4.悪口
毎晩飲んでいるフェンネルのお茶が、今日はなぜか優しく、懐かしい味に感じる。
あ、そうか。これ、伊織が淹れてくれたからだ。
「なんでだろ。昔から伊織が淹れてくれるお茶っておいしいよね。ありがとう」
伊織は私の言葉に微笑み、おやすみの挨拶をして部屋を出た。
しばらくすると、私の部屋の隅にある扉の向こうから、ごとごとという音が聞こえた。伊織が付き人部屋に入ったのだろう。
付き人部屋には、廊下側に面した扉と、私の部屋に繋がる扉がある。だが、部屋側の扉には、大きな錠前が取り付けられている。錠前の鍵はない。
伊織の提案で、他の使用人の手によって捨てられたからだ。
今朝、怜様に吸血された後、具合が悪くなってしばらく眠ってしまった。起きたのは一刻後くらいだったと思う。
目が覚めた途端に心の中に吹き荒れたのは、猛烈な後悔の嵐だった。
恥ずかしい! 私、なんであんなにあっさり怜様のこと、伊織に話しちゃったんだろう!
伊織だって困っただろう。独房から出られたと思ったら昔の友達の付き人にさせられて、それだけだってびっくりだっただろうに。そいつがこともあろうに命を奪おうとしている吸血族を好きになっていて、そしてその吸血族が自分の雇い主って。私だったら、どう対処したらいいか分からない。
どんな顔をして伊織に会えばいいんだ、と思いながらベッドから起き上がると、部屋の隅に伊織が従僕の嶋田さんと立っていた。
仕事の話をしているのだろうか。嶋田さんが話すたびに、伊織は真剣な表情で紙に何かを書きつけている。
伊織は縁取りのついた消し炭色の詰襟の上着を着ている。嶋田さんも同じ服だが、細身で背の高い伊織が着ると、別物のように映える。
ただ、詰襟の仕着せは「吸血対象外」の印で、本来、人間と見分けがつきにくい半吸血族の嶋田さんみたいな人が着るものだ。
私の気配に気づいた伊織が振り向いた。
「おかげんはいかがですか、凛子様」
よそいきの言葉で声をかけ、近づいてくる。私の顔を見て、微笑む。
その姿は「花嫁の体調を気遣う付き人」そのものだ。彼の過去も、私達の関係も、さっきの会話の事も、何も読み取れない。
そのよそよそしい態度に、少し救われる。
「もう大丈夫。ありがとう。……そうだ、もし嶋田さんとの話が終わったら、お屋敷の中を一緒に見て回らない? 案内するよ、暇だし」
今の私の態度は、会ったばかりの『掬い上げ』の人に対して取るものじゃなかったかもしれない。ただ、嶋田さんは特に今の言動を気にしていないようだった。
「凛子さんがそう言ってくれると僕が助かります」
彼はそう言ってにきび跡だらけの頬を緩め、あっさり部屋を出ていってしまった。
伊織に会えた喜びと、色々聞きたいという思いと、怜様の話は流してくれという願望が入り混じった心を抱えて、お屋敷の中を二人で歩く。
「――で、ここから先が怜様や美那様のお部屋や寝室とかで、基本的に私なんかが入っちゃいけないところ。で、あのへんは全部ゲストルーム。じゃあ一階に行くね。一階はサロンやバンケットルームばかりだから、私は関係ないんだ。『花嫁』がお客様と会うことは殆どないからね」
伊織の歩調に合わせてゆっくり歩く。彼は私の話を聞くことに徹しており、自分からは何も話さなかった。
周りを窺う。近くに使用人がいないのを確かめると、私は部屋の話をやめ、声を落として伊織に聞いた。
「伊織。一体、何をやったの?」
「何が?」
「何がって、その、ぜ、前科の話だよ」
「ああ」
手摺にしがみつくようにして階段を降りている伊織は、暫くの沈黙の後、私の方を見ずに淡々と答えた。
「一回目は『農場の子の誘拐未遂』。誘拐したのは『翡翠』じゃない別の子って事になっていて、俺は浮浪者扱いになっていた。で、刑務所に入って、脱獄して、それが見つかって刑務所二回目。で、脱獄して、盗みに入って見つかって」
「ちょ、ちょっと待って」
物凄く淡々と、とんでもない情報を次々出され、私は彼の言葉を遮って大声を出してしまった。
「最初のって、もしかして私と農場を逃げ出した時の事?」
「そうだよ」
「そうだよ、じゃないよ。その話、嘘ばっかりじゃない。そんな事許されないでしょ」
