10.この世界で、あなたと生きる
目を開けた途端、天井が迫って来る。
頭が重い。目の前の低い天井に違和感を覚えながら起き上がると、今度は目の前に無数の本が迫って来た。
そうだ、ここは勝巳さんの家なんだ。
ぼんやりとベッドから降りる。磨りガラスの扉の向こうで、細長い人影が低い機械音を響かせながら動いている。扉を開けると、掃除機を手にした伊織が顔を上げて微笑んだ。
「おはよう。勝巳さん、もう出勤しちゃったよ。そこ、掃除機かけていい?」
なんの考えもなしに頷いた後、少し落ち込む。駄目じゃないか私、一人でのんびりしていたら。伊織だって昨日大変だったんだし、もう、「花嫁と付き人」ではないんだ。
「凛子、どうしたの?」
私も掃除する、と言おうとした時、伊織が私の顔を覗き込んだ。
彼の指先が私の目元に触れる。
しまった、気付かれたか。
昨夜、台所で寝ている伊織や勝巳さんに気付かれないように、声を殺して泣いたのだけれど。瞼の腫れまでは隠しようがなかった。
向こうの世界に未練はない。これからの生活に不安はあるけれど、きっとうまくいくと思っている。それなのに何故か、ベッドに横になった途端、涙が溢れて止まらなくなってしまった。
きっとこの感情は理屈ではない。私達が棄てた向こうの世界には、詰め込んだ想いがあまりにも多すぎる。
想いを一人で抱えきれず、私は彼に頬を寄せた。広い胸と長い腕が、私の体をそっと包み込む。
あたたかな感触。心が柔らかくほぐれ、こわばりが溶けてゆく。腕の中の心地良さに吐息が漏れる。
ああ、やっぱりここが私の居場所なんだ、と思う。
「なんでもないの。もう、大丈夫。ありがとう」
伊織を見上げ、微笑んだ。彼は私を見つめ、頬に触れる。
掃除、しなくちゃ。でもあとほんの少しだけ、私と、詰め込んだ思いを一緒に抱きしめて欲しいな。そんな甘えた心が顔を出す。
その心が伝わったのだろうか。伊織は再び私を包み込み、腕に力を籠めた。
私達と一緒に菜食者用の飲食店で昼食を摂った紗良さんは、大きな溜息をついた。
「で、昨夜は、可愛い彼女がいるおっさん二人で、仲良く一つのお布団で寝たってわけ」
「俺ら、おっさんですか」
「問題はそこじゃないっ」
紗良さんは手にしたフォークで蓮根をぐさりと突き刺した。
「昨日、赤ちゃんを取り返して、凛子ちゃんを殺そうとしていた吸血鬼も送り返して、異世界とは縁が切れたんでしょ。なのにいつまで勝巳君ちにいるつもりなの。どうするのこれから。住む所とか、お仕事とか、戸籍とか、あとなんだ、えーと」
「そういう事もあって、勝巳さんは警察を巻き込んだみたいです。俺達に詳しいことは教えてもらえませんでしたけれど」
勝巳さんは誘拐の件に警察官として動けないし、異世界が世間に広く知れたら大変だ。だから私達だけでこっそり赤ちゃんを取り返して母親に渡し、おしまいにする。最初はそのつもりだった。
だが、私達の存在は、いずれどうしても浮かび上がる。その時、私達が何者かは問題になるだろう。
それに私達は今後、ここでずっと生活をしていく。異世界人がいきなり出て来て安定した生活を築くのは難しい。
だから勝巳さんは、誘拐事件に関われそうな知り合いにそれとなくあたり、あえて「異世界から人が出てきた」状況を限られた人の目に晒し、私達が何者かの理解を得ようとしたみたいだ。少なくとも、私の頭ではそのように理解した。
「ふうん。勝巳君、ああ見えて色々考えてるんだ。高校ん時は考えるの超苦手だったのにさ」
伊織の説明に、紗良さんは遠くを見つめるような目をして微笑んだ。
紗良さんはこれから仕事、私達は警察署へ行かなければならないのに、結構な時間をここで過ごしてしまったらしい。
食後のデザートが出てきた。アボカドとヘーゼルナッツを使ったチョコレート味のケーキと、チコリのお茶。伊織が「
