5.『母親』
今、何が。
目の前で起きた事態を把握する前に、背後から外套を掴まれた。院長先生だ。ビルの正面で飛び回る極彩色の映像が、彼女の険しい表情を彩っている。
「なんてことするの、この人
何をいうか、自分のことを棚に上げて。
そうだ、まずはこの子を。
「人攫いはどっちよ! この子、こっちの世界から誘拐したくせにっ! 離してよっ!」
院長先生を力いっぱい振りほどく。続いて伊織と雄一先生が組み合いながら部屋に転がり込んできた。
窓ガラスの向こうの映像が、幼い少女の声で何かを訴えている。光が瞬く。音楽が舞う。赤ちゃんが泣き叫ぶ。院長先生に掴まれたまま部屋の出口に向かう。
あと、少し。
あの扉の向こうでは、勝巳さんが待っている。だからなんとしても、なんとしても、あの扉を開けるんだ。
「伊織君! 姫! いるのか!」
勝巳さんの声が聞こえた。院長先生が赤ちゃんをもぎ取ろうとする。奪われるものかと引っ張る。赤ちゃんが泣き叫ぶ。
「誘拐ってなんのことよっ! うちの子に手を出さないで!」
「しらばっくれないで! 私達、知っているよ! だから院長先生がやったこと、こっちの警察に全部ばらしちゃったもん!」
正確には完全にばれているとは言えないが、そんなことはどうでもいい。それに今の私の言葉を聞いて、院長先生の動きが止まった。
その隙に赤ちゃんを取り返す。
「な……何適当なことを! 警察って、あなた達、この世界で何をしているの。うちの子を攫って、叶様の命を奪って、本当に恐ろしい子ね!」
その言葉に、今度は私の動きが止まってしまった。
「怜様の命を、奪う?」
院長先生が突進し、私の腕に噛みついた。思わず悲鳴を上げて手の力を緩めてしまう。
赤ちゃんを奪われ、突き飛ばされる。その勢いで床に倒れ込み、膝と掌に衝撃が走った。
「あら、知らなかったの?」
院長先生は、私を見下ろして薄く笑った。
「この世界のこと、どこまで知っているのかしら。あのね、ここは『吸血族の存在しない世界』なのよ。だから『いてはならない存在』は、ここの空気に触れると灰になってしまうの。さっき、見たでしょう?」
その言葉に、あの光景が甦る。
一瞬で灰になってしまった『吸血族』の井村さん。
ここは、吸血族が「存在出来ない」世界だったのか。
部屋を見渡す。
怜様が、いない。
首を一回、大きく横に振る。噛みつかれた腕の痛みに耐え、院長先生に手を伸ばした。彼女はひらりと後ずさり、面白そうに笑った。
その背中に、組み合った伊織と雄一先生がぶつかった。
院長先生の手から赤ちゃんが離れる。
痛む腕で赤ちゃんを奪い返し、出口に向かって駆け出す。
「勝巳さん! 赤ちゃん!」
扉を開ける。
院長先生に肩を掴まれる。
その手が離れる。伊織が院長先生の体を引きずり倒した。
部屋を出る。
「姫!」
「この子っ!」
扉の向こうに勝巳さんがいた。赤ちゃんを手渡そうと腕を伸ばす。
そこを倒れた院長先生に足首を掴まれ、体のバランスを大きく崩した。
前にのめる。
手が滑り、赤ちゃんが手から離れる。
そこへ、
「ミカちゃん!」
髪を振り乱した女性が飛び出して来て、赤ちゃんをしっかりと抱きとめた。
「ああぁ……。ごめんね、ごめんね、こわかったよね。ママだよ、ママ、ここにいるよ」
女性の顔は涙でぐちゃぐちゃだ。崩れ落ちるように座り、赤ちゃんを抱き締めて嗚咽している。勝巳さんが女性の前にかがみ込み、声を掛けると、女性は私と伊織に向かって何度も頭を下げた。
礼に曖昧に応えながら、転んで打った膝をさする。背後で院長先生の舌打ちが聞こえた。
「お疲れ様。本当にありがとうな。姫、大丈夫か? 伊織君、この人が孤児院のおばさんだな」
勝巳さんが背後に目を向けた。紺色の制服らしきものを着た男性二人が歩いて来る。そのうちの一人が院長先生に声を掛けた。
「さて、私、彼から異世界だ吸血鬼だと言われてここに連れてこられたんですけどね、お話を聞かせてもらえますか」
彼、と言って勝巳さんを指差す。勝巳さんの仲間なのだろうか、話し方は丁寧だが、有無を言わさぬ威圧感がある。院長先生は床に手をついたまま、大きな溜息を漏らした。
「ま勝巳さん、その人が、院長先生です。本当は、もう一人、ここに、き来たんですが、『向こう』、に、逃げて、しまいました」
「そうか。おい、大丈夫か伊織君。息出来るか。これからおばさんとお前達は色々聞かれるんだけど」
伊織は私の傍にかがみ込んだ。息を整え、私の髪をそっと撫でる。
手が離れる。
息を吐く。俯き、絞り出すように呟く。
「井村さん、一体、何が……」
彼は両手で顔を覆い、
あの扉の向こうでは、確かにいたのに。扉を開き、この世界に来たと同時に、灰になってしまった。
「いてはならない存在」
……怜様、は?