「許されるみたいだよ。秦家の農場から脱走者が二人も出たなんて世間に知られたら大変だし。ほら、秦家は大きいから、色々出来るらしくて」
私の顔を見て、口の端を歪めて笑う。その時一瞬見せた彼の
「外では、人間の扱いって、そんななの?」
「まさか。俺の件が特殊なだけ。で、三回目のは、『鍵』を」
一階に着き、伊織がそこまで言った時、少し離れた所で女中が三人、こちらを見ているのに気がついた。昔と同じ話し方をしていた私達は、慌てて口を
女中達は、伊織に向けて遠慮のない視線を投げかけていた。嫌な予感がする。あの人達、三人で固まるとろくなことがない。
「ほらぁ。言ったじゃない。女じゃないよ。おじさんだよ」
一人が言う。おそらく、こちらまで聞こえているのが分かっていて、わざと言っている。
「やめなよぉ。指差すの。あいつ、凶悪犯だよ。殺されるかもしれないよ」
「『花嫁』、あんなの付き人にされたんだあ。まあいいのか、付き人なんか、食べられるまでの飾りなんだしね」
『花嫁』の言葉が出た途端、伊織が女中達の方に振り向いた。振り向いた伊織の顔を見て、彼女達から小さな悲鳴が上がる。
「怖ぁい。飾りとか言っちゃだめだよぉ。殺されるよ。やだよねえ、あんなのがいたら。雰囲気悪くなっちゃう」
「ねぇ見てよ。人間なのに詰襟着ている。叶様も奥様も、あんなやつの血、気持ち悪くて吸えないんだろうね」
なんなの、さっきから。
腹立たしさで、手の先が冷たくなる。
この三人組の口が悪いのはいつもの事だ。彼女達は集まると噂話と悪口と嫌味しか言わない。
三人で集まると、お屋敷にいる人やお客様の話で盛り上がり、二人になるとその場にいない一人の悪口を言っている。そういう人達なのだ。
殺される殺されると言いながら喋り続けているのは、伊織を完全に舐めているからだろう。
私は彼女達の方を向いて睨みつけ、ひとこと言ってやろうと口を開きかけた。それを伊織に目くばせで止められる。
でも、と一歩踏み出した時、頭上から怜様のよく通る声が響いた。
「またあなた達ですか。なにか耳障りな
怜様が、眉を
階段を降りた怜様は、女中達を見据え、一息置いてからゆっくりと口を開いた。
「あなた達が、私の『掬い上げ』の目利きと雇用に文句を言えるほどの立場にあるとは驚きました」
怜様の言葉に、悪口を言われていた側の私まで
この口調。基本的に穏やかで争いを好まない怜様が、本気で怒っている時の口調だ。
「彼が詰襟を着ている理由について、勝手な事を言っていますね。気持ち悪い? 違います」
怜様は伊織の方に歩み寄った。そして伊織の顎を乱暴に掴み、そのまま顔を女中達の方へ向けさせる。
「この顔色。彼は血が薄いのです。だから客にうっかり手をつけられることのないよう、詰襟を着せているのです。単純な理由です。そんな人間を、何故掬い上げたのか。それも単純です。彼には様々な業務をこなす高い能力があるからです。あなた達と違ってね。そうでなければうちに血の吸えない人間を雇う余裕はありませんから。ねえ」
怜様ににこやかな笑顔を向けられ、井村さんは複雑な表情をして肩をすくめた。
「あの、叶様、この者のことは分かりましたから、そろそろ……。秦様をお待たせしますと、その」
「ああ、そうだった。怖い怖い」
怜様は井村さんに向かってとぼけたような笑みを浮かべると、女中達の方へ目を向けた。彼女達は怜様に向かって口々に詫びの言葉を叫び、逃げるように去って行った。
「そういうわけですから。怠けず、よく仕事に励みなさい」
怜様は伊織の顎を再び掴み、自分の顔の方に寄せた。
柘榴石色の瞳で伊織の目を覗き込み、強張った表情の伊織に向かって、低い声で囁く。
「くれぐれも、私の期待を裏切るような真似はしないように」
そこで怜様はふっと微笑み、顎を掴んだ手を離した。私の方に目を向けた後、歩き出す。
少し歩いたところで振り向き、伊織に向かって声を掛けた。
微笑みながら。
「伊織だって、凛子がいなくなった後、路頭に迷いたくないでしょう?」
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