6.ずっとそばに

 光と音が飛び交う室内に、ざらざらとした空気が満ちている。


 制服の男性が院長先生に少し強い口調で話し掛けている。勝巳さんはスマホを手に、頭を下げながら何かを詫びていた。赤ちゃんを抱いた女性は、あの扉の向こうを覗いている。

 怜様は柘榴石ガーネット色の瞳を壁に向け、軽く咳込んだ。


ひどく、喉が渇く」


 私の方を見る。紅い瞳に光が宿った。だが目を伏せ、手にした水の容器を口に運んだ。

 喉が動き、水が怜様の体の中に入っていく。


「こういった可能性は、ご隠居様はお考えにならなかったのでしょうか」

「そうだろうね。父がめかけを持つこともせず、老いにあらがうこともせずにいられたのは、私というがいたからだよ」


 水を含み艶を取り戻した、形の良い唇が歪む。

 私の手に、伊織の手が触れた。手を強く握られる。伊織は感情を失った顔で怜様を見据え、微かに震える唇を開いた。


「叶様が半吸血族だったことは、叶家が途絶える一大事です。名家が一つなくなるのですから、東京国から見てもおおごとでしょう。ですが、はっきり言って、俺からすれば知ったことではありません」


 名家は『吸血族』だからこそ価値がある。被食者の血が混ざるなど、あってはならないのだ。

 怜様は、叶家の当主を名乗っている。だが厳密には、ご隠居がこの世を去った時点で、叶家はついえていたのだ。


 そんなおおごとなのに、何故怜様のお母さんは、ご隠居が亡くなるまで言わなかったのだろう。保身のためだったのか、叶家に恨みでも持っていたのか、私なんかがいくら考えても分からない。ただ、どんな理由であれ、東京国から名家がひとつ消える。

 それを、伊織は「知ったことではない」という。


「半吸血族かどうかは、確認のしようがありません。水を飲むわけにはいかないし、医師に相談するわけにもいかないでしょう。でも叶様は、ご自分が吸血族ではないかもしれないと知りながら、凛子を捕え続けていました」


 私から手を離す。怜様の胸倉を掴み、強く引き寄せる。


「お前は、凛子の命を無駄に奪おうとした」


 端整なだけの無表情が、一転して憎悪にたぎる。


「半吸血族が人ひとりの命を奪える程、吸血できるかどうかなんて知らねえよ。でも全部の血を吸ったって、不老不病になんかなりゃしねえ。それなのにてめえは、凛子の、凛子の命を奪おうとした」


 胸倉を激しく揺する。怜様は濁った瞳を伊織に向け、されるがままになっていた。伊織は声を荒らげ、右手で拳を握った。


「ふざけんじゃねえよ、この野郎!」


 拳を振り上げる。

 彼の背中が強張り、黒い憎悪が吹き上がる。


 だが、そこで彼の拳は力を失い、ゆっくりと下ろされた。

 背中を丸め、胸倉を掴んだ手の力が抜ける。


「だけど……」


 胸倉から手を離す。怜様は俯いて咳込んだ。伊織の声が呟きに近くなる。


「俺は、お前に、命を救われたんだ」


 伊織は私を見て悲しげに微笑み、再び怜様に目を向けた。

 そして小さな声で、、と言った。




 ざらざらとした空気を破るように、勝巳さんの叫び声が響いた。


「ああっ、そっちは行かないで下さいっ!」


 勝巳さんは扉の向こうに入ろうとしていた女性を引き戻し、部屋の窓側まで引っ張っていた。


「だって、ミカちゃん、あっちの部屋に閉じ込められていたんですよね? 今までどんなところに入れられていたのか、気になるんです。だってさっきから、吸血鬼とか、灰になるとか、一体どんな恐ろしいことをする人達がいるのかって」

「お気持ちは分かりますが、だからこそどんな危険があるか分かりません。我々できちんと調べますから」

「でも、あんな真っ暗で、なんだか怖そうな所で、あれ、でも、ん? このビル、どんな造りに」

「そのあたりは我々がうまいこと、じゃない、適切な方法で確認します」


 勝巳さん、赤ちゃんはこのビルのどこかに閉じ込められていた、みたいな説明をしていたんだろうか。彼は女性を窓際に立たせると、私達の方へ向かって来た。


「おい、詳しい経緯は分かんねえけど、取り敢えず暴力はやめてくれ。でな、さっきあの人の旦那から怒りの電話があって、俺はこれから彼女を急いで病院まで送らないといけないんだ。だから君ら三人、おばさんと一緒に警察署まで行ってくれ。あ、こっちの彼は俺のことよく知ってるし、こんな話をいきなりしてもつきあってくれるような人だから大丈夫だよ」

