3.三人の作戦
「最悪だ」
板――『スマホ』という、携帯型電話なのだそうだ――を耳から離した勝巳さんは、深い溜息をついた。
「今日の夕方五時頃、渋谷の病院で女の赤ん坊が何者かに連れ去られたって」
勝巳さんの言葉に、伊織は目を細めた。
「五時。渋谷から新宿って、どの位かかりましたっけ」
「電車や車ならすぐだ。もし伊織君が見かけたのが孤児院のおばさんだったら、時間からして既に誘拐していて、帰る所だったのかもしれない」
勝巳さんは腕を組み、舌打ちをした。
「なんかな、その赤ん坊の父親がちょっと面倒なことを言う人らしくて、表沙汰になるのが遅れたらしい。ただ、それなりの家だっていうから、金目当てで誘拐された可能性も充分ある」
伊織は拳でテーブルを叩いた。本型の機械が怯えたように揺れる。頭を抱え、呻きにも似た息を吐く。
「あの時もっと、探していれば……」
「伊織君、まだおばさんが絡んでいるか分からねえんだよ。それにあの状況では難しかったんだろ。異世界転移してきた直後で、ちらっと見た気がしただけで、探しても見つからなかったって」
「でも」
私を少し見て、俯く。
「もし誘拐された子が『翡翠』だったら」
言葉の端が、力なく消える。
室内が沈黙に澱む。
窓の向こうから、車の音や人々の話し声が微かに聞こえる。
この世界に住む人々は、今、一人の子供が、吸血族の『餌』として異世界に沈んでいったかもしれないなんて、想像もしないだろう。
勝巳さんが、また一つ大きな溜息をついた。
「赤ん坊本人だけじゃねえ、何を言っているにせよ、親は今、どんな気持ちか……」
伊織は暫く何かを呟いた後、顔を上げた。
私を少し見て唇を噛む。
首を振って勝巳さんを見る。
「勝巳さん、急なお願いですが、明日、仕事を早めに終わらせられませんか」
「え、なんだよ急に。なんでだよ」
私を見、言葉を続ける。
「凛子を見ていてもらいたいんです。俺、明日の夕方、農場へ行って赤ちゃんを取り返してきます」
会話の途中から、なんとなく、伊織がそう言い出すんじゃないかと思っていた。
伊織はきっと、自分を責めている。もっと時間を掛けて探せば院長先生を見つけられたかもしれない、と思っているだろう。
勝巳さんはテーブルの上に手を置き、落ち着いた口調で言った。
「それは先走り過ぎだ。おばさんが関与しているか分からねえって何度も言ったろ。それにもしおばさんがやったって分かったとしても、向こうの奴らに捕まったらどうするんだ」
「逃げるなり脱獄するなりします」
「凄え言い草だな。でもそう簡単じゃねえんだろ。そしたら異世界に残された姫はどうするんだ」
勝巳さんの言葉に、伊織は何かを言いたげに口を開き、閉じた。
膝の上で拳を握る。拳が微かに震えている。
「なんで、私を置いていく前提で話をしているの?」
農場に忍び込む。そして赤ちゃんを取り返す。
伊織がそう言うんじゃないかと思った時から、私は言うつもりだった。
「私も一緒に行く。一緒に赤ちゃんを取り返す」
「何言っているんだよ! それじゃあ折角ここに連れて来た意味がないじゃないか!」
伊織は身を乗り出して大声を出した。
「はっきり言う。凛子は足手纏いなだけだ。俺一人で充分だ。捕まらないように注意するし、捕まっても俺の場合、死ぬわけじゃない」
「死ななきゃいいってもんじゃないでしょ」
彼の崩れた肩を思い出す。押さえつけられ、体が壊れるまで血を吸い尽くされる姿が心に浮かび上がり、目頭が痛くなる。
「ねえ、なんで伊織だけが危険な目に遭うの。自分だって赤ちゃんを取り返すなんてやったことないのに、なんで私を足手纏いって言うの。伊織、赤ちゃんを抱っこすると絶対泣かせるからって、お手伝いから外されたりしていたじゃない。私だって役に立つもん。それに」
感情が昂り、言葉が震える。それでも伝えたくて、前を見る。
「私は伊織と一緒に、助け合って生きたいの。だから一緒に行って、一緒に苦労して、ずっと一緒に、幸せになるの」
また、もとの世界へ行く。農場に侵入する。また逃げる。
怖い。だけどひとり安全圏で待っていたくない。
それに、万が一伊織が戻って来なかったら。
知らない世界で、伊織を待ち続けるのだ。
ずっと。
伊織の言う通り、足手纏いなだけかもしれない。それも怖い。私のせいで伊織が苦労するのは、もう嫌だ。
農場から逃げ出し、伊織だけ捕らえられた日のことを思い出す。
でも。
「とんでもねえ我儘なのか、世間知らず故の無鉄砲なのか知らねえけど」
勝巳さんは息を吐き、伊織の肩をぽん、と叩いた。
「惚れられてんなあ、お前」
勝巳さんの言葉に、伊織は俯きがちに頷いた。
その後、明日の予定について、三人で話し合った。
まず、院長先生が関与している可能性があるかどうかの確認だ。全然関係ないのにもとの世界に行くような真似をするわけにはいかない。
院長先生が関与していそうな場合、私も向こうへ行くことになった。私の意見が通ったのではない。検討した結果、二人の方がいいだろうという結論になったからだ。
勝巳さんは仕事の関係上、長時間職場と連絡が取れない状況になってはいけないらしい。だからこちらの世界で対応することになった。
「折角こっちに逃げて来たのに、今回の事と直接関係ない君達に、こんなことをしてもらって本当に申し訳ない」
