2.取引の条件

 怜様は、倒れた伊織を起こしてなおも拳を振り上げている。私は何かを考える間もなく叫んだ。


「やめて下さい! 秦家の秘密を教えますから!」


 怜様の手が止まり、視線が私の方へ向いた。井村さんが背後で「ほう」と呟く。伊織は怜様に掴まれながら、私に向かって何かを言いたげに口を開いた。


「おや、凛子も知っているのかい? では教えて貰おうか」

「いえ、ここでは駄目です。今、農場の子が先生を呼びに行きました。もうすぐ先生がここに来ます。見つかったらまずいんです。だから取り敢えず私達と車で逃げましょう!」


 車に乗ったら怜様達から逃げようがないのでは、と思ったが、躊躇っている暇はない。兎に角ここから立ち去らなければと、私は声を張り上げた。


「いや、今ここで」

「そんな悠長なことを言っている場合じゃないんですっ!」


 もう、失礼がどうこうなんて言っていられない。私は井村さんに目くばせをして、両腕を掴まれたまま車に向かった。


「叶様。確かに我々の姿を孤児院の人間に見られますと世間体がよろしくありません。ここはひとまず凛子さんの言う通りにした方がよろしいかと存じます」


 井村さんの言葉を受け、怜様は渋々といった感じで頷いた。足元のふらつく伊織を助手席に押し込む。井村さんは後部座席のドアを開ける時に私から手を離したが、私はおとなしく怜様のあとに車に乗った。


 農場の扉が開き、先生が顔を出した。丁度車に乗り込んだ私と目が合う。もしかしたら、私が赤ちゃんを抱えているのに気がついたかもしれない。

 先生が車に近づく。だが、車は先生を振り払うように急発進をして、農場を後にした。




 住宅街の狭い道路を走る。

 初めて乗ったこの車は中が広々としており、革の匂いと、美那様の香水の匂いがする。私は助手席に座った伊織に声を掛けた。


「ほっぺ、痛い?」

「大丈夫だよ」

「嶋田さん、ひどいよね。さっきいっぱい吸われた?」

「うん……いや、平気。暫く吸われていなかったから、ちょっときついけど」


 私は助手席の方に手を伸ばし、伊織の滑らかな肌に穿たれた牙の痕に触れた。

 彼が振り向き、私を見て微笑む。

 儚げな影を纏った、「この世界」の微笑。


「さて、では秦家の話を聞かせて貰うよ」


 怜様の強張った声で我に返った。


 そうだ。何をどのくらい話していいものなのだろう。


 さっきは怜様の伊織への暴力を止めて、農場から逃げ出すために、あんな風に言った。だが、こんな大事なこと、本当はもっと考え抜いて話さなければいけなかったのではないか。