「三人。叶様も一緒ですか?」

「まあな、一応。でもこの人具合悪いのか。先に病院へ行った方がいいか?」

「病院はだめです。消化器系が萎縮しているので、人間しか診たことのない医師に不審がられると思います。ああ、でも、水もこれ以上飲めないし……」


 そうか、半吸血族とはいえ今まで水や食料を摂ったことがないから、あんまり水を飲むわけにいかないんだ。


 一口に半吸血族といっても、外見や体質は様々だ。嶋田さんみたいにほぼ人間と同じ人もいるし、彼の恋人の比佐子さんは、多分体質が吸血族寄りなのだろう。

 怜様は外見からして、完全に吸血族寄りだ。しかも今まで吸血しかしていないから、水を上手に吸収排泄できるか分からない。


 だが、喉が渇いて苦しそうだ。『人間』の血のおかげで灰にはならなかったけれど、『吸血族』の血が、怜様を干上がらせているのだろうか。


 こんな所でどうかとも思ったが、私は怜様の前に跪いた。

 おくれ毛を掻き上げ、首筋を差し出す。


「どうぞ。いいですよ」


 そこに伊織が割って入って来た。険しい表情で私を怜様から離そうとする。私は彼を押さえ、もう一度言った。


「渇いて苦しいんじゃないですか。だから、どうぞ」


 伊織の方を少し見て微笑む。彼は何かを言おうとしたのか口を開きかけ、つぐんだ。怜様の瞳が光る。顔がゆっくりと動き、私の首筋に冷たい手を添える。


 だが、怜様は私から離れ、首を横に振った。


「牙が、出ない」


 扉の向こうに目を向ける。


「私は」


 濁った紅い瞳が、暗闇を捉えている。


「『いてはならない存在』なのだろうね」


 勝巳さんの知り合いらしき警察官に、外に出るよう声を掛けられた。

 私達は立ち上がり、部屋を出た。




 薄暗い階段を降りる。先頭が勝巳さんと女性、次が院長先生と勝巳さんの知り合い。もう一人は先に外に出ているようだ。

 伊織は私のすぐ前を歩き、足元のおぼつかない怜様に肩を貸していた。


「凛子」

 

