3.花園と紅椿(1)
「今行くね」
別に周囲に誰かいるわけでもないのに、なんとなく小声で答えてみる。部屋から出ると、薄暗い廊下に外套姿の伊織が立っていた。
「今の時間、表の扉は内側の錠前が掛かっているから、使用人用の裏口から出よう」
「えー、じゃあ結構遠回りになるね」
「仕方ないだろ、あ、それならガレージにある自転車で行くか」
「私、自転車乗れないんだ」
「……」
「……ごめん本当にごめん面倒臭い奴で」
もし、自分が伊織の立場だったら、「夜中に俺を叩き起こして花園行きたいって言って、早起きさせた挙句に何を言う」とかなんとか言って怒り出しそうだ。
ああ、だめだだめだ。彼に頼り切って我儘し放題の自分から、抜け出さなきゃ。
星は消え、東から白金色の輝きが昇りはじめている。だが藍色に沈んだ空は、未だに夜の名残を留めていた。
私の白い外套は美しさ重視だ。軽くて柔らかい代わりに暖かくない。早朝の露を含んだ冷たい空気に、頬が縮み上がり、手が痺れる。
「寒いな」
伊織は肩を丸め、ポケットに手を突っ込んで震えた。
伊織と目が合った。私を見て震えながら微笑む。目尻の下がった優しい表情を見て、心がふわりとあたたかくなる。
もうちょっと、近くにいたいな。
伊織のポケットに手を入れてみる。ポケットの中で、彼の手がびくりと動いた。
「あ、ごめん、冷たい? 私の手」
私の言葉に、彼は少し顔を上に向けた後、視線をポケットの方に移した。
「うん、冷たい」
ポケットの中で、彼の手が動く。あたたかくて大きな手が、冷たく凍えた私の手を、ゆったりと包み込む。
「こうすると、あったかい?」
はにかみながら囁く彼の声が、低く甘く、耳を撫でる。
頷き、俯く。
胸の中が、苦しいほどにあたたかくなる。
静かな朝だ。
冬の空に、靴音が微かに響く。
藍色の空が、淡い光を帯びてゆく。
私は贅沢だ。
ポケットの中で繋がれた伊織の手のぬくもりを、もっと、もっと、欲しいと思う。
庭の完璧さからは想像もつかないくらい、花園の中は荒れ果てていた。
忘れ去られた、というか、打ち捨てられたような内部は、一人で入ったら少し怖いかもしれない。あちらこちらで伸び放題の枝が絡み合い、花壇は寒々しく枯草に侵食されている。
わざわざここに来なければよかったかな、と思った時、視界の端が緑の茂る一角を捉えた。
そこには椿の木が植えられていた。入口付近の荒廃ぶりをよそに、それは枝を広げ、艶やかな葉を茂らせている。冬の冷たい空の下でふっくらと咲く紅い花は、慎ましやかな姿なのに、どこか凛とした芯の強さがある。
そうか。もうすぐ冬も終わるんだ。
椿の傍にベンチがあったので、並んで座ることにした。私が腰掛けようとすると、伊織は手で制し、ベンチにハンカチを置いた。
「凛子の外套、汚れると目立つだろ」
ああ、そうだ。私、気が利かないなあ。
なんとなく情けない気持ちになりながら、二人で並んで座る。
「で、話って?」
膝のあたりでゆったりと手を組み、伊織は穏やかに訊いた。
私はひとつ、大きく息を吸った。
このひとことで、全てが変わってしまう。ここに来て、言うべきかどうか
いや、だめだ、私。
この躊躇いは、きっと、甘えが残っているからだ。今こそ覚悟をしなければ。
あのね、という言葉が、考えるより先に口から零れた。もう、止められない。私は彼の目を真っ直ぐに見つめた。
「私を、向こうの東京へ連れて行ってほしいの」
伊織は少し目を見開いた後、静かに頷いた。
「決心してくれたんだね」
彼に向かって大きく頷く。
実は、あれだけ話を聞いているのに、未だに「向こうの東京」の存在を信じ切れていない。こればかりは実際に目にする瞬間まで、変わらないと思う。
だが、伊織と逃げたい。それは変わらない。
伊織は私の目をじっと見つめた。濡れたように潤んだ大きな目で見つめられ、たじろぎそうになる。だが、私も精一杯見つめ返した。
どのくらいの時が経っただろう。やがて伊織は、顔を伏せて長い溜息をついた。
「凛子が今日、このことで話がしたいのかなあとは思っていたんだ。だけど、もし『行かない』って断言されたらどうしよう、って、ずっと……」
そのままゆっくり頭を抱える。
「凛子の命は一番大切だ。心を尽くして説得して、それでもどうしても行かないって言われたら、凛子の意思に逆らって連れて行こうかと。でも」
語尾が震えている。また、ひとつ長い溜息をついた。
「その事で俺が嫌われたり、恨まれたりするのはいいんだよ。だけどその事で、凛子が」
言葉が途切れる。そして絞り出すような擦れた声で呟いた。
「よかった……」
私は、今までなんてことを。
謝って済む問題じゃない。私は、ここまで私を想ってくれている人の心を、何度も土足で踏みにじった。どうして、どうしてそれに気付かなかったのだろう。
