5.二人で街に
新宿の駅に降り立つ。電車の中も駅の中も音と人で溢れている。押し出されるように改札を抜け、地下通路を歩く。
通路の壁には、極彩色の絵や写真が掲げられている。店や映画などの宣伝だそうだ。暫く歩くと、紗良さんが勤めている店がある一角に到着した。
昨日と違い、店の周りにはあまり人がいなかった。それでもそれぞれの店から流れる音楽や人の声で賑やかだ。
「あ、おはよう」
店の奥で帳面を繰っていた紗良さんは、私達の姿を認めると笑顔で手招きした。
華やかな色彩の服の間を
「今の時間、私しかいないし、お客様もそんなにいらっしゃらないから大丈夫だよ。ところであなた達、昨日、勝巳君の家に泊まったんだって?」
私達が頷くと、紗良さんは腰に手を当てて大きな溜息をついた。
「何それ。二人きりでゆっくりすればよかったのに。伊織君、お金持ってるでしょ。まあいいや、それよりこれ」
紗良さんが差し出した手帳型のスマホを、伊織が覗き込んだ。
「電話しろ、か」
「込み入った話なら、ここよりあっちの方が落ち着いて出来るよ」
伊織は一度強く目を
伊織が店を出ると、紗良さんは黒い大きな紙袋を取り出した。
「勝巳君に聞いたと思うけど、これ凛子ちゃんにあげる。あとこれ下着の上、下、タイツ。こっちは新品だから、あとで伊織君に請求するよ。はいじゃあそこの試着室で着て」
袋の中の物を次々と手渡され、お礼を言う間もなく小部屋に押し込まれた。
そこは人一人がやっと入れるくらいの広さで、正面に巨大な鏡が取り付けてある。
外で紗良さんが客らしき人と話しているのが聞こえる。取り敢えず手渡されたものを全部身につけてみる。
服は白いふわふわしたセーターだけで、膝の上くらいまでの丈があった。そして持ち上げても持ち上げても肩が出てしまう。袖丈も掌が半分隠れるくらい長い。
これ、伸びているんだろうか。
「あ、超かわいい。似合ってるよ」
客との会話が終わった後、小部屋の中を覗いて紗良さんが笑顔を見せた。
「これ、下にどんなスカートを穿くんでしょう。あと、ちょっと、伸びていて……」
「やだもう、こういうデザインのワンピースなの。あと髪。なんか古井戸から這い出してきそうな感じだから、纏めようか」
私の髪の毛を手際よく纏めながら、紗良さんは色々な事を話してくれた。その中で伊織の体調不良の話もあった。
「専門家じゃないから断定はできないけど、伊織君の貧血はビタミンB12不足が原因の一つじゃないかな。不足する原因は色々あるらしいけど、食事が極端に偏っていてもなることがあるみたい」
「びたナントカって、初めて聞きました。私は今まで病気をしたことないですし、いつも元気なんですけどね」
私の背後に立つ鏡越しの彼女は、そこで手を止めた。
「今ちょっと思いついたんだけどさ、『翡翠』の血って、吸血鬼の老化を止めて病気にさせないんでしょ」
頷く。吸血『鬼』という言い方に、改めて、吸血族は『現実にいないもの』と認識されているのだな、と思う。
「それ聞いた時、私、どこのおとぎ話だよって思ったの。でも、そうじゃないのかもなって。もしかしたら、凛子ちゃん達の世界がビタミンB12を知らないように、私達の世界も、『翡翠』の特殊な成分だか体質だかを知らないだけなのかもね」
再び手を動かす。髪が纏まり、最後にリボン型の髪飾りを留めた。
「で、それは魔法とかじゃなくて、科学的根拠のあるものなんだと思う。凛子ちゃん、吸血鬼に毎日血を吸われていたんでしょ。なのに元気なのは、それの影響もあるのかな」
伊織が戻ってきた。紗良さんは私の肩をぽんと叩くと、鏡越しに笑顔を見せた。
「ま、その辺はただの推測だけどさ、とにかく私達はみんな同じ人間なんだよ。だからカノジョが可愛くなったら、どきどきするのもきっと同じ。さあ伊織君、凛子ちゃんを見て、どんなリアクションを取るかなっ」
伊織は私を少し見て、紗良さんにスマホを返した。僅かに眉間を寄せ、難しい顔をしている。そういえば、電話に随分時間がかかっていた。
ああ、やっぱり、そうだったんだ。
「院長先生、だったの?」
伊織は私に向かって頷き、俯いた。
「赤ちゃんの母親が接した『病院関係者』の中に、実際には病院にいない、院長先生とそっくりな外見の人がいたんだ。病院を出入りする人の様子を記録する映像の中にも、その人は映っていたらしい。赤ちゃんの父親が、警察とか役人とかに批判的な人らしくて、『身代金目的なら払うから放っておいてくれ』って言って、なかなか協力しないらしいんだけど」