 ああ、もう。後悔しても遅い。どうしよう。


「叶様。取引をしましょう」


 私が考えを巡らせている時、伊織がぼそりと言った。


「取引、とは。伊織、今、そんな事を言える立場だと思っているのですか」

「思っています。この秘密はただで教えられるようなものではありません。それこそ叶家と秦家の力関係を逆転させることが出来る位の話ですから」


 伊織、私が口を滑らせた話を使って、何か考えでもあるのだろうか。ここは下手に口を出さない方がいいと思い、黙って話を聞いていた。


「ほう。随分と大きく出ましたね」

「今からある場所へ行きます。ですから一旦車を停めて下さい」


 伊織は渋る井村さんに向かって、無理矢理車を停めさせた。車は農場からかなり走った所にある広場の前に停まった。


 広場には、木々と幾つかの街灯が周囲を囲むようにあり、中央にぽつんと時計塔が立っている。人影はない。風が木の葉を揺らしている。

 暖かい車内が心地いいのか、赤ちゃんはうつらうつらと眠り始めた。その様子が可愛らしくて、そっと頭を撫でる。


「この子がその秘密だというのですか、伊織」

「いえ、この子は普通の人間です。秦慈善孤児院の人間に攫われてあそこにいたので、取り返してもとの親の所へ返しに行く所でした」


 伊織は深い呼吸を何度か繰り返し、眉間を押さえた。


「攫われて、とは穏やかじゃありませんね。秘密というのは、孤児院が誘拐か何かを働いている、ということですか」

「そうです。でも、ただの誘拐ではありません」


 伊織は自分の腕に嵌めていた時計を外し、怜様に渡した。

 時計は向こうの世界のものだ。小さな四角い文字盤の周りに線だけが引いてある、黒い時計。おもちゃみたいなそれを、怜様は怪訝そうな顔をして受け取った。


「何ですかこれは。これと秦家がどう……」


 そこで怜様は言葉を切り、目を見開いた。

 井村さんに車内の灯りを点けさせ、時計を食い入るように見ている。横から見たり、耳に時計を押し当てたりしている。


「これは……時計? でも、一体どうやってこんな小さくて軽いものが」


 怜様の声は僅かにうわずっていた。


「動く原理はあれと一緒です」


 伊織は広場の時計を指差した。それを見て井村さんが鼻で笑いながら口を挟む。


「いやいやいや、伊織、それはありえないだろ。ここの広場の時計っていったら有名じゃないか。あれ、どうやって動いているのか知っているだろ?」


 伊織は怜様に視線を戻した。


「はい。普通ならあり得ません。でもではあの大きさになってしまうものを、ではここまで小さく作れる」


 怜様が伊織の目を見つめている。伊織は言葉を続けた。


「この腕時計は水晶クオーツ時計です。この赤ちゃんは、水晶時計がこんな安物として出回っているような、こことは異なる世界から来たのです。そして俺は、その異世界の入口を知っています」




 伊織の言葉に対して見せた怜様の表情は、驚きではなく、今までに見たことのない、なんともいえない表情だった。

 暫く時計を色々な角度から見た後、軽く溜息をつく。


「ええと……私、さっき、強く頬を張り過ぎましたか」

「俺はあの程度の暴力でどうにかなってしまうような、生温なまぬるい人生は歩んでいません」

「だとしたら、この期に及んで私をばかにしているのですか」

「違います。嘘でもないです。この場を切り抜ける嘘を言うなら、もっとありがちなことを言います」


 怜様は伊織に時計を返した後、眉を寄せてこめかみに指を当てた。


「私は、少々伊織を買い被っていたのでしょうか」


 軽く溜息をつき、井村さんに明かりを消させる。


「で。一応聞きましょうか。何を条件にするつもりなのです」

「俺と凛子を解放してください。そうしたら異世界に繋がる場所へ連れて行きます」


 淡々と答える伊織の言葉に、私の方が狼狽うろたえてしまった。

 もとはと言えば私が悪いのだけれども、あまりにあっさりと単純なことを言う。

 

 それに、そんな条件を突きつけたって。


「ううん……。伊織、それはあまりにも、虫がよすぎますね」


 怜様はもう一度溜息をつくと、私を見て言葉を続けた。


「仮に伊織の言っていることが本当だとしましょう。まあ、異世界云々は兎も角、秦家の運営する施設が誘拐を働いているという事実や、その時計に関わる秘密が手に入るのなら、私としては益があります。ですからその際は伊織を解放します。『逃亡』ではなく『解放』にしますから、あとは好きなように生きなさい。ですが」


 私の腕を掴み、強く引き寄せる。助手席から伊織が身を乗り出した。

 首筋に怜様の指が這う。その冷たい感触に、ぞわりとした不快感が背骨を伝う。

 怜様の紅い瞳が徐々に光を宿す。


「凛子の解放は出来ません。彼女のために、どれだけの領地を失ったと思っているんですか。それにもう私は若くない。今を逃すわけにはいかないのです」


 腕を掴む手に力が入り、瞳の輝きが増す。


 待って。嫌だ。


 体中から血の気が引き、黒い恐怖が噴き上がる。


 逃げなきゃ。逃げなきゃ。

 頭の中が逃げろと叫んでいるのに、体が震えて動かない。

 嫌だ。どうして。どうして動かないの。


 私の命を吸い尽くすのは、二十歳の誕生日だと言われてきた。だがそれは慣習にのっとって決めていただけで。

 私の血が成熟している今。


「仕方がない。また逃げられたら堪らない。さあ、凛子、全て貰うよ」


 血を吸い尽くせば、怜様は不老不病の力を得る。

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