確かに、彼の言う通りだった。チョコレートのうっとりするような香りと濃厚な味わいに、舌が幸せ過ぎて空を飛んで行ってしまいそうだ。
「あ、可愛い。椿」
デザートを頼まなかった紗良さんは、お茶に添えられた小さなクッキーを手にして声を上げた。
「本当だ、可愛いですね。クッキーが椿の形している」
「へえ、凛子ちゃん、椿って異世界でもあるの? 魔法の木とか変身する実とかじゃなくって」
「そんな木ありませんよう。今の時季、これと同じような椿が咲いています」
そう言いながら伊織の方を見ると、目が合った。微笑むような、悲しむような、複雑な表情を見せて軽く頷く。
きっと、伊織も私と同じ椿の花を思い浮かべている。
お屋敷の花園に咲いていた、紅い椿の花。荒れ果てた花園の中でひそやかに凛と咲きながら、私達が想いを確かめ合う姿を見守っていた。
そしてその椿は。
「じゃあさあ、花言葉とかも同じなのかなあ」
花園に心が向かっていたところを、紗良さんの声に引き戻された。
花言葉、という言葉は初めて聞いた。なんだそれ。伊織も首を傾げている。どうもこの世界特有の文化みたいだ。
私達の様子を見て、紗良さんが説明してくれた。花にはそれぞれを象徴するような意味があるらしく、その花を人に贈ることによって、同時に特定の言葉も相手に伝えることが出来たりするらしい。よく分からないが。
「椿はねえ……あ、やだこれウケる、てかウケちゃ駄目か」
スマホをいじりながら話していた紗良さんは、画面を伊織に見せた。
「椿の花言葉に『罪を犯す女』っていうのがあったよ。なんか伊織君っぽ……あ、ごめん。気ぃ悪くした?」
気まずそうに頭を下げる紗良さんを見て、伊織は少し笑って首を横に振った。
「あ、え……つ、椿はねっ、色ごとに花言葉が違うんだって。だからそれ以外にも……うん、色々ある」
紗良さんはさっきの言葉を誤魔化そうとしてか、スマホの画面を指先でぐいぐいいじっている。伊織は少し俯き、視線を動かした後、紗良さんに聞いた。
「あか……」
「ん?」
「紅い、椿って、どんな言葉があるんですか」
「ああうん、えーと『控えめな素晴らしさ』『気取らない優美さ』『謙虚な美徳』だって。ああ、こっちもなんか伊織君っぽいよね」
『紅い椿』の花言葉を聞いた伊織の想いなど勿論知らない紗良さんは、スマホの画面を淡々と読み上げた。
控えめな素晴らしさ
気取らない優美さ
謙虚な美徳
そして、罪を犯す女。
花園の椿の花に、伊織の姿を重ねていたという怜様を思い出す。
怜様は、あの紅い椿の花を、この花言葉のように見ていたのだろうか、と思う。
胸の奥が、刺すように痛む。
「あ、でもねえ、控えめなナントカっていうのは日本の花言葉でね、英語の花言葉は別のがあるんだって。ほらこれ」
下を向いて唇を噛む伊織に向かって、紗良さんはスマホの画面を見せた。
そこに書かれた文字を見て、伊織から表情が消える。
紗良さんは微笑みながら異国の言葉を発した。
「
警察署で話をした後、私達はあのビルまで連れていかれた。
勝巳さんの知り合いや背広姿の警察官、ビルの関係者など、結構な人数であの部屋に向かう。いいんだろうかこんなにおおごとになって。
階段を昇りながら、勝巳さんの知り合いが伊織に声を掛けた。
「昨日、あなた達といた年配の女性ね、何も話さないんです。でも住所はその、異世界なんでしょ」
「はい。農場に住んでいましたから」
「しかしそうなると厄介なんですよ。異世界の住人が犯人となると、我々は介入のしようがない……と、ここですね」
あの部屋の前に到着した。扉を開け、皆で部屋に入る。
「あ、なんだこのドア。勝手に取りつけて。本当に嫌んなりますよ、このテナント」
ビルの所有者によると、この部屋はナントカという会社名義で借りられているらしいのだが、賃料の支払いが滞りがちで、連絡もなかなかつかないらしい。
