ。お互い、昔とは違うんだ。

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