 怜様は振り返り、私を見た。

 暫くの沈黙の後、口を開く。


「すまなかったね」


 頭を下げる。


 名誉や誇りの名のもとで、名家の当主はかくあるべしという呪縛に囚われながら生き続けていたのであろう怜様が、頭を下げる姿を見て、私は曖昧に頷くことしか出来なかった。




 ビルの階段を降りきった所で、伊織が振り返った。


「凛子、脚、痛いよね」


 言われて思い出した。そうだ、逃げていた時、走りにくいからと靴を脱ぎ捨てたんだった。足元を見ると、埃で汚れ、厚く織られた「タイツ」が破れていた。


「うーん、痛くはないけど、これで外を歩くのはちょっとなあ。どうしよう」

「姫、靴なくしちゃったのか。紗良に見てもらって買いに行ったらどうだ。ああ、でも店寄ってる暇ないか、てか紗良今日は早番だからあがってるよな」


 外に出る。街中に溢れかえる光と音の刺激は、ビルの室内の比ではない。思わず耳を塞ぎたくなる。


 で、靴、どうしよう。

 道路は汚いし冷たいし、第一見た目が良くない。今日、この格好のまま警察署に行くのか。そしてその後もこのままか。


 そんなことを考えていると、伊織の動きが止まった。視線を動かしている。何かを見つけたのだろうか。


「伊織、どうしたの」

「あそこ……」


 指された方を見ると、向かいにあるビルの狭い入口から少し入った所で、男女が話している。男性が女性に絡んでいるようだ。

 暫くなにかを言い合っていたが、やがて男の方が「なんだよ、ババアのくせに」みたいなことを言い捨てて唾を吐き、肩を揺すって通りに出てきた。

 私は、男の背後に向かって蹴飛ばす仕草をしている女性を見て、思わずあっと声を上げた。


「紗良さん! なんでそんなところにいるんですか!」


 私の声に、皆が一斉にビルの狭い入口を見た。

 そこには紗良さんが立っていた。皆の注目を浴び、彼女は蹴り上げた長い脚を下ろして気まずそうに頭を下げた。


「紗良、お前なにやってんだよこんな所で。あ、すみませんが、車の所で待っていてもらえませんか。ちょっと話して、すぐ戻りますから」


 勝巳さんは制服の二人に声を掛けて頭を下げた。彼らは顔を見合わせてにやりと笑ったが、黙って院長先生と赤ちゃんを抱いた女性、そして怜様をどこかへ連れて行った。


「ごめん。邪魔する気はなかったんだけど」

「別に邪魔じゃねえけど。なにやってんだって言ってるだけだよ」

「キャッチに捕まって、どこかの店に連れ込まれそうになったから断ったら、ババアって言われた」

「その話じゃねえよ」


 そこで紗良さんは暫く沈黙し、やがて俯きながらぽつんと呟いた。


「だって、心配だったし」


 華やかに彩られた長い爪をもてあそびながら言葉を続ける。


「だって、異世界だよ? 相手は吸血鬼とかだよ? んで人んちに入って赤ちゃん取り返すんだよ? 伊織君も凛子ちゃんも強くなさそうだし、無事だよの連絡ないし、せっかくラブラブになったのに、もし変なのに捕まったらって思うと、それに」


 言葉を切り、無言で爪を弄ぶ。

 手が止まる。


 勝巳さんの目を、真っ直ぐに見つめる。

 唇が微かにわなないている。


「勝巳君、異世界に行っちゃったらどうしようって」


 唇のわななきが全身に広がる。長い睫毛の奥の目が潤んでいる。

 両手を組み、力を込めた指先が白くなっている。


「勝巳君が何かの勢いで異世界に行っちゃったらどうしよう、行ったっきり帰ってこられなくなったらどうしよう、異世界に行かなくても、向こうから吸血鬼とか出て来てわーって襲って来たらどうしよう、誘拐犯のおっかない家の人が、異世界的な武器とかで攻撃して来たらどうしよう、そうしたら、勝巳君が、勝巳君が、でも、邪魔しちゃいけないし、でも、あ、今だって、人待たせているんでしょ? だから、でも、でも」


 紗良さんの睫毛の奥が、透き通った涙で溢れている。それを唇を強く噛んで押さえ込む。

 俯き、両手で顔を覆う。

 呟く。

 心の中を吐き出すように。


「みんな、無事で、よかったよぅ……」


 肩を震わせる紗良さんを見て、勝巳さんは軽く溜息をついて微笑んだ。


 一度、上を見て、視線を動かす。

 紗良さんを見つめる。

 

「お前どこまで想像力働かせんだよ。そんな心配すんなって」


 紗良さんの方へ一歩近づく。


「あのさ、そんな事だと俺困るんだけど。こんな仕事してんのに」


 その言葉に顔を上げた紗良さんを、勝巳さんの大きな体がふわりと包み込んだ。


「そんなんじゃ、ずっと俺のそばにいてくれって、言いにくくなるだろ?」


 目を合わせる。勝巳さんが柔らかく微笑んだ。

 紗良さんは目を見開き、譫言うわごとのように呟いた。


「うそ……」

「嘘じゃねえし。……あ、あ、いやでも、俺はそう思ってるんだけど、そこはまあ紗良の意思も尊ちょ」

「もう、あとつけたりしないから。一人で心配を膨らませたりしないから。だから」


 急に早口になった勝巳さんの言葉を遮り、紗良さんは彼の逞しい胸に頬を寄せた。

 自分を抱き寄せる腕にそっと触れる。


「ずっと、傍にいさせてくれる?」

 

 顔を上げ、微笑む。

 二人のあたたかい空気が、私達の周りまで包み込む。


 やがて勝巳さんは私達の方を見て、照れ隠しのような変な笑顔を浮かべた。


「お前ら、何ガン見してんだよ。あ、あのさ紗良、俺ら、今、猛烈に恥ずかしいこと言ってねえ?」

「あ……」

「でも、ちょ、ちょっと待て、もうここまで言ったし、もう一言。そしたら俺急いであっち行かねえとマジやばいんだ」


 勝巳さんはもう一度私達を見た後、「あ」と呟いてにやりと笑った。


「俺さ、ベタやテンプレが大好きなんだよ。でもよ、さすがにこいつら前にして、ガチのベタは恥ずかしいんだよ。だからさ、異世界人には分かんないベタで行くから」


 勝巳さんは紗良さんから離れ、彼女の手を取った。

 視線を真っ直ぐに合わせる。


「紗良」


 少し照れたように笑い、真顔に戻る。


「つ、月が、綺麗ですね、っと」


 勝巳さんの発した言葉に、紗良さんはぷっと噴き出した。

 彼の手を握り返す。

 艶やかな唇から、甘い囁き声が零れる。


「えっと……。死んでも、いいわ、っと」

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