8.霧雨の朝
床も、壁も曖昧な空間を歩く。伊織は何度か立ち止まり、怜様を背負い直しているようだった。
本当に大丈夫なのか。彼だって体調が良くないのだ。
「伊織や凛子は、向こうの世界で暮らすつもりなのかい?」
怜様の問いに、伊織は答えた。
「はい」
「あんな下品で禍々しい世界で生活するとは。私はもう、凛子を食べることはない。ならば今までの世界にいればよいものを」
「叶様が凛子を『花嫁』としなくても、凛子の『翡翠』の血を狙う吸血族は幾らでもいます。それに凛子は農場とお屋敷しか知りませんし、俺は農場とお屋敷以外、まともな生活をしていません。だから俺達にとっては、東京国の方がよっぽど禍々しい世界なんです」
暗闇の中で気配が揺れる。伊織は「あ」と呟いた。
「俺の初犯の『農場の子の誘拐』は、秦家と警察のでっちあげです。俺は小さい頃からずっと、凛子と農場で育ちました。捕まったのは、叶様に貰われる凛子を助けようと、農場を逃げ出したからです」
伊織の言葉に、怜様は長い時間言葉を返さなかった。
やがて気配が揺れ、溜息が聞こえた。
「私は『掬い上げ』によって、自ら『花嫁』が逃げ出す条件を揃えてしまったわけなのだね」
今となってはもう、どうでもいいのだがね、と呟き、怜様はふっと笑い声を漏らした。
扉を開け、地下室に入った。伊織が怜様を降ろす。私は懐中電灯で辺りを照らし、天井にある戸を少し開けてみた。倉庫には誰もいないようだった。三人で倉庫の部屋に入る。
この世界は、既に朝を迎えていた。
水の匂いがする。雨が降っていた。
灰色の雲から柔らかな霧雨がふわりと降り注いでいる。窓ガラスは泣き疲れた頬のように濡れていた。
少し前に起きた騒ぎなど何も知らないかのように、倉庫の中は静かな冷気に包まれている。
「叶様、お加減は、いかがですか」
苦しげに息を切らせながら伊織は言った。そのまま床の上にへたり込む。
「そうだね。私には、ここの空気の方が合っているようだ」
いつの間にか肌や唇に艶を取り戻していた怜様は、それでも気怠げに床に座り、壁に背をもたれかけた。
ここは農場の一部だ。院長先生は向こうの世界に行ったきりだし、赤ちゃんもいなくなった。いつ農場の人がここに来るか分からない。
だからあまりのんびりはしていられないのだ。なのに二人は床に座り込んだまま動かない。
雨が、静かに降っている。
「もう、東京国には戻ってこないつもりなのかい?」
私達のどちらに声を掛けたのか分からなかったので、二人で揃って頷いた。
「そうか」
怜様は片膝を立てて座りながら、天井を見上げ、微笑んだ。
手入れの行き届いた滑らかな左手で、軽く顔を覆う。
手を離す。澄んだ光を取り戻した柘榴石色の瞳が、僅かに潤んでいるように見えた。
形の良い唇が、少し躊躇った後に言葉を紡ぐ。
「では、この世界を棄てる人間二人に、土産がわりにひとつ、話を聞かせようか」
怜様は伊織を見て微笑んだ。
「昔々、この国のどこか知らない所での話だよ」
怜様、どういうつもりなのだろう。今は呑気に昔話などをしている場合ではないのに。
私と伊織は顔を見合わせた後、怜様の方を向き、座り直した。
怜様は私の方を少し見てから伊織に視線を移し、口の端に僅かな笑みを浮かべた。
埃と、雨の匂いがする。
「昔々、この国のどこかに、ひとつの家があった――」
昔々、この国のどこかに、ひとつの家があった。
その家は所謂『名家』と呼ばれる家だった。だが時代の波を読み誤り、古い考えに取り憑かれ、いつ潰れてもおかしくない状態だった。
そこに、一人の男子が産まれた。
彼はその家の跡継ぎとなるべく、父親に厳しく育てられた。父親の教育は古風で、幼い彼から見ても無駄で無意味な部分が多かったが、彼はその教育に精一杯ついていこうとした。
父親の教育の裏に隠された、溢れんばかりの愛情を感じ取っていたからだ。
一方で、彼は母親には愛されていなかった。少なくとも彼はそう感じていた。
嫌われてはいなかった。だが母親にとって大事だったのは、子供よりも、夫よりも、色恋だった。
だから夫が外出すると、母親は男に電話をし、着飾って出かけていった。電話の向こうの見知らぬ男に、粘液のような声で甘い言葉を囁いている母親のことが、彼は大嫌いだった。
大嫌い、というより、気持ちが悪かった。
だがそんなことがいつまでも続くわけがない。父親に見つかり、身一つで屋敷を追い出され、実家からも縁を切られた母親を見て、彼は胸をなで下ろした。
母親の記憶は、その後彼の心の中から抹消された。
そう思っていた。
やがて彼は成長し、その家の当主となる一環として、妻を
妻となる人は大分前から決まっていた。この国いちの家の娘だが、性格に難があるからとなかなか貰い手がつかなかった人だ。年齢は、彼の父親よりも上だ。
半ば押しつけられるように娶らされた妻だったが、彼は彼女のことを好ましいと感じていた。
――あ、なんだい二人ともその顔は。これは昔話だよ。それとも彼女のことで思う所でも?