伊織の背中から離れ、見回す。この部屋にいるのは私と伊織、勝巳さん、紺色の制服を着た男性二人、院長先生。
雄一先生は逃げたと言っていた。
井村さんは灰になってしまった。
では。
「井村さん、どうして、あんなことになったんだ……」
「うん……。あのね、さっき院長先生が言っていたんだけど、この世界は『吸血族の存在しない世界』でしょ。だから、『いてはならない存在』は、ここの空気に触れると灰になっちゃう、って」
「そんな……」
そこに、女性と話していた勝巳さんが顔を上げて口を挟んだ。
「おい、姫、なんだその話。空気に触れると吸血鬼が灰になる? え、吸血鬼って太陽にあたると灰になるんだろ? てか、灰になった奴がいるのか今」
「そうなんです。ここまで一緒に来たお屋敷の執事さんが、私の目の前で灰になってしまって……。伊織、その人とよく一緒に仕事していたんです。で、一緒に、怜様も、来たんですけど……」
その時、制服を着た男性の一人が、あの扉の中を覗き込んで声を上げた。
「おい、ここにも一人いるぞ。大丈夫ですかぁ。おーい」
一人いる。
伊織と一緒に扉の方を見る。
制服の男性は扉の向こうに行き、「大丈夫ですか」と言いながら、怜様をこの部屋に連れ出した。
男性の肩にもたれ掛かり、怜様はこの部屋に入って来た。
部屋の中に入って来た怜様は、歩くこともままならず、息も絶え絶えという様子だった。
だが、灰にはならなかった。
「なんで……」
院長先生が呟く。私と伊織も顔を見合わせた。
「もしもーし、どうしたんですかぁ」
制服の男性は怜様に声を掛けながら腰を下ろした。怜様を床に横たえる。極彩色の照明を浴びた怜様は、時折痙攣し、何かを求めるように苦しげに喘いでいた。
「あの、もしかして」
赤ちゃんを抱いた女性は、制服の男性におずおずと声を掛けた。赤ちゃんを軽く揺すりながら歩み寄り、怜様の前にかがみ込む。
「脱水、かなあ」
「脱水?」
制服の男性の声に、女性は頷いた。
「多分。前に見たことがあります。どうしましょう、水なら持ってますけど、経口補水液じゃないとだめでしたっけ」
女性が赤ちゃんを抱っこしながら鞄から何かを取り出した。それを見た途端、伊織が立ち上がって叫ぶ。
「待って、それは――!」
女性が細長く透明な入れ物の蓋を開け、怜様に近づける。それを見て私も立ち上がった。
あれ、水だ。
駄目だ。吸血族に水を飲ませたら、命を落としてしまう。
伊織が女性の方へ駆け寄った。だがそれより一瞬早く、彼女は蓋を開けた入れ物を怜様の口元に押し当てた。
怜様の唇と喉元が僅かに動く。
水を、飲み下す。
もう一度、喉元が動く。
飲み下す。
痙攣が止まる。口元から水が零れる。
バネ仕掛けのように上体を起こし、女性から水を奪う。
入れ物を掴み、飲み続け、入れ物の中の水が半分位になった時、怜様は我に返ったように顔を上げ、入れ物から口を離した。
激しい音楽と映像が飛び交う中、室内に奇妙な沈黙が流れる。
私は伊織の傍に立ち、顔を見合わせた。
「ああよかった、気がついて」
女性と制服の男性はほっとしたように微笑んでいる。だが私の頭の中は混乱し、同じ思いが何度も
この部屋に入って来ても、怜様は灰にならなかった。そこまでは、まだ受け入れられた。「吸血族がこの世界に来ると灰になる」という話は、井村さんのことがあったとはいえ今聞いたばかりだし、例外もあるのだろうと思えたからだ。
