エピローグ

【終】そして、始まる

 買い物袋を床に置いて時計を見ると、もう四時を過ぎていた。

 まずい。急がないと学活に間に合わない。伊織、今日は一緒に学校へ行けるかな。最近、なんだかんだで帰りが遅いから。




 私達がこの世界に来てから、一年と少しが経った。


 初めのうちは「生きる」ので精いっぱいだった。なにしろ住む所も仕事も苗字もない状態で、別の世界にやって来たのだ。でも有難いことに沢山の親切な人に恵まれて、最近ようやく落ち着いた生活が送れるようになった。

 現在、私達は都内にアパートを借りて暮らしている。

 こちらの世界の文化や常識にも大分慣れた。

 そして少しずつ、向こうの世界を思い出すことが少なくなった。




 さて、のんびりしてはいられない。五時半には私達が通っている夜間中学が始まってしまう。だから今から夕飯の下ごしらえをして、今日買い物した分のレシートを家計簿アプリに読み込ませるのだ。

 伊織が働いて得てくれたお金なのだもの、ちゃんと管理して、節約しながら大事に使わないと。


 節約はしても栄養は必要だ。冷蔵庫に貼った紙に目を向ける。これ、全部覚えたからそろそろ剥がそうかな。伊織の体調維持に必要な栄養素を多く含む食品の一覧。

 最初はこれが厄介だった。ただ栄養素を摂るだけではなく、栄養素の吸収を阻害する成分にも気をつけないといけない。

 食が細く、苛酷な生活で胃も痛めていた伊織が効率よく栄養を摂るには、おいしくて消化がよい食事にする必要もある。


 伊織が元気でいられる、おいしい食事を作る。家や服をきれいにして、ほっとくつろげる空間を保つ。普段は節約をするけれど、たまに二人でちょっとした贅沢を楽しむ。


 いっぱい考える。

 いっぱい愛する人を想う。


 そんな、ささやかな幸福に満ちた毎日を、噛みしめるように過ごしている。




 伊織が帰ってきた。近所の会社で長期アルバイトとして働いているのだが、最近担当する仕事が増え、忙しいらしい。でも今日は定時であがれたみたいだ。


 玄関に向かい、伊織の首に腕を回す。彼が微笑み、私の腰を引き寄せる。

 唇を重ねる。

 毎日のことなのに、この一瞬が、たまらなく甘くいとおしい。


「ねえ見て、勝巳さんと紗良さんの結婚式の招待状が届いたよ」

「あ、これ? うわ、すぐじゃないか。紗良さん、エリアマネージャーに昇進したばっかりだろ。よく日曜日に仕事休めたなあ」

「無理したみたいだよ。どうしてもお腹の大きさが目立つ前にウェディングドレスを着たいからって」

「そう、か……」


 伊織はそこで言葉を切り、何かを考えていた。


「……あ、ごめん、そ、そういえば勝巳さんの新人賞、中間発表ってそろそろ出」

「今日、結果出てた。……いつもと同じ」

 

 お喋りをしていたら時間ぎりぎりになってしまったので、慌てて家を出た。

 本当は別々に学校へ行けば、多少時間に余裕が出来る。でも、玄関でおかえりなさいのキスをして、一緒に手を繋いで学校へ行く、このちょっとした時間が大切なのだ。




 もうすぐ梅雨入りすると、ニュースで言っていた。

 外は穏やかな光に満ちていた。明日も晴れるみたいだが、空気が僅かに湿り気を含んでいる。小学生達五、六人が、楽しそうに喋りながら私達を追い越し、走り去っていった。


 クチナシの花の香りが漂ってくる。

 白い花弁を広げ、甘く華やかな香りを振りまくクチナシの花。香りを吸い込むと、舞い上がるような幸福感に包まれる。


 幸福感に包まれながら、伊織の横顔を見上げる。

 伊織、すっかり元気になった。

 まず、顔色が良くなった。表情もいつも明るい。肩の傷も痕は残っているものの、痛みはないという。

 そして不調で倒れることもなくなった。お屋敷にいた時よりも忙しい毎日を送っているのに。


 お屋敷、か。


 ふ、と、怜様のことを思い出す。

 怜様、今の伊織を見たら、なんと言うだろう、と思う。

 そして、向こうの世界と怜様は、その後どうなったのだろう、と思う。


 私達には、向こうの世界の状況を知るすべがない。

 あの通路は、警察が調べた所によると、土砂やコンクリートのようなもので埋まっており、完全に行き止まりになっていたそうだ。

 そしてビルは、今年に入ってから取り壊された。


 通路や異世界の存在が公になることはなかった。

 あの通路や向こうの世界に対して、警察がどう動いたのか、勝巳さんは教えてくれなかった。というよりあの件は、彼の手の届かないようなところに渡ってしまい、彼には殆ど情報が降りて来なくなってしまったようだ。


 院長先生は、誘拐の証拠が不充分ということで罪に問われなかったようだが、その後、どうなったのか分からない。


 そうやって、私達の育った世界そのものが、「なかったもの」とされた。 


「ねえ、伊織」


 理由の分からない胸の痛みに耐えるように、繋いだ手に力を入れる。


「私ね、今、凄く幸せなの」


 伊織は私の手を強く握り返し、微笑んだ。


「俺も」


 彼の澄んだ瞳が僅かに揺れた。

 私を見つめる。


 言葉を続ける。言葉のひとつひとつを抱き締めるように。


「今、凄く、凄く、幸せだよ」




 学校が終わって外に出た。

 家路へと急ぐ人達とすれ違う。もう九時だ。お腹がすいたし、私達も早く家に帰ろう。


「――ところでさ、今度の週末、新宿へ行かない?」


 伊織は今までの雑談から急に話題を変えてきた。


「え、新宿? いいよ。何か見たいものでもあるの?」

「うん」


 私を見つめ、暫く沈黙する。

 一度、上を向き、大きく頷く。

 再び口を開く。


「こんな所で言うことじゃないけど、家に着いて、食事して、なんとなく時間が経つ前に言いたいんだ。それにこの話は、もうちょっと後にしようかと思っていたんだけど。中学を卒業するか、せめて正社員採用になってからにしたほうがいいかなって。でも、そんな区切りも意味がない気がして」

