10.怜の異変

 翌朝は、かなり遅い時間に起きた。

 ベッドから降り、砂の詰まったような重い頭を振る。昨夜なかなか寝付けなかったので、遅く起きた割にはすっきりしない。

 いや、すっきりなんか、するわけない。


 扉一枚で隔てられた場所に、こことは違う世界がある。院長先生はそこで子供を攫っている。このお屋敷から逃げられるかもしれない。

 だがその方法は、向こうの世界へ行き、伊織に支えられて暮らすというもの。

 そして伊織は、私の事を……。


 私は嫌な奴だ。

 鈍感で、愚かだ。 

 それなのに、何故、伊織は。



「あのぅ……凛子様、お目覚めでいらっしゃいますか……」


 私が寝起きの混乱した頭を抱えていた時、扉の向こうから遠慮がちな声が聞こえてきた。


 うわ、そうだ、どんな顔をして伊織と接すればいいんだ。

 最初の一言、なんて言えばいいんだ。わーどうしよう、え、どうしよう。ああ、どうしようってここで考えていてもしょうがない。


 私は扉を僅かに開き、外を伺おうと顔を出した。

 その時扉が大きく開かれ、伊織が朝食を載せたワゴンを押しながら飛び込んで来た。


「本っっっ当にごめん!」


 私に何かを考える隙を与えない速度で叫び、腰を直角に曲げて頭を下げた。


「昨夜、本当にごめん! 言い逃げとか、何事だっていうやつだよね。あんな事言われたら、これからどうするんだっていうやつだよね。いや俺、あそこまで言うつもりはなかったんだよ。す、好きだっていうのは実は前にも何回か言っているんだけど、全然分かってもらえなかったから、まあ、いずれうっすら分かってもらえばいいや位に思っていたのに、なんであんな事言うかな俺!」


 伊織は腰を曲げながら、柘榴のように真っ赤な顔をして、上目遣いに私を見た。


「だから……無理は承知でお願いなんだけど、あの、昨日の話は、鍵と向こうの世界と誘拐の事だけ覚えていてくれれば、あとはぼやーんと記憶の彼方に……」


 おずおずと無理難題を突きつける。彼の態度に、心の力が抜け、ふっと柔らかくなる。私はゆっくりと頭を下げた。


「謝るのは私の方だよ。本当に、本当に、ごめんなさい。そして本当に、本当に、ありがとう」


 頭を上げる。伊織と目が合う。

 どちらからともなく微笑み合い、俯き、また目が合う。

 あたたかく柔らかいものが、心を包み込む。


「ええ……と、お詫び、じゃないけど、朝食にイナゴ豆キャロブをたくさん入れたスコーンを焼いた」

「やったあ! あ、このお茶なに? タンポポダンデライオンじゃないんだ」

「スコーンと合わないけど、ローズマリーとレモングラス。ほらあの、多分、寝不足だったり、頭が重いかなって、えーと」


 なんとなくこれ以上昨夜の話をしたくなさそうな気配を感じたので、私は取り敢えず食事を摂ることにした。向こうの世界の話とかは、少しずつ聞いていこう。

 スコーンをかじる。伊織は微笑み、いつものように椅子に座る。

 いつもと同じ、穏やかな時間が流れ始める。


 どうしてだろう。今日なんて特に。昨夜あんな話をされたのに。

 伊織と一緒にいる時間は、いつもとても穏やかで、優しくて、安心する。




 その時間は、扉の外から聞こえてきた美那様の大声によって壊された。


「どうされたの? 仰ってくださったっていいじゃないの。こんな状態でご隠居様のお葬式をするなんて嫌だわ!」

「なんでもないと言っているでしょう! これ以上騒がないで黙っていておくれ!」


 普段怒鳴ったりなどしない怜様の大声が、だんだん近づいて来る。


「もう知らない!」


 美那様の声とほぼ同時に、扉が大きく開かれた。


「おかえりなさ……怜様、お葬式は」

「まだだよ。支度のために戻って来た。その前に、凛子、血を吸わせておくれ」


 大股で歩き、私の傍に立つ。私は朝食を摂る手を止めた。

 怜様は私の腕を掴み、無理矢理立たせた。そのまま引きずるようにベッドに向かう。


 おかしい。

 掴まれた腕が痛い。どうしたんだろう。今までこんな乱暴な態度を取ったことがない。私がこのお屋敷に来たばかりの時だって、混乱する私を根気強くなだめていたのに。


「ちょ、叶様」

「どきなさい!」


 怜様に声を掛けようとした伊織の方を向き、怒鳴りつける。怜様に近寄り腕を伸ばしかけた伊織をどけようと、左肩を強く押した。

 伊織は低い呻き声を上げて、その場にうずくまった。


「伊織?」


 押された肩を庇うように蹲っている。彼の様子を見て怜様は私から手を離し、立ち止まった。

 どうしたんだろう。確かに強く押した感じだったけれど、そんなに痛がるほどじゃなかっただろうに。

 怜様は伊織の前にかがみ込み、左肩にそっと触れた。


「……独房でしたから、囚人じゃないでしょう。やったのは、看守ですか」


 怜様の言葉に、伊織は目を逸らした。


「もう何日も経つのに、まだこんなだとは。たちが悪い。首筋だとばれるからでしょうが、肩では相当深く刺さなければ吸えないのに」


 怜様は、伊織の肩に触れた手を離し、詰襟のボタンを一つずつ外していった。


 「やだ……」


 呟く伊織を無視し、抵抗する手を振りほどく。中に着たシャツの釦も外し、左肩を露わにした。


 思わず声にならない叫び声を上げる。

 顔を逸らす伊織を、怜様が覗き込む。


「これではいつまで経っても具合が悪いわけです。ここまでひどいと、悪意を超えたなんらかの意図すら感じます」


 伊織の左肩は、かつて見た売血をする人の首筋のように、原型をとどめないほど皮膚が崩れ落ちていた。


 怜様は、顔を逸らしたままの伊織の服を丁寧に直し、詰襟の上から左肩に軽く触れた。


「伊織が恥じ入る必要はありません。奴らは吸血族の屑です。さあ、早く立ちなさい」


 二人は立ち上がり、怜様は私の方に向き直った。

 瞳が光る。

 だが、いつものように私を見て微笑みを見せなかった。


「あんな奴らが吸血族を名乗るなど、許しがたい。私は違う。凛子」


 私を放り投げるようにベッドに座らせる。私が差し出した首筋を、じっと睨み付けている。


「もうすぐ、凛子の血が証明してくれる。さあ、では、貰おうか」


 私を強く引き寄せ、牙を立てる。

 貪るように私の血を吸う。


 伊織はいつものように立っていた。

 なんの感情も見せない顔で。

 両手を強く握って。


 食べかけの朝食から、湯気が立ち昇っている。

 耳元で、私の血が怜様の喉に流れ込む音がする。

 私はこの世界から逃げ出すように両手で顔を覆った。


 視界から全てが消える。

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