4.好きだから
深い泥沼のような眠りから目が覚めた。
頭がぼんやりとする。圧迫される。なんだろう、天井や壁が迫ってくるような感じがする。
ああ、そうか。ここは、お屋敷じゃないんだ。
青色のカーテンの隙間から、朝の強い光が射し込んでいる。ベッドの向かい側にある本棚が、朝日に浮かび上がる。
磨りガラスの引き戸の向こうから、人の話し声が聞こえる。あの二人は既に起きているようだ。急いで着替えて台所へ向かう。
「おはよう凛子姫。よく眠れた? 布団、俺臭くなかった?」
紺色の背広を着て椅子に座っている勝巳さんが、威勢よく言った。
伊織はカップに香ばしい香りの飲み物を注いでいる。顔を上げ、私に微笑みかけた。
いつもの柔らかな微笑み。けれどもフードのついた上着と厚手の青い綿のズボンという姿は、なんとなく違和感がある。
勝巳さんは、伊織の淹れた飲み物を口にして顔をほころばせた。
「やっぱり伊織君の淹れるコーヒーは最高だな。あ、さっきの紗良との話だけどよ、何かあったら携帯に連絡入れさせてもらうことにしたから、たまに店に寄ってくれ。あとな、紗良が姫に自分の古着をあげるってさ。でも伊織が鼻血出して貧血を悪化させないように、短いスカートはやめろって言っておいたか」
「勝巳さん! お俺はっ」
最後の方の鼻血云々は何を言っているのか分からなかったが、嬉しい。服が結構だめになってしまい、どうしようと思っていたんだ。
紗良さん、初めはぐいぐい押してくる感じに少し困惑したけれど、親切で、優しい人だ。
「私、勝巳さんは勿論ですけど、紗良さんにも色々親切にして頂いて」
「ああ、あいつな、困っている人を見るとすぐに世話を焼きたがるんだ。昔からちっとも変わってねえや」
勝巳さんは微笑んだ。
「昔のダサいイメージがあったから、再会した時は正直あの格好にびびったけどよ、人間、根っこの所って案外変わんねえよな」
カップを置く。言葉を切り、淡い湯気の立ち昇るカップを見つめている。
いや、違う。カップではない何かが、きっと視線の先にあるのだ。
昨日の紗良さんの言葉を思い出す。紗良さんも、似たようなことを言っていた。
勝巳さんと紗良さんは友達だ。だけど。
お似合いだな、と思う。
「じゃあ、もし異世界絡みだったら頼む。こっちも色々話をつけとくから」
勝巳さんは玄関で振り返り、改まった声でそう言って私達を見つめた。
「折角逃げてきたのに本当に申し訳ない。無理はするなよ。でも」
深く深く頭を下げる。
「どうか、どうか、お願いします」
頭を下げたまま、暫くそのまま動かなかった。
勝巳さんが出ていった後、伊織は寝室に戻り、壁に掛けられた時計のようなものを見た。
「ここの世界の時間は、ああやって単純に数字で表すんだ。今が午前七時三十分。紗良さんの店が開くのが午前十時。さ、それまでに朝食を摂って、掃除と洗濯を済ませようか」
気分を切り替えるようにそう言うと、伊織はベッドのシーツ類を剥がし、風呂場にある白い箱に放り込んだ。
箱についたボタンを押すと、中から水の音がする。これがこの世界の洗濯機械で、あとは勝手に洗って絞ってくれるそうだ。
「便利だね。これなら私でも出来そう」
低く呻り始めた洗濯機から伊織に視線を移す。
微笑み合う。
そうだ、出来そう、ではなくて、出来なくてはいけないんだ。赤ちゃんの件が解決したら、私達は一緒にこの世界で生きていくのだから。
一緒に、生きていく。
急に、今更な事実が私の胸に押し寄せる。
伊織と一緒に。知らない世界で。
友達としてではなく。
「近くの店に朝食を買いに行こうか。乳製品が使われているパンが結構あるけど、そんなに臭くは」
伊織は言葉を切り、私を見た。かがんで私を少し見上げ、両肩に触れる。
大きな手に肩を包まれる。彼の瞳が私の心の奥の奥を覗き込んでいるようで、恥ずかしくなって目を逸らす。
「凛子?」
伊織の穏やかな声が胸に滲み、心を乱す。
いやだ。この手から離れたい。
あなたが好きだから、この手で触れられるのが怖い。
急にどうしたんだろう。昨日、あの扉の前で感じたのとは違う「怖さ」が、大好きな彼を拒絶する。
この世界に来てしばらくは、ここの異質さに目を奪われ、どこか旅行にでも来たような感覚だった。それがささやかで生々しい日常生活に触れ、突如、事実がくっきりと鮮やかな色彩を伴って迫って来たのだ。
「ねえ、伊織」