勝巳さんは何度もそう言って頭を下げた。
関係ない、といえば、確かに関係ない。だが、見過ごせるわけがない。
今回の赤ちゃんの件が終わったら、あの扉を塞いでしまうことはできないんだろうか、と思う。そうしなければ、折角赤ちゃんを取り返しても、別の子が被害に遭うだけだ。
今、もとの世界は朝だ。行くのは向こうが深夜になってからなので、一通り話し合いが終わった後は、どうしても時間が空いてしまう。
「伊織、金あるか」
「前に来た時に貰ったバイト代がこれだけあります」
「お前みたいな立場の奴がこれだけ稼げるってのは、本当は問題なんだがな。まあ今それを言ってもしょうがねえ。明日は昼間、時間があるし、姫に東京案内でもしてやれよ。赤ん坊のことがあるから気分的にあれだろうけどな」
勝巳さんは立ち上がり、伊織を見下ろした。
「もう十一時半になっちまった。大丈夫か具合」
「ええ、まあ……。あの、今日なんですが、もう遅いので、この家で休ませてもらいたいんですが」
「えー」
勝巳さんは渋い顔をして腕を組み、私を見た。
「姫もか? 嫌じゃねえか、こんなおっさんの家に泊まるの。風呂とかさ」
そこで勝巳さんはにやりと笑って伊織に手招きをした。
伊織にスマホの画面を見せる。伊織は怪訝そうな顔をした。
「なんですかここ」
「まあ聞け。いくらなんでも彼女と転移してきて俺んちに居候はねえだろ。今から二人で泊まれるところは……」
話しながら、部屋を出て台所に向かい、磨りガラスで出来た引き戸を閉じる。なにかぼそぼそと話している。
背の高い二人が身を寄せ合っている姿がガラス越しにぼんやりと見える。
「あの」
まだ話は続いていたようだが、私は戸を開けた。二人が驚いたように私を見る。今から移動なんて大変だ。私は少し改まった口調で言った。
「勝巳さん、すみませんがここに泊めて下さい。私への気遣いはいりません。急にここを出てどこかに行くのは伊織も疲れちゃうでしょうし、それに、お金を無駄に出来ないんです」
そうだ。お金は無限じゃない。これから出費も増えるだろうし、当面私が働けないのだから、無駄遣いをしてはいけない。私は伊織を見据えた。
「ね。伊織、やっぱりここにいさせてもらおうよ。ゆっくり休まなきゃ。ね」
「…………うん」
私は勝巳さんに頭を下げた。勝巳さんは渋々、といった感じで頷く。そしてまた戸を閉める。
向こうから、「うん、じゃねえだろ。ここは押せや、このヘタレ」という勝巳さんの声が聞こえた。
申し訳ないことをしてしまった。勝巳さんのベッドを私が占領して、伊織と勝巳さんは台所で寝ることになってしまったのだ。
台所は狭い。小さなテーブルと椅子を隅にどかし、床に無理矢理寝具を敷いていた。
着の身着のままで逃げ出してきたので、寝間着なんてない。伊織が居候していた時に着ていたという白い長袖のシャツを借りたが、肩幅も袖丈も面白いくらいぶかぶかだ。それがおかしかったのか、伊織は私を見て暫く固まった後目を逸らし、顔を真っ赤にして俯いた。
室内にはオレンジ色の僅かな明かりだけが灯された。
台所の方を見る。テーブルのあたりに白い明かりが灯されている。ぱちぱちと小さな音が聞こえる。勝巳さんが『パソコン』という本型の機械で何か作業をしているようだ。
窓の外からトラックのものらしい音が聞こえた。この世界は、こんな時間まで起きているんだ。
「今日は疲れただろ。おやすみ」
伊織は微笑んで台所の戸に手を掛けた。
彼のシャツの裾を掴む。
戸に掛けられた彼の手が離れる。
私の方に振り向く。
オレンジ色に沈む暗い光の中で、彼の大きな目が濡れたように潤んで揺れている。
「あの……ごめんなさい。いっぱい、いっぱい、今までずっと、今も……」
私に向けられた瞳があまりに真っ直ぐだったので、思わず俯いた。シャツから手を離し、彼の腕に触れる。
ごめんなさい。我儘で、自分勝手で、苦労ばかりかけて。
ありがとう。私と一緒にいてくれて。
明日は頑張る。絶対、役に立つ。
どう言おう。私の言葉で、却って彼が気を遣うようでは困る。今、私は、何を一番伝えたくて彼を引き留めたのだろう。
伊織の大きな手が、ぽん、と頭に置かれた。その手が離れ、指先が頬を伝う。
彼は台所の方を見た後、少しかがみ、私の耳に唇を寄せ、囁いた。
「凛子が謝ることは、なにもない。いいんだよ」
吐息のような囁きが
「子供の頃から、凛子だけが俺の居場所だった。いつくらいからかな、一緒にいるとたまらなく苦しくて切なくなってくるのに、その苦しみのためなら、なんだって出来ると思うようになった」
長い両腕が、私の体を包む。
「そして凛子が『翡翠』で、貰われて行くって分かった時、思ったんだ。だからいいんだよ」
両腕に力が入る。
「凛子の血を、命を守るために、俺は自分の全てを捧げたい、って」
囁きに火照る耳朶を、彼の唇がそっと噛む。
おやすみ、と言って、彼は戸を開けた。
磨りガラスの向こうの灯りが消える。
私は暫く、その場に立ち尽くしていた。
肩を抱く。
彼のシャツの感触が、私の肌を柔らかく包み込む。
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