3.あなたが『好き』

 乱雑に刈られた白髪の頭を下げ、初対面であるかのように挨拶をする伊織を前に、私は言葉を失った。


「凛子、ほら言った通りでしょう。元囚人といってもこんな感じだから、構えずに気楽に使うといいよ。……伊織、だったっけ。よく凛子の指示を聞き、仕えなさい。あとでここに来る従僕の嶋田に、家の事は聞くように」


 さて、と言って怜様が私の方を向いた時、執事の井村いむらさんが部屋に入って来て、怜様に何かを耳打ちした。

 怜様の眉が僅かにひそめられる。何か面倒でも起きたのかもしれない。怜様と井村さんは、小声で何かを話しながら部屋を出ていった。




 部屋の中には、私と、伊織の二人だけになった。

 伊織は、背中を僅かに丸め、落ち着かない様子で黙って立っている。私の方を見、きまり悪そうに曖昧な表情を浮かべている。

 そのまま暫く時間が過ぎる。


「……伊織」


 何か話さなければと発した私の声に、伊織は少し首を動かした。


「私のこと、覚えている?」

「勿論。忘れるわけないだろ」


 僅かに目尻を下げて、穏やかに微笑む。

 ああ、この感じ。この話し方。私の知っている伊織だ。

 よそいきでない彼の声を聞いた途端、体の奥から言葉が一気に溢れ出した。


 今までどうしていたの。どうやって生活していたの。あの日、捕まってからどうなったの。どんな裁きを受けたの。食事は摂れていたの。病気はしなかったの。その脚はどうしたの。その髪はどうしたの。あなたみたいな優しい人が、どういう理由で、地下独房入りになるような罪を犯したの……。


 だが、そのどれもが声にならず、私は彼を見つめたまま立ち竦んでいた。

 どうしよう、何から聞いたらいいのだろう、怜様が戻ってくるまでの間に、何を聞いたら……。


「……あの」


 無言で立ち竦む私に向かって、伊織は躊躇ためらうように声をかけてきた。


「出来れば……叶様が戻るまで、椅子に、座りたいんだけど」

「え、あ、ご、ごめん気がつかなくて。いいよいいよ何言ってんの。これ座って。そんなのいちいち私に聞かなくても」


 言いかけて、言葉を呑み込む。

 今の私達の立場を思い出す。伊織は椅子に深く腰掛けると、俯いて大きく息を吐いた。


「疲れた? 脚、痛そうだけど、怪我でもしたの?」

「怪我……というか」


 俯いたまま、ゆっくりと脚をさする。


「ひと月の間、足枷をしたまま床に正座していたから」


 顔を上げ、私を見、困ったような顔で少し笑う。


「いきなりこんな状態で俺が出て来て驚いたろ。なんでこんなことになったのかは、おいおい話すよ。けど取り敢えずこれだけは言っておく。地下独房に入っていたからって、凛子がそんな顔しなきゃいけないような事はしていない。だから怖がらなくていい。髪や脚はこんなになったけど、俺は何も変わっていないから」


 私を落ち着かせるためなのか、ゆっくりと話し掛ける。


 違う。怖がっているんじゃない。伊織が怖いわけないじゃない。私が今こうして立ち竦んでいるのは、あなたへのいろんな気持ちがいっぱい過ぎて、身動きが取れなくなってしまったからなんだ。


 伊織は少し咳込んだ後、私を真っ直ぐに見つめた。


「でも、凛子は変わったな。凛子は――」


 蒼ざめた彼の頬が、ほわっと桜色に染まる。


「きれいになった」


 そして俯いてはにかむ。

 その瞬間、私の心の中の何かがほどけた。

 

「……ごめ……ん」


 心の中に詰まった気持ちが言葉になって唇を震わせる。言葉と共に、涙が溢れる。

 私はその場でうずくまり、顔を手で覆った。溢れる涙が、溢れる気持ちが、ぽろぽろと絨毯の上に零れ落ちる。


「こんな……こんなになって、あ、あんなきれいな髪の毛だったのに、脚だって、ど、独房だって、本当は、こんなことにならなくても、いいはずだったのに……あの日、わ、私を、助けてくれようと、したから……。こんなことに、なったんでしょう? わ、私のせいで」