「え、何が? なんのこと?」


 要領を得ない話に、どう答えたらいいのか分からず、首を傾げる。なんなんだろう一体。

 大通りの信号が赤になった。伊織は繋いだ手を離し、私の正面に立った。その彼の雰囲気に呑まれ、わけの分からないまま姿勢を正す。


「覚えているかな。初めてこの世界に来た時、新宿のデパートへ行ったろ? あの時にした約束」


 あ……。


 頭の中が一瞬、真っ白になって、時が止まる。


「覚えて、いるよ」


 覚えている。勿論。忘れるわけがない。伊織には言ったことがないけれど、一緒に暮らすようになってから、何度も思い出しては「その日」を待ちわびていたのだ。

 震える声を押さえ込み、あの日の約束を唇に乗せる。

 

「『部屋を借りて、長く続けられる仕事を見つけて、この世界で安定して暮らせるようになったら、その時、ここに指輪を買いにこよう』」


 伊織は微笑み、私の両手を取った。

 信号が青になったのか、周りの人の波が動き出していた。


「俺はまだバイトだし、中学も卒業していないし、凛子に苦労をさせているのは分かっている。でも、これから先の人生で、俺の全てを捧げるのは凛子しかあり得ない。だったら先延ばしにする意味はないかなって。だから」


 世界の全てが止まり、伊織の言葉が体を包む。


「今度の勝巳さんと紗良さんの結婚式、俺は凛子と夫婦として出席したい」


 彼の微笑みが、手のぬくもりが、私の世界の全てになる。


「結婚しよう、凛子」




 答えは、ずっと前から決まっていたのに。

 どうして、「はい」のひとことが、こんなに熱く、震えるのだろう。




 私達は歩き出した。

 伊織は暫く無言だったが、俯き、はにかみ、どこに向かって話しているのか分からない視線のまま言った。


「本当はさ、さっき、ぱーって石のついた指輪かなにか渡せたらかっこよかったんだけど、ごめん、そこまでお金が貯まらなくて」

「え、何言っているの、いいよいいよそんなの。今度結婚指輪買うじゃない。私こそごめん、お小遣い少ないよね」

「あ、いや、そういう意味じゃ……って、なんだかなあこの会話」


 急に現実的な話を始めたのは、多分照れ隠しなのだろう。私はそのことに気づかないふりをして笑ってみた。


「順番が違うけど、いつか凛子に石のついた指輪をあげたいなあと思って、いろいろ検索してみたんだ。凛子なら『翡翠』かなあとも思って調べてみたら、『翡翠』って、神秘的な力の絡んだエピソードが色々あってね……って、ごめん、嫌だった?」

「ううん、平気だよ。そっか、『翡翠』のこと、私もちょっと調べてみようかな。でもね、私、石なら透き通っていてキラキラしたもののほうが好きかも」

「そうなんだ。どんな石が好き?」

「えっとお、ダイヤモンドとかあ、ルビーとかあ、サファイヤとかあ」

「…………うん。頑張る」


 宝石ってそんなに興味がないのでなんとなく言ってみただけなのだが、なんだか伊織の様子がおかしくなってしまった。どうしたんだろう。


 伊織の口から久しぶりに『翡翠』という言葉を聞いた。

 私の特殊な血。この世界では、なんの意味も持たない血。でも、もしかしたら、この世界の人がまだ知らないだけで、特別な力を持っているかもしれない血。

 

 どうして不老不病の力を持つ血を『翡翠』と呼ぶのか、説が色々あってはっきりはしない。けれどもこの世界では翡翠の石に、神秘的ななにかを感じているらしい。

 そういえば、『吸血鬼』も、架空の怪物ということになっているが、どことなく吸血族と似ている。


 この世界と、向こうの世界は、全然違うようで、どこか細い糸でねじれて繋がっている。

 



 家に着いた。さて、夕飯の支度だ。


「お腹すいたあ。すぐ夕飯にするね」


 靴を脱ぎ、玄関から部屋に上がろうとする。

 その時、後ろから伊織に強く抱きしめられた。


「凛子」


 長い腕が、私を強く包み込む。彼の熱を帯びた囁き声が耳朶を震わせる。

 息が、苦しくなる。


「ありがとう」


 息が、苦しい。

 胸が痛くて、体が熱くて、たまらなく苦しい。


「ずっと一緒に、幸せになろう」


 彼の囁きに頷く。

 そして思う。


 私達のこれからの生活は、決して楽しいだけのものではないだろう。無我夢中で今まで見えていなかった問題も、きっと沢山あるはずだ。


 それに。

 向こうの世界は「なかったこと」にはなったが、決して「ない」わけではない。

 あの通路が向こうの世界との道の全てではないであろうことは予想がつく。であれば、今もこの世界に、向こうの世界から、何らかの悪意を持って来ている人間や半吸血族がいるかもしれない。

 それに、院長先生は、この世界にいる。

 それでも……。


 私は体を動かし、伊織を見つめた。彼の潤んだ瞳が私を捕える。

 私はそっと目を閉じた。 


 それでも、彼と一緒に生きるのは、こんなにも熱くて、甘くて、苦しいから。



 この苦しみがあるならば、私は何にでも耐えられる。

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翡翠に捧ぐ 玖珂李奈 @mami_y

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