「ごめんなさい……」
できることなら、これからゆっくり時間をかけて、丁寧に
「早速だけど、逃げるのは明日の深夜にしようと思う」
伊織は顔を上げ、いきなり言った。井村さんと仕事をしている時のような口調だ。
「明日?」
「うん。準備は出来ているから今夜でもいいんだけど、俺の仕事の後始末とかもあるし」
「仕事のやりのこしを終わらせる、ってこと?」
「そう。中途半端になっている書類仕事とか、嶋田さんの算盤の弱い所をどうしよう、とか。『翡翠を花嫁にして命を奪う』っていう発想は許せないけれど、この家そのものとそれは切り離して考えようと思って」
この、律儀というか冷徹というか、なところが、なんとなく伊織らしい。
「あの、なんか、ごめん。凛子を軽んじている訳じゃないんだ」
彼は上目遣いになってそう言ったが、そんな事勿論分かっている。
「ありがとう、何から何まで。私、何か準備すること、ある?」
「別にないよ。逃げるの自体は難しいことじゃないし。だからいつも通りにしていて」
その後、倉庫まで行く方法の説明を受けた。確かにそれだけを聞くと、凄く簡単なことのように思える。
だが、お屋敷から抜け出せればいいというものではない。その事は、五年前に嫌と言う程思い知っている。
今更ながら、「逃げる」ということに、緊張で体が強張る。
「怖い?」
私の様子を察したのだろう。伊織は微笑み、ゆったりと言った。
小さな子に言い聞かせるように。
「大丈夫。俺が凛子を必ず逃がすし、向こうではずっと守るから。もう、五年前みたいな目には遭わせない。だから心配しないで、俺に任せて」
だが、彼の言葉に私は首を横に振った。
「ありがとう。でもね、実は、その事が心配だったの」
「その事?」
「うん。だってさ、向こうの世界、生活していくのは大変でしょ。逃げるのは私のためなのに、私のせいで伊織が苦労するのが嫌だなあって。私が何もできないからって全部頼りきりで、伊織の人生を歪めちゃだめだよねって」
うまく説明できずにだらだら喋る私の話を聞いて、伊織はふっと笑った。
「何言っているんだよ、そんなもの、なんでもない」
「なんでもなくないよ。私のせいで、伊織がこれ以上つらい思いをするのは嫌なの。私だって、伊織には、小さな幸せに満ちた人生を送ってほしいんだもん。だから」
そう、これは当たり前のことなのに、その「当たり前」が出来るかどうか不安で、ずっと考えていた。
だが、出来るかどうかを考えていてもしょうがないんだ。やらなければならないんだ。
伊織の鳶色の瞳を見据え、お腹に力を入れて、声を出す。
「私、今はなんにも出来ないけれど、頭も悪いけれど、ちゃんと自分で立って歩けるように、努力する。おうちのことだってするし、字も覚えるし、ゆくゆくはお仕事もする。それまでは守ってもらったり、頼らせてもらったりしちゃうと思うけれど、でも、頑張る。だから伊織、それまでは、どうぞよろしくお願いします」
きちんと話せただろうか。これだけのことを言うのに、こんなに苦労してしまう程度の人間が、きちんと働いて生活できるまで、どれくらいの時間がかかるだろう。だんだん不安になってきたが、自分の心を奮い立たせるように拳を強く握った。
伊織は私の話を聞いて、暫く何かを考えるように俯いた。
顔を上げる。
口元に笑みらしきものは湛えていたが、その表情は浮かなかった。
「うん。分かった。ありがとう。じゃあ、一緒に頑張ろう。俺も凛子が一人で生活できるようになるまでは、支えるから」
彼の言葉に頷きはしたものの、妙な引っ掛かりを覚えた。
なんだろう、なんか、違う。
「俺、凛子の気持ちを無視して縛る気はないんだよ。でも、確かに『ずっと守る』って言うと、自立を妨げるみたいに聞こえるかもな。そうじゃなくて、凛子が俺を必要としなくなるまでは、って」
違う!
自分の言葉が、自分の意図と全く異なる解釈をされ、私は思わずベンチから立ち上がった。
「そうじゃない、は私の方だよ! そうじゃなくって、私が自分で何でもできるようになったら、今度は私が伊織の幸せのために何かできるようになりたいし、二人で同じ方向を向いて、一緒にずっと向こうで過ごせたら」
話しながら気がついた。私の意図が、どうして伝わらないのか。私の話が、どうしてだらだらしているのか。
伝える順番を、間違えているからだ。
「私ね、伊織とずっと一緒にいたいの。だけどそのことで伊織に苦労をさせたくないの。一緒に幸せになりたいの。だって私」
言葉が溢れ、感情が溢れ、躊躇う心を押し流す。
「伊織のことが、好きなの」
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