「なんかねえ、おまわりさん、その会社、どうも実体がないっぽいんですよ。きっと悪さしてますから、逮捕してもらえませんかね。まあ、どうせこのビル、来年には取り壊すんで、私はどうでもいいんですがね」
軽い口調で話すビルの所有者の言葉に、私と伊織は顔を見合わせた。
ビルを取り壊す。
この世界と向こうを繋ぐ道が消える。
警察官の一人が、扉を開けようとした。だが開かないらしく、ノブを激しく動かしている。
「おっかしいなあ」
警察官は扉の前にかがみ込み、扉と床の隙間を覗いてあっと声を上げた。
「すみません、このドア、壊さないといけないかもしれませんが」
「ああ、いいですよいいですよ、うちで取り付けたんじゃないですけど」
扉が何かで意図的に塞がれているらしい。警察官達が三人がかりで、金属の棒のようなもので扉を壊す。その後、ビルの関係者を部屋の外に出し、私と伊織、警察官二人で通路の中に入った。
「あの扉を塞いだの、怜様かな」
真っ暗な通路を歩きながら、伊織に囁いた。
「だろうね。農場や秦家じゃないだろう」
暫くすると、前を歩いていた警察官が小さく声を上げた。
「行き止まりですよ」
「そこに扉があると思いますが」
「いや? ないなあ」
勝巳さんの知り合いが懐中電灯を点けた。入口付近なら懐中電灯が使える。だが懐中電灯が照らしだすのは、黒い土の壁だけだった。
「どこにも、異世界に続く扉なんかないぞ」
勝巳さんの知り合いは、土を照らしながら不機嫌そうに言った。
「……塞いだのでしょう」
伊織の声が暗い通路の中に響いた。
「道を塞ぎ、ここと向こうの世界を絶ったのでしょう。俺に、そんな事をする人の、心当たりがあります」
――私は二度と、向こうの世界へは行かない。あんな下品な世界に用はないよ。ただ折角教えて貰ったのだ、秦家に一泡吹かせる悪戯は仕掛けようと思うがね。
怜様の言葉が脳裏に蘇る。
ビルから一旦警察署へ戻り、解放された時には既に夕方になっていた。
夕焼け色を跳ね返すように輝く新宿の街を、二人で歩く。
あの世界へ行く手段は、もうない。あのまま来年ビルが取り壊されたら、私達の育った世界とこの世界を繋ぐ道は、「なかったこと」になる。
私達は、この世界の人になる。
「明日からやらなきゃいけないこと、沢山あるなあ」
伊織は空を見上げて言った。
「身元もどうにかしなきゃいけないし。前に登録していた派遣会社から仕事も貰わなきゃいけない。それと」
「そうだ、これからずっと勝巳さんちにお世話になるの? 紗良さんが『さっさと出ていけ』って言っていたよ」
「うん。もう、出ていく」
伊織は立ち止まり、私を見た。
「これから一旦勝巳さんの家に行って、荷物を持ち出す。どこかに部屋を借りるまでは、色々不便があるかもしれないけど。でも、今夜は二人でゆっくり休もうと思う」
夕暮れ色の中で、鳶色の瞳が私を見つめる。
「うん。そうだね。伊織、今日はちゃんと寝た方がいいよ。ずっと具合よくなかったじゃない。私も寝倒すぞー。さー、じゃあ中野へ行こー」
にっこり笑って駅に向かう。背後で伊織が深い溜め息をついているのが聞こえた。
ごめん、伊織。
私、嫌な奴なんだ。
私だって一応大人だ。伊織が何を言いたかったのか分かっている。
私達は、友達じゃないんだもの。
でも、狼狽える姿なんか、恥ずかしくて見せられないじゃないか。
人の波をかき分けて、二人で歩く。
私達は、どこにでもいる平凡な人間だ。
翡翠の血も、この世界ではなんの意味も持たない。これからは、命を吸い尽くされる恐怖がないかわりに、自分の足で生きていく強さが必要だ。
さようなら、と呟く。
さようなら、東京国。
吸血族。
怜様。
これから私はこの世界で、伊織と生きる。
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