我ながらばかだと思う。言わなきゃいいのに。今、私は何を言おうとしているんだろう。
「赤ちゃんの事が終わったら、私達、一緒にこの世界で生きていくんでしょ」
「うん」
「育った所と全然違う世界で、こういう小さいお部屋を見つけて、こんな風に洗濯したりして、伊織とずっと一緒に生活するんだよね」
「そうだね。いや、ここはそんなに小さくないよ。むしろ」
「ねえ」
私は何を言っているんだろう。
鼓動が速くなる。
なんで。なんなの私は。どうして指先が冷たくなるの。どうしてこんなに頬が火照るの。
怪訝そうな顔をして私を見上げる伊織に向かって口を開く。
「私達は、友達じゃないんだよね」
彼は黙って頷いた。その仕草を見て、胸が震える。
伊織を見られない。俯き、木の床の継ぎ目を見る。
彼の細く長い指が私の頬を滑った。その感触の心地良さに
頬を滑る指先が戸惑うように宙に浮き、離れてゆく。
「どうした。この世界で生活するのが不安になった?」
首を横に振る。
勿論不安はあるけれど、今、私の心にある「怖さ」は、きっとそれだけじゃない。
「そうか」
小さい頃から、自分は吸血族の『食料』だと思っていた。どこかのお屋敷に住み込んで使用人をしながら、主人に血を飲ませるために生きるのだと。
『翡翠』だと分かり、怜様に貰われてからは、怜様の不老不病のために生きているのだと思っていた。
かつて農場を逃げ出した時は、糧を得る方法くらいしか考えていなかった気がする。
愛する人とずっと一緒に生きていく。
私の人生に、そんな選択肢があるとは思っていなかった。
「じゃあ、一体」
伊織を見る。白い髪は見慣れた。女の子みたいな目鼻立ちは昔からだ。でも。
低い声、喉仏、広い肩、胸から腰にかけての硬い線、少し骨ばった大きな手。
彼は、友達じゃない。
「……伊織が、こわいの」
彼は。
「大好きなひとだから、一緒に生きたいから、だから、こわい……」
何を言っているのだろう私は。絶対離れたくないと思っているし、ずっと一緒にいたいと思っているのに。自分がどうしたいのか、何が言いたいのか、心では分かっているが言葉にまとまらない。
伊織は軽く溜息をつき、私の両頬を、ぷに、とつまんだ。
視線を合わせる。ふわりと笑いかける。
「大丈夫。俺はこわくないよ」
こっくりとした柔らかな声で囁く。頭に手を置き、そっと撫でる。
「これから長いんだ。だから、ゆっくり、ゆっくり、一緒になろう」
ひととおりの用事が終わり、紗良さんのお店が開く時間も近づいてきたので、私達は勝巳さんの家を後にした。
そういえば、私達はこれからどこで生活すればいいんだろう。こういう部屋って、すぐに見つかって住めるものなのだろうか。それとも暫くはこの部屋にお世話になるのだろうか。
勝巳さんの部屋のある集合住宅は二階建てで、周辺にある民家とさほど高さが変わらない。庭はないが、歩道に面した部分に乙女椿の木が何本か植えられている。
綺麗に刈り込まれた木には、淡いピンク色の花が行儀よく咲いていた。ちいさな花弁をみっしりと重ね、微笑むように咲くそのさまは、無邪気で心が和む。
「椿、可愛いね。お屋敷の花園にあった紅い椿も綺麗だったけど」
言った後で気になった。お屋敷の話、しないほうがよかっただろうか。嫌な気分になっただろうか。伊織の横顔を伺う。
彼は椿を眺めながら、口元に笑みを湛えていた。
「俺、今まで花の精油の効能には興味があったけど、花そのものにはあまり興味がなかったんだ。でも」
視線を私に移す。
「椿の花は好きだ。あの花園に入った日から、紅い椿は俺にとって特別な花になったから」
私達のそばを自転車が通り過ぎた。伊織が言葉を続ける。
「あの日、あの花園で、凛子と見た椿の花と、俺を好きだと言ってくれた凛子の言葉は、一生忘れない」
はにかみ、頬を
ああ、もう。
この人は、どうしてこんなに透き通っているのだろう。
いとおしくて、おかしくなりそうだ。
彼が躊躇いがちに左手を差し出した。その手の中に自分の手を滑り込ませる。
大きな手が、あたたかく包み込む。
微笑み合う。
彼の左側に、そっと体を寄せる。
賑やかな商店の並ぶ通りを抜け、駅に向かう。
神様。
どうか、赤ちゃんを無事に取り返せますように。
そしてこの世界で、伊織とずっと一緒に生きて行けますように。
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