8.逃亡(3)
玄関にあたる部分から奥に入ると、広さのある部屋になっている。そこには古い家具や木箱が乱雑に置かれている。埃っぽく、外と同じくらい寒い。
暗い。窓から僅かな光が射し込むだけだ。光の帯が部屋に漂う埃を照らす。
部屋の床の一角に、四角い線が見えた。近寄ると、そこが扉になっているのが分かる。鍵穴がある。私は部屋の中と窓の外を見た。
人影も物音もしない。伊織と顔を見合わせ、頷く。伊織はかがみ込み、鍵穴に針金を差し込む。今度はすぐに開いた。床に開いた暗闇の中に、足を踏み入れる。
地下室は天井が低い。灯りがどこにあるか分からない。地上から差し込む灯りだけで中を見回す。瞳孔が急激に開くのが分かる。
「足元に気をつけて」
伊織が天井を閉める。暗闇が押し寄せる。背後でかちりと小さな音がした。それと同時に薄黄色の光に照らされた伊織の顔が浮かび上がる。小さな懐中電灯を用意していたのだ。
「どこだっけな、確かここ、いてっ」
私のすぐ前を歩いていた伊織が何かにぶつかったらしい。懐中電灯の灯りだけでは、目の前のごく狭い範囲しか見えない。何か踏んづけた。だけど何か確認できない。
暗い。
怖い。
手をつなぐだけでは不安だ。両手を彼の肩に掛けてみる。だが肩の位置が高くて掴みにくい。それに何かの拍子で左肩を強く掴んだら危ない。背中から腕を回してみる。これじゃ動けないか。両手で腰を掴んでみる。これはいいかもしれない。
「何? さっきから」
「手をつなぐだけじゃ怖いんだもん。こうしていていい?」
彼からの答えはなかった。そのかわり、通路に繋がる扉が見つかった。
耳をすませる。物音はしない。
「これ、持っていて」
懐中電灯を受け取り、鍵穴を照らす。
扉が開く。
そこは、通路になっているようだった。伊織に掴まり、少しずつ歩く。
暫くすると、今まで安定した輝きを放っていたはずの懐中電灯が、何の前触れもなく光を失った。
完全な暗闇。床も、壁も、伊織も、全てが消える。
どこかから、音楽のようなものが聞こえる。音楽、というか、地響きのような音だ。
ああ、これか。
前に伊織が話していたことを思い出す。
ここに来て、「向こうの世界」の存在が頭の中にくっきりと立ち上がる。
頭のどこかで、「今更何を言っているんだ」という声が聞こえる。
その通りだ。私は、お屋敷だけではなく「この世界」から逃げるために、ここまで来たのだ。
それなのに、地響きのような音を聞いた途端、脚が
この通路を歩いて、扉を開けたら、ここではない世界があるんだ。
何を怖がっているんだ。この世界には安全がどこにもない。
怜様や警察に捕まったら、お屋敷に連れ戻される。そして血を吸い尽くされておしまいだ。その時、伊織がどうなるか。考えるのも恐ろしい。
もし捕まらなくても、息を潜めて逃げ回る日々を送るんだ。そして何かの拍子に私が『翡翠』だと知れたら、得体の知れない吸血族の餌食になる。その時は、怜様に食べられるよりも悲惨な目に遭うだろう。
そうだ。私は農場とお屋敷しか知らない。だから「この世界」だって殆ど知らないのだ。
向こうだろうがここだろうが、「知らない世界」であることに変わりはないじゃないか。
こんな事は、何度も考えた。何度も何度も考えて、逃げると決めた。
なのにどうして私の足は、前に進まないのだろう。
「どうしたの」
伊織の穏やかな声が、通路に響く。
こわいの、と答えようとしたが、言葉がうまく出てこなかった。脚が震える。
その足の下にあるはずの床の感触は曖昧だ。
ここはすでに、「この世界」ではないのか、と思う。
伊織は黙って私を抱き締めた。幼い子を
薄い布一枚を隔てた向こうから伝わる胸のぬくもりに、心ごと委ねる。
心の中にぬくもりが満ちる。
少しずつ、心が立ち上がる。
そうだ。どこの世界に行こうとも、私の居場所は、この腕の中なんだ。
顔を上げる。姿は見えないが、伊織のぬくもりに向かって言う。
「なんでもない。もう、大丈夫」
伊織の指が私の顔に触れた。指先が頬を這い、離れ、頬に柔らかい唇が触れる。
歩き出す。
床も壁も曖昧な暗闇の中、地響きのような音が、少しずつ大きくなる。
おっ、という声と共に、伊織の動きが止まった。
ざらざらと何かを触る音がする。扉に辿り着いたのだろうか。そういえばと思い、足踏みをしてみる。
硬い床の感触がある。
「開けるよ」
じゃり、という金属の擦れ合う鈍い音がする。鍵が鍵穴に入ったのだろう。
地響きのような音が、目の前にあるらしい扉の向こうから聞こえてくるのが、はっきりと分かる。
地響きに合わせて、私の鼓動も激しくなる。
伊織の背中にしがみつく。
がちり、と鍵の開く音がする。
目の前に、細長い光の筋が浮かび上がる。
途端に、激しい音楽と眩い光が耳と目を貫く。
扉の先には、何も置かれていない部屋があった。
埃っぽく、私の部屋より少し狭い位の空間。その正面にある窓から、音と光は流れ込んでいた。
ちかちかと光を飛ばしながら、巨大な人間の顔が映し出されている。激しい音楽が混ざり合って、ひとつの大きな音楽になっている。
「とりあえず紗良さんの勤めている店に行こう。ここからすぐだよ」
窓に向かって立ち尽くす私に、伊織は淡々とした口調で言った。私の手を軽く握り、歩くよう促す。私は彼に促されるままに歩き出した。
私達は、古いビルの中にいた。部屋を出ると、薄暗い廊下と階段がある。ビルの中にあまり人はいないようだった。
地下室の通路を通って来たのに、一階に向かって階段を降りる。以前、伊織から聞いた話の通りだ。
外に出る。
辺り一面、光と音の洪水だった。東京国の市街地とは、人の数も、照明の数も、比較にならない。
空を見る。多分夜の始まりくらいだと思う。だが街中に溢れかえる光のせいで、空の暗さが作り物のようだ。
あらゆる色を点滅させている看板、あちこちから聞こえる激しい音楽、派手で奇妙な服を着た、沢山の人間。
なんだ、この世界は。
光と音で頭が痛くなってくる。伊織が心配そうに私の顔を覗き込んでいる。大丈夫、と、笑い顔を作ってみる。
大きな通りに出る。人は更に多くなる。
人々の顔は、東京国の人達と似ている。異国人らしき人も結構いる。使われている言葉は東京国のものとそっくりだ。だが、聞き取れそうで聞き取れない。
甘い香りが漂って来た。道路の左手にある店からだ。果物を売る店らしいが、並べられている果物らしきものは、見たことのないようなものばかりだ。
視線を正面に向ける。
後頭部を殴られたような衝撃を受ける。
果てしなく続くビルの群れ。
光り輝く巨大な看板。
音もなく走る流線型の車。
音楽。
ざわめき。
轟音。
明らかに、今までいた世界とは違う世界。
「ここは」
伊織は繋いだ手に力を入れた。私を見て、静かな声で言葉を続ける。
「日本という国の、東京の、新宿だよ」
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