「違う。凛子のせいじゃない」


 沁み込むような声が、私の言葉を遮る。


「あの時は、ただ俺が凛子を助けたいと思っただけ。でも助ける力も運もなかっただけだ。五年前の俺はばかで、凛子に怖い思いもさせたけれど、助けようとした自分に後悔はない。だって、あの時からずっと、俺の気持ちは変わっていないから」


 伊織は椅子から立ち上がり、小さな呻き声を上げて私の目の前にひざまずいた。

 顔を覆った私の手を、ゆっくりと外す。五年前に比べ、荒れて硬くなった指で、そっと涙を拭う。

 滲んだ視界に、伊織の鳶色の瞳が映る。彼は息を呑み、言葉を続けた。


「俺は凛子が好きだ。今も、これからも、ずっと」


 ……ああ、もう。五年前と一緒だ。


 また、うっかりどきっとしてしまった。私は彼から顔を離し、涙を拭いて笑った。


「もう……。だからその言い方、一瞬びっくりするんだって。なんか告白みたいだよ。……でも、ありがとう。私も伊織のこと、大好き」


 扉の向こうから足音がする。あの足音は、怜様のものだ。私は伊織に立ち上がるよう、身振りで示した。

 伊織はゆっくりと立ち上がりながら溜息をつき、「いい加減、気づけよ」と呟いた。




 気づけって何に? と聞く前に、怜様が部屋に戻って来た。

 私を見て、微笑む。

 形のよい唇がきゅっと上がり、涼やかな柘榴石ガーネット色の目が細められる。その表情を見て、私の心臓がちいさく震える。

 分かっている。この微笑は、「吸血」のサインだ。私のことを「おいしい食料」だと思っている時の表情だ。

 分かっているのに、微笑を向けられると、ときめいてしまう自分が悲しい。


「待たせたね。では、貰おうか。伊織はそこで待っていなさい」 


 険しい表情をして少し前のめりになった伊織に、私は「大丈夫」の意味を込めて手で制止する仕草をし、微笑んだ。

 怜様と並んでベッドに腰かける。長い髪の毛を右肩の方へまとめて流し、首を少し右に傾ける。怜様は私の右肩に腕を回して体を引き寄せる。

 柘榴石色の瞳が光り、私に顔を近づける。

 耳元で、めり、という牙の伸びる音が聞こえる。私は目を閉じ、膝に置いた手に力を入れる。

 ぷつりと皮膚の裂ける僅かな痛み、続く柔らかで冷たい唇の感触。

 怜様が私の首筋を吸う。それと同時に血が怜様の喉に流れ込む。私が生きるために流れていた命の源が、怜様の食事として吸い取られてゆく。

 背骨に痺れが這い上がる。その独特の違和感に、ちいさく声を上げる。痺れが遠のき、息を吐く。怜様が喉を鳴らすたびに、背骨が痺れ、血を失った頭の中がぐらぐらと揺れる。足の先が、少しずつ冷たくなる。


 目を開けてみる。伊織はさっきと同じ、少し離れた所に直立していた。

 私を見ている。瞬きもせずに私が吸血されるさまを凝視している。表情のない彼から、今、何を思っているのか、読み取ることは出来ない。

 だが視線を下に降ろすと、彼の両手の拳が小刻みに震えていた。


 大丈夫だよ、伊織。もう慣れたし、好きな人に血を吸われているんだから、つらくはないんだよ。


 そう思って、伊織の顔を見て微笑んだ。頭がぼんやりしているので、だらしのない表情になってしまったかもしれない。

 また、背骨に痺れが走った。声を上げ、目を閉じる。

 視界から伊織が消える。




「……ああ、ごめんね。今日は少し吸い過ぎたかもしれない」


 怜様は首に流れる血を冷たい舌で舐めた後、私から離れた。

 体中の血が一気に巡り、動悸がする。ベッドに倒れ込み、怜様を見上げた。


「ごちそうさま。ああ、伊織、その棚に道具が入っているから、凛子の首の手当てをしなさい」


 怜様は、額にかかった黒く艶のある前髪を直し、部屋を出ていった。


 


