5.すれ違う夜

 お茶を飲み、ベッドに入っても眠れない。頭の中は色々な考えで一杯で、目はどうしても部屋の隅の扉を見てしまう。


 今日は結局、伊織と大して話すことができなかった。お屋敷の案内の後、彼は私の事以外の仕事で色々呼び出されたからだ。この五年間にあったことも殆ど聞いていないし、私も話していない。


「ねえ」


 私はベッドから出て、錠前の掛かった扉の前で声を掛けた。


「うん?」

「起きている?」

「うん」


 扉の向こうで軋む音がする。伊織がベッドから起き上がったらしい。やがて何かを引き摺るような音がした後、扉がごとりと音を立てた。


「大変だったね、色々。脚とか、体調とか、大丈夫?」

「うん。脚はそのうち良くなるだろうし、刑務所に入る直前までは嘘みたいに体調良かったんだよ。だから俺の事は気にしないで。ありがとう」

「そ……う。良かった」


 言葉が途切れる。沈黙が耳の奥でじんじんと響く。


「凛子」


 扉の向こうで伊織が息を呑むのが気配で分かる。


「朝、言っていた、その、叶様の事」


 ああ。来たか。

 当たり前か。避けられるわけがない。私は相槌を打った。


「本気、なのか」

「うん……」

「なんでだよ。あと何カ月かで自分を殺す気でいる奴だぞ」

「あのね、あと、三カ月ちょっと。私の誕生日に……なんだって。それが、伝統だっ」

「ふざけんなよ!」


 扉が震えるほどの声で伊織が叫んだ。彼の剣幕に押され、思わず床に座り込む。

 彼の叫びの余韻が去り、また、沈黙が辺りを支配する。


「もし……」


 伊織の声は僅かに震えていた。


「俺が魔法使いか何かで、今ここから確実に逃がしてやるって言ったら、ついてくるよな?」

「え……」

「ついてくるよな?」

「ん……え、と……」

「えーと、じゃないだろ、何言ってんだよ!」


 扉が強く叩かれる。


「今日一日でよく分かったよ。あいつは凛子の事を大事にしている。だけど愛情なんかこれっぽっちもない。全然ない! もし凛子がここから逃げても、あいつは財布以外、何も痛まないよ。もし本当に不老不病を望むんなら、嫁の家に借金するなり領地を売るなりして新しい『花嫁』を買えば済むことだ。あいつにとって凛子は、そんなもんだ。でも」

「そんなの分かってるもん!」


 伊織の話を聞くのが堪えられなくなって、私は彼の言葉を遮って叫んだ。声を落とせと頭の隅で何かが言っている。でも、抑えがきかない。


「怜様にとって、私なんかただの食糧兼栄養剤だよ! 大事にされているのは珍しくて高いからだよ! 私は人間だし、翡翠だし、だから、怜様の事を好きになるだけ無駄で、自分がばかだって、分かってるもん。私がお米に好きになられても困るのと同じだもん。だけど」


 扉に手をつく。ずっと心の中に押し隠していた想いが溢れ出す。想いは声になって、涙になって、扉の向こうの伊織に向かってぶつかってゆく。


「好きなんだもん……」


 扉の向こうの沈黙が、私の想いを部屋の中に彷徨わせる。


「だから、まだ、いいのかなって。最近、そう思うの」


 沈黙は続いている。伊織が私の言葉をどう受け止めているのか分からない。それでも私は話し続ける。


「私は翡翠だもん。いずれ必ず、誰かに血を吸い尽くされるんだもん。でもさ、自分の好きな人なら、まだ、いいのかなって。このお屋敷に来てしばらくは毎日泣いていたよ。でも、そう思えばさ……」