だが、「水が飲める」となると話は別だ。
吸血族は水を飲むと命を落としてしまう。なのに、怜様は水を飲んだ。
そして水を飲むことによって、体が回復した。
導き出される答えは一つだが、ありえない。
「おい、この人は誰だ」
勝巳さんが私達の所へ来た。制服の男性は院長先生の所へ行き、女性はポケットからスマホを取り出し、耳に当てながら少し離れた。
怜様は、床に座ったまま壁の一点を見つめている。
「叶様……凛子のことを捕えていた、吸血族の
「吸血鬼か。でも脱水は起こしていたけど灰にはならなかったぜ? 吸血鬼が脱水っていうのもよく分からんが」
「だから吸血『鬼』ではないです。普通に生きているんですから。ただ、灰もそうですけど、吸血族は水が飲めないんですが……」
怜様は勝巳さんの方へ顔を向け、ゆっくりと頷いた。
「私の……」
擦れた声で、怜様は呟いた。私と伊織は顔を見合わせて頷き、床に座った。
「私の、人生は、一体なんだったのだろう」
壁に視線を戻して呟き、言葉を切った。
「叶様の人生、ですか」
伊織の問いに、怜様はゆっくりと頷き、口の端を歪めた。
「私は、なんのために叶家を継ぎ、望まぬ人生を歩み」
私の方へ顔を向ける。
「『翡翠』の命を奪おうとしたのだろう」
その時、赤ちゃんを抱いた女性が勝巳さんを呼んだ。彼女の夫から勝巳さんに電話があったらしい。勝巳さんは立ち上がって電話で話し始めた。
「あの、すみません、叶様の話がよく分からないのですが」
伊織の言葉に、怜様は少し笑った。再び壁の方に向き直り、口を開く。
「今の今まで、信じていなかった。信じたくなかったのだよ。それに真実だと証明するには命を張らなければならない。だが、今、私は水を飲んでしまった」
ビルの向こうの激しい音楽が、私の耳から遠ざかってゆく。
「私の母は生きていてね。父の目を盗み、不義を重ねていたことがばれて家を追い出されたのだけれど。それが、父の亡くなった日の夜、いきなり私の所へやって来たのだよ。一度屋敷を訪ねた後、井村に聞いて墓地まで来たらしいのだが」
ご隠居が亡くなった日の夜を思い出し、思わずあっと小さな声を上げた。
そうだ、あの日の夜、お屋敷を訪ねて来た女性がいた。
質素な喪服に身を包んだ、匂いたつほどに美しい女性。
若い人だと思っていたが、名家の吸血族は、見た目で年齢は分からないのだ。
あの人が、怜様のお母さんだったのだろうか。だとしたら美しいわけだ。
「母は美那さんに席を外すよう言いつけ、私と二人になった上で話し始めた。母は涙交じりに私に詫びたが、話の内容は、到底許せるものではなかったよ。しかしそれ以上に、到底信じることは出来なかった。もし、その話を認めてしまったら、先祖代々築き上げてきた叶家というものが、根底から崩れ去ってしまうのだからね」
そこまで聞けば、怜様が何を言いたいのかが分かった。だが、聞く側の私ですら、信じることが出来ず、相槌を打つことすらも出来なかった。
「父に不義を知られる前から、母には別の恋人がいて、
柘榴石色の瞳が滲む。
「私は、その人間の恋人との間に生まれた……半吸血族だと」
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