 ぼんやりと天井を眺める。伊織が脚を引き摺って私の所へ来る気配がする。


「凛子」

「うん……」


 うまく働かない頭を巡らし、声を掛ける。


「大丈夫だょ……。まいにち、ちょっとずつ吸われるだけだもぉん……。もう、なれたし……」


 伊織は棚から白い布や薬を取り出し、軽く呻いて私の傍に跪いた。

 私の顔を覗き込む。

 目が合う。鳶色の瞳の奥が、ゆらゆらと揺れている。


「毎日……五年間、毎日、今みたいにされていたのか」


 喉の奥からようやく這い出したような擦れた声で、伊織は言った。

 布を持った手でベッドの端を強く掴んでいる。


「毎日、ああやってくっつかれて、触れられて、牙を立てられて、血を吸われて、そして……」

「そうだよぉ……。だって、はなよめ、だもん……」


 『花嫁』だから、でもないか。そもそも伊織も含めて私達は、吸血族に血を吸われるために農場で育てられてきたのだ。そんなこと、伊織だって分かっているだろうに。

 ああ、でも、そういえば、伊織は私が『花嫁』として命を失うことだけではなく、吸血族に触れられるのも嫌だみたいなことを言っていたな。

 なんでだろう。それはもう、当たり前のことなのに。


 それに私にとっては、吸血は、怜様に触れてもらう唯一の機会なのだ。

 「食料」としてだけど。怜様が私に求めているのは、血と命だけなのだけど。それでも触れてほしいのだ。

 私のこんな切ない気持ち、伊織には分からないだろう。


「首を見せて。根こそぎ全部、きれいにしてやる」


 呻くような声を上げ、首に布を当てようとする伊織の手を、私は少し痺れの残る手で払った。


「やめてよぅ……」


 もう一度触れようとしてきたので、今度は少し乱暴に払う。怜様の残した傷痕を庇うように、首を手で覆う。


「怜様の、触れたところを、そのままにしたいの……。だから、さわらないで……」


 ああ、しまった。

 働かない頭で喋ったものだから、口が滑ってしまった。伊織を見ると、目を見開いて私の事を見ている。何を言っているんだと思っただろう。


 私の怜様への気持ち、隠し通した方がいいのだろうか。

 でも、これから伊織とは、私が命を失うまで一緒に過ごすのだ。であれば、下手に隠し事をしない方がいいかも知れない。


 そうだ、伊織にだけは伝えておこう。立場上は『花嫁』と付き人だけど、私の事を好きだと言ってくれる、大事な友達だもの。理解はしてくれないだろうけど、きっと受け止めてくれる。


「凛子。それは、どういう意味だ」


 伊織の震える声が、遠くに聞こえる。

 どうしよう、さっき怜様が言っていたけれど、今日はいつもより多く吸われたみたいだ。くらくらする。私はなんとか伊織の方を向き、微笑んだ。


 言うのはやっぱり恥ずかしい。驚かれるだろう。呆れられるかもしれない。「なんで」と聞かれたら「分からない」と言うしかない。

 美しい顔立ちや優雅なふるまい、怜様の素敵な所は色々あるけれど、人を好きになるって、もっと別の所にも理由がある気がする。

 それを、伊織に理解してもらえるだろうか。


「あのね、内緒だよ……。ぜったい内緒だからね……」


 視界が暗くなってきた。まずい。私は気力を振り絞って目を開き、伊織を見て、言った。


「私……怜様のことが、好きなの……」




 何かが落ちる大きな音がする。伊織が薬を落としたのだろうか。私は視界が暗くなるにまかせ、両手で顔を覆った。


 視界から伊織が消える。

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