 声が詰まる。絨毯が私の涙を吸い込んでゆく。この絨毯は五年間で、一体どれくらいの涙を吸い込んだだろう。

 扉の向こうで、何かが動く音がした。


「ねえ、伊織」


 扉をそっと叩く。


「伊織は、こんなふうに、誰かを好きになったこと、ある?」


 答えが返ってこない。私が話題を変えようと口を開いた時、伊織の声が聞こえた。


「……あるよ」


「あるんだ!」

「そういう質問しておいてその言い方ってひどくない?」

「う、うん。そっか。ごめん。ちょっと、びっくりしただけ。え、それって、もしかして、恋人?」

「違うよ。完全な俺の片思い」


 微かに笑う声がする。

 確かに、今、驚くのはおかしかったかもしれない。伊織は外の世界に五年間もいたんだ。その間に恋の一つや二つ、しているに決まっている。

 自分が恋をしているくせに、三歳年上の友達の恋に驚くって、変な話だ。


「その人のこと、今でも好きなの?」

「うん。もう何年越しになるのか分からないし、きっとこれからもずっと好きだ」

「でもその人、人間だよね? だったら何年越しとか言っていないで気持ちを伝えたらいいのに」

「言ったよ。二回言った。二回言って、どっちも撃沈した」

「なんでえ? 伊織いい人なのに。ふられる理由が分からない。その人、変だよ」


 また、微かな笑い声。


「……凛子は、結構残酷だな」


 少しの沈黙の後、そんな呟きが聞こえた。


「想いが叶えばそれに越したことはないよ。でも俺は、自分が彼女にどう思われるかよりも、どう思われようと彼女を助けたい、って思っている」


 扉が低い音と共に少し動いた。伊織が壁にもたれ掛かったのだろう。私達を隔ててる錠前が、がたりと揺れた。


「助けたい?」

「そう。彼女を助けたい。救いたい。守りたい。そのためなら、それこそ自分が嫌われても構わない」


 ふう、と息を吐く声が聞こえる。


「その人、何か危ない目に遭っているの?」

「うん。だから俺はふられたからって呑気に傷ついたり躊躇ったりしている暇はないんだ」


 伊織の声が低くなる。きっと、彼女の姿を思い浮かべながら話しているんだろうな、と思う。

 彼女への想いが、扉の向こうから私の心に届く。


 どうしてだろう。

 彼の話を聞いていると、不思議と息が詰まって、胸が痛くなってくる。


「彼女は自分の置かれている危険な環境から目を逸らして、温かい泥沼の中で夢を見ている。俺は彼女を泥沼から外に連れ出したいんだ。そのための方法も見つけた。でも、彼女は夢から覚めたくない。だから、危険が目の前に迫っても、お前なんかについていかないって言うと思う。それでもいい。たとえ想いが叶わなくても、嫌われても、それこそ罪を重ねてでも、俺は彼女を救って、守り抜く」


 言葉が途切れる。長い沈黙の後、また、ふう、と息を吐く声が聞こえた。


「……なんか、いきなり重たい話を押しつけてごめん。寝る前に聞く話じゃないよね。とりあえず今日はもう寝ようか」


 伊織がわざとらしい明るい声で言った。多分、照れているのか、今日はこれ以上話したくない、という意味なのだろう。

 確かにもう遅い時間だし、伊織の体の事もある。とりあえずもう終わらなければ。

 でも。


「伊織」


 心が、苦しい。たまらなく苦しい。

 俯き、顔を上げ、声を掛ける。


「せつないね」


 私の言葉に、彼は一言呟いた。


「そうだな」




 ベッドに入り、暗闇に向かって問いかける。


 知らなかった。伊織は心の中に、あんなにも深い熱を抱くような人だったんだ。

 この五年の間に変わった、とも考えられるが、もしかしたら私は、そもそも伊織のことを全然分かっていなかったんじゃないだろうか。 


 そして、怜様のこと。

 好きだ。大好きだ。それは間違いない。でも、今日聞いた伊織の好きな人への想いと、私の怜様への想いは、なにか違う。

 性別も置かれた状況も違うから、違って当たり前ではあるけれども、なんというか、もっとこう、一番深い所が決定的に違う気がする。

 なんだろう。


 寝返りを打つ。

 また暗闇に向かって問いかける。


 果たして私は本当に、怜様のことを『愛して』いるのだろうか。

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