彼女は年齢こそ高かったが、外見は若く、華やかで美しかった。彼の家は外壁が白く、家具は漆塗りや
嫉妬深く、気性が激しく、口は悪かったが、言葉に裏表がなかったので、言葉の切っ先を上手に
そして何より、彼女は彼を愛していた。
清楚なふりをして不義を重ねていた母親とは違い、彼女の愛情は純粋で一途だった。
彼は父親以外からの愛情を受けたことがない。人というのは家柄や容姿目当てですり寄って来るもの、または家を潰そうと牙を剥いているものと思っていた。だから彼女から純粋な愛情を受けたのが嬉しかった。
だが、同時にそれは彼に深い罪悪感を刻み込んだ。
愛されているのは分かっている。自分も彼女を好ましいと思う。
だが、どうしても、彼女に愛情を抱けない。
彼は彼女を愛そうと努力をした。
彼女も彼に愛されようと努力をしていた。彼の好みのように着飾り、苦手な慈善事業にも同行していた。その努力は、彼も知っていた。
好ましい。けれど愛せない。
その罪悪感は、彼女を好ましいと思う心を呑み込み、やがて彼女が傍にいることを苦痛と思うまでに心を変えていた。
ある日、彼は毎年恒例の慈善事業のために刑務所を訪れた。
名家には代々割りふられた慈善事業がある。彼の家は罪人の更生を目的に、罪人を雇い入れることが課されていた。
彼は正直、この制度を無駄だと思っていた。今まで更生した罪人は少ない。領地の整備などを頼むと、作業の道具をごっそり盗んで集団で逃亡されたりするのだ。
だが、昔からの決まりだから、それをしないと「名家」としての体面が保てない。ばかばかしいと思いながらも、彼は刑務所に向かった。
罪人達を見る時は、あまり詳しい罪状は聞かない習慣になっている。彼は一人ずつ顔を合わせ、少しだけ言葉を交わして掬い上げる罪人を決めた。
絶対に掬い上げてはいけない罪人はなんとなく分かる。どんなに言葉で繕ってもだめだ。次々とやって来ては媚びるような笑みを浮かべる罪人達を見ているうちに、彼はうんざりしてきた。
最後の方になって、一人の罪人が看守に引き摺られるようにして部屋に入って来た。
汚れた囚人服を着、足枷を嵌められているということは、地下独房に入っているのだろう。乱れた白髪やおぼつかない足取り、蒼白い顔色から、最初老人かと思ったが、滑らかに締まった顔の輪郭を見て、それが間違いだと分かった。
きっと彼には想像も出来ないような苛酷な日々が、その男を老人のようにしてしまったのだ。
普通、罪人は立たせて話をするのだが、彼は不憫になって椅子をすすめた。だが罪人はやんわりと拒否し、彼の気遣いに感謝して顔を上げた。
彼は、その罪人の瞳を前に、一瞬言葉を失った。
罪人の鳶色の瞳は、澄んだ光を湛えていた。
そのあまりにも清らかな光に打たれ、彼は自分がどこにいて、何をしているのか忘れそうになったくらいだった。
罪人は礼儀正しく丁寧な口調で、自分がいかに役に立つかを訴えた。
様々な仕事を経験した。読み書き算盤が出来る。だからどうか、ここから出して欲しい。
だが、他の罪人達のように、「あなたの下で働き続けたい」とは言わなかった。
ただ、役立つから出してくれと訴える。
切々と。彼の目を真っ直ぐ見つめて。言葉を尽くして。
ああ、この男はいずれ、自分のもとから逃げ出す気だな。
確実な根拠はなかったが、彼はそう感じた。
彼はその罪人を掬い上げた。
その後、その罪人について探ってみると、彼の妻の実家に対する秘密を握っているらしいことが分かった。
それが分かった時、彼は嬉しくなった。
素晴らしい言い訳が出来たと思ったからだ。
あの男は屋敷で使おう。丁度『花嫁』の付き人がいなかったから、それに充てよう。読み書き算盤が出来るらしいから、執事の下働きもさせよう。
屋敷で働かせるのは裏の理由があるからだ。彼の家を潰そうとしている家の秘密を握っているようだから、それを手に入れるために屋敷で泳がせるのだ。
なんと説得力のある理由。
これなら執事も文句を言わないだろう。妻には裏の理由は言えないが、また適当に躱せばいい。父親には、罪人が逃げ出した時にでも裏の理由を言えばいいだろう。
屋敷に帰る車の中で、妻に文句を言われ続けながらも、彼の心は晴れやかだった。
あの罪人は、あんな場所にいるべきではない。下手をすれば命の危険もある。そんなことはあってはならない。
彼を助けたい。
最初から脱走する気なのは分かっている。それでも屋敷の中で使おう。弱った体を守るために、吸血対象外の詰襟の仕着せを着せて。あの体型と顔立ちに、詰襟の仕着せはきっと似合う。
あまりきつい仕事はさせないでおこう。健康のためならば、多少屋敷に香辛料の臭いが漂っても我慢しよう。あの滑らかな頬が健康的な薔薇色に染まれば、さぞかし美しいことだろう。
傍らの妻を見る。
だが、彼の心は浮き上がり、罪悪感を抱く余裕すらなかった。
ほんの少しの時間会っただけなのに、どうしてなのかは分からない。だが、彼は自分の気持ちが分かっていた。
彼はもう若くなかった。『翡翠』を食べるには少し遅いくらいだった。
今まで様々な人に接して来た。彼は社交が得意だったから。だが、こんな気持ちになったことはなかった。
ああ、これが。
目の前が
彼はその日、初めて恋を知った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます