9.最後の願い

 掬い上げの男への想いは、彼の胸に秘めておくつもりだった。

 彼には妻がいたし、掬い上げに恋をするなど、名家の当主としてあってはならない事だったから。

 それでも構わなかった。

 身なりを整えた掬い上げの男は、透き通るように美しかった。その美しく愛しい男が自分の屋敷で働き、穏やかな声で自分に話しかけて来る。

 それだけで充分だと思っていた。


 男は、直接仕えている『花嫁』と、すぐに意気投合したようだった。

 二人が楽しそうに笑っている姿を見ると、彼も嬉しくなった。花嫁や男が、心穏やかに屋敷で過ごせることを願っていたからだ。

 だから男が、彼の目を盗んで花嫁に砕けた口調で話しているのを見かけても、そのままにしていた。


 だが、やがて彼は男が花嫁に懸想けそうしていることに気づいた。

 自分の想いを叶えようとは思わない。ただ男が自分の傍にいればいい。けれども男の心が他の女の所にあるとなれば話は別だ。

 しかもその相手は、自分の花嫁だ。


 吐き出しようのない穢い想いが体を蝕み、楽しかったはずの恋が一気に苦しいものへと変わる。

 彼にとって唯一の救いは、当の花嫁が男の気持ちにまるで気づいていない事だった。




 彼が唯一父親に背いた行為、それが翡翠を花嫁として購入することだった。

 父親は翡翠を食べなかった。だが、彼はその時、自分は不老不病にならねばならぬと思っていた。

 若さがあれば、寿命いっぱいまで他の家に強く立ち向かえるからだ。


 家のために人間の命を奪う。

 彼は、自分が家という化け物に魂を食い尽くされていることに気がつかなかった。


 家のために。当主として。誇り高き吸血族だから。

 彼を支えていたその心を、根本から揺るがす事件が起きた。

 父親が亡くなった日、彼の母親が自らの不義を告白しに来たのだ。


 自分は半吸血族かもしれない。

 父親の血を受け継いでいないかもしれない。

 到底信じられるものではなかった。


 父親は、名家の当主でありながら、妾を持たず、彼の母親を追い出した後、新たに妻を娶らなかった。

 彼の母親以外に目を向けなかったのだ。幼い頃、彼の妻に幼稚な憧れを抱いていた事はあったようだが。そのくせ、彼の母親をさほど愛してはいないようだった。


 父親の心の中は誰にも分からない。もしかしたら、彼と同じように、妻を愛せず、叶わぬ恋を秘めていたのかもしれない。

 いずれにせよ、彼以外に跡を継げる男子のいない彼の家は、既に跡絶えていたかもしれなかった。


 花嫁が二十歳を迎えたら、彼女の血を全て吸い尽くす。

 そうすれば自分は不老不病になるだろう。きっとなるはずだ。その血が、自分を吸血族だと証明してくれる。

 自分は、断じて半吸血族などではない。




 だが、結局彼は「誇り高き吸血族」などではなく、彼が翡翠の命を犠牲にしてでも守ろうとしていた「家」は、既に存在していなかった。




 彼の家には、小さな花園があった。

 彼には必要のないものだったし、妻も花に興味がなかったので、手入れの一切を放棄していた。

 だが潰すわけにはいかなかった。名家の庭には花園がなければならないからだ。


 ある日、男と花嫁がじゃれ合いながら笑っているのを見かけた。彼が妻の実家の当主と会っている間、どこかで遊んでいたようだった。

 男は妻の実家の秘密を握っている。となると、もしかしたら妻の実家の当主は、男の顔を知っているかもしれない。だから男を守るために、花嫁の部屋から出るなと言ったのに。


 叫びたい。喚きたい。この穢くて苦しい想いを、どこかにぶつけて捨ててしまいたい。


 彼は花園に向かった。今の彼の心を捨てるには、荒れ果てた花園がふさわしいと思ったのだ。そこで思う存分喚くつもりだった。


 花園の中に、こんもりと緑の茂る一角があった。

 そこには紅い椿の花が咲いていた。


 寒さに耐え、孤独に耐え、慎ましやかに俯きながらも凛と咲く気高い姿。

 まるであの男のようだ、と彼は思った。


 傍にいればいい、と思っていた。

 それなのに、恋慕の情は日に日に激しさを増し、焼けただれるほどに熱く彼を責め苛んだ。


 だが、この心は決して表に出してはならない。

 そして決して、この激情で大切な紅椿を傷つけてはならない。


 彼は声を上げるのをやめた。

 椿の花に男を重ね、想い焦がれ、彼は立ち尽くしたまま涙を流した。




 男の誕生日にあたる日に、来客があった。領地のいざこざの相談だったが、大した話ではなかった。

 客は人間だ。茶菓を出さなければならない。彼は茶器に、紅椿の描かれたものを使うことにした。

 男ばかりの仕事の場に、花柄の茶器は合わない。だが彼は、紅椿を眺め、男の作った菓子を目の前にすることによって、心の中で彼の誕生日を祝うことにした。

 無骨な人間共が椿に口をつけ、菓子をほおばるのは腹立たしかったが、少しでも男を近くに感じていたかったのだ。彼は男がこの世に生まれた日に感謝した。


 だが、その日の夜、男は花嫁を攫って屋敷を脱走した。




「――男は花嫁を攫って屋敷を脱走した」


 怜様はそこまで話し終えると、深く息を継いだ。


「その後の話は分からない。一説によると、その男と花嫁は昔からの馴染みで、男は最初から花嫁を攫うつもりで屋敷に来ており、二人は好き合う仲だったらしい。でもそれを男の裏切りと言うかというとどうだろう。男は刑務所から出してもらうのは望んでいたが、男を屋敷に住まわせ……愛したのは、『彼』なのだからね」


 そして私達を交互に見た後、はにかむように微笑んで俯いた。


「遠い、遠い、遠い昔の、どこかであった話だよ」


 口を閉じる。

 沈黙が耳を覆う。


 冷たく湿った空気が満ちている。

 いつの間にか、雨は絹糸のように姿を変えて、空を濡らしていた。




「……きっと」


 怜様の話を黙って聞いていた伊織が、そう言って一度言葉を詰まらせた。


「その男は、『彼』に恩知らずの悪人と思われたまま姿を消したかったのではないか、と思います」


 伊織の言葉に、怜様が目を細めた。


「悪人。なぜでしょう」

「男は結局、ただの悪人だった。折角掬い上げたのに、花嫁に一方的に懸想して、攫って屋敷を逃げ出した。なんてひどい奴だ。そう思われたかったのではないか、と」


 伊織はそこで言葉を切った。細められていた怜様の目が開き、伊織をじっと見つめる。


 さすがの私でも、今の怜様の昔話で出てきた、『彼』や『男』、『花嫁』が誰のことを指しているのかくらいは分かる。

 そう考えると、今まで怜様が伊織に取ってきた態度がどういう意味を持っていたのか、納得できる。

 女中達の悪口に口を挟んだのも。体調や肩の傷を気にしていたのも。そして農場の前で私達を見つけた時、伊織を殴ったのも。

 

 もし伊織がたんなる恩知らずとして姿を消したら、怜様は怒り、伊織を憎んだかもしれない。でも多分、それで終わる。

 だが。


「そうかもしれないね。もしかしたら『彼』は、男の花嫁への想いの深さなど、知りたくなかったかもしれない。ましてや二人が、想いの通じ合う仲だったなどということは」


 怜様は微笑むような口元を作り、窓の外を眺めた。




「伊織は、知っていたのかい?」


 いつの間にか、伊織に対しての口調が変化していた怜様は、伊織の顔を見た。


「何をでしょうか」

「いや、もしかして伊織は、この昔話を知っていたのかと思ってね」


 その言葉と同時に、伊織の表情から感情が失せた。

 端整なだけの顔を怜様に向け、抑揚のない声を発する。


「知りませんでした」


 目を伏せ、息を呑む。

 もう一度、怜様の顔を見る。


「俺は、何も、知りませんでしたよ」




「これから、どうされるのですか」


 伊織の問いに、怜様はふんと小さく息を吐いた。


「この世界を棄てる人間に、わざわざ聞かせなければならないのかね」


 口を閉じて目を逸らす伊織を見て、怜様は少し笑った。


「今更半吸血族でしたとは言えないよ。だから美那さんの生きているうちはこのまま家を守り、彼女がこの世を去ったら、屋敷や領地を手放し、『叶家の当主』として家を終わらせる」


 その心中は分からないけれども、怜様は晴れやかな表情を作って、ぽん、と膝を叩いた。


「そうしたらどこかに小さな家を建てて、隠居生活を満喫するよ。使用人だってそんなにはいらない。そうだ、嶋田と半吸血族同士、のんびり暮らすのもいいね。彼は、伊織仕込みの算盤の腕もあるようだしね」


 怜様は私を見、伊織に視線を移した後、立ち上がった。上着の懐からいすの木の小さな櫛を取り出し、乱れた髪に当てる。


「あの……。怜様、外、雨で」

「いいのだよ」


 櫛をしまった怜様は、私に向かって微笑んだ。


「最後に見せる私の姿は、美しいものでありたいからね」


 私達も立ち上がる。

 怜様は伊織を見た。怜様の視線を受けて、伊織は真っ直ぐに見つめ返した。


「叶様、あの」

「いや、何も聞きたくないよ」


 滑らかな手を伊織の顔の前に差し出し、言葉を遮った。


「恨みごとも、憎しみの言葉も、慰めも、別れの言葉も、なにも聞きたくない」


 手は伊織の顔の前で躊躇いがちに少し動き、ゆっくりと下ろされた。


「私は二度と、向こうの世界へは行かない。あんな下品な世界に用はないよ。ただ折角教えて貰ったのだ、秦家に一泡吹かせる悪戯は仕掛けようと思うがね」


 怜様は私を見た。


「凛子。長い間怖い思いをさせてしまったね。これからは本当の意味で、心穏やかに過ごしておくれ」


 その言葉に答える言葉を持たない私は、黙って頷いた。



 

 三人で倉庫の出口に向かう。

 怜様が扉を開いた。冷たい空気と土の匂い、さあさあと降る雨の音が流れ込む。塀の向こうで、車が水たまりを蹴散らして走る音がした。


「伊織」


 怜様は扉を開けた手を降ろし、振り向いて伊織を見た。

 目に力を入れるように開く。

 涼しげな目の柘榴石色の瞳が、海のように潤んだ光に揺れている。

 その潤んだ瞳に伊織を映し、息を呑む。


 目を細め、口角をきゅっと上げて微笑む。


 怜様の微笑み。でも、この微笑みは、初めて見た。

 怜様は伊織を真っ直ぐ見つめ、穏やかで、柔らかで、微かに震える声で、言った。


「幸せに、なっておくれ」




 扉が閉まる。

 視界から怜様が消える。

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