「産まれたての子は弱いんだから、そんなこと言っていられないのに。でも、こっちこそそんなこと言っていられないか。分かった。じゃあ農場へ行こう。午後四時、だっけ、の少し前にあのビルへ行けば、丑三つ刻の授乳時間前に着くんだよね」
店の前で私達が話していると、紗良さんが間に入って来た。困ったような顔をして、両掌を顔の前で合わせている。
「えっと、あなたたち、丑三つ刻とか言ってるとこごめん、そろそろ別のスタッフが来るから、もう、いいかな」
そうだ、自分達の事で目の前がいっぱいになっていた。伊織と一緒にお詫びを言い、あのビルに行く前にもう一度ここに立ち寄ると伝えた。
店を出ようとした時、紗良さんに背後から声を掛けられた。
振り向く。彼女は視線を逸らし、少しの間目を泳がせた後、真剣な眼差しで伊織を見つめた。
「ねえ、私、大したことしてないけど、でも」
金銀や模様で彩られた爪を弄ぶ。一瞬言葉に詰まる。
「私、まさ……け、警察の役に立ってるかな」
紗良さんの言葉に、伊織は首を傾げた。
「さあ……。俺達は個人的に動いているだけで、別に警察は関係ないというか」
そこまで言って彼は言葉を呑み込んだ。
口元に微笑みを湛え、紗良さんを見つめる。
そして穏やかな声で、沁み込ませるように言った。
「警察は関係ないです。でも、紗良さんが連絡の中継をしてくれたから、俺達は勿論勝巳さんも助かっていますし、感謝しています」
伊織の言葉に、紗良さんはふんわりと目を細めた。
ふっと声を出して微笑み、俯く。
髪を指に絡ませる。
「そう、か。少しは、役に立てたかな。なら、いいんだ」
微笑み、俯いたまま頬を染める。
その姿を見て、ふと、今朝勝巳さんの家の前で見た、乙女椿の花を思い出した。
店内に人が入って来た。私達は礼を言い、店を後にした。
午後四時まで時間がある。私達は地上に出て大きな通りを歩いた。
朝は結構冷え込んでいたが、今は時季の割に暖かい。通りを歩く人の中には外套を着ていない人も結構いるので、私も外套を脱いでみた。
紗良さんから貰った服は、見た目の軽やかさからは想像もつかないくらいに暖かい。だが当然、肩や首は寒い。それでも我慢して外套を手に持ち、隣を歩く伊織を見上げる。
何か目的があって歩いているのか、伊織は前を真っ直ぐ向いたまま、黙々と歩いている。表情からは何も読み取れない。店を出てからずっとこの調子だ。
周りを見回す。歩道には人が溢れ、皆、器用に人を避けながら歩いている。店からは威勢のいい声や音楽が流れ出し、人々を引き込もうとしている。
車道には大量の車が走っているが、灰色の煙を噴き出して走っている車は殆どない。どの車も早春の太陽をつやつやと反射させながら、静かに走っている。
「この世界は決まりごとが多いんだ。家を決めるのも、長く続ける仕事を探すのも、もとの立場をきちんとさせないといけない。異世界人がなんとなく居座っても、この世界の恩恵を受けるのは難しい」
伊織はいきなり口を開いたかと思うと、そんなことを言い出した。
淡々と、感情を交えず、前を向いて、話し続ける。
隣には伊織がいる。周りには沢山の人がいる。
なのに、急に言いようのない寂しさに襲われた。
「俺が今まで培ってきた技能は、この世界では殆ど役に立たない。でも国に保護してもらえない以上、できるだけ早く体調を戻して」
なんでだろう。伊織は今後の事を真剣に考えてくれている。紗良さんや勝巳さんみたいな知り合いもいる。お屋敷にいた時の方が、よっぽど孤独だった。だから寂しさを感じる理由なんか、どこにもないはずなのに。
私は立ち止まり、伊織の左袖をつまんだ。
彼も歩みを止める。急に止まったせいで、彼の後ろを歩いていた人が軽くぶつかった。
お屋敷にいた時によく見かけた、感情のない端整なだけの顔を私に向ける。
「ねえ伊織、見ている?」
自分でも甘ったれた考えだと思う。ついこの間まで彼の想いも知らず、散々彼の心を踏みにじっていたくせに、我儘だと思う。しかも今は農場への侵入を控えている。
だけど、どうしようもない。
「私のこと、見ていないの?」
身なりを変えたからって、容姿は変わらないと思われてもいい。奇妙な格好と思われても、似合わないと思われてもいい。
どう思われてもいいから、私を見て、心を動かし、そのことを言葉にして伝えてほしいんだ。
「私の格好、変かな。どう」
「見られない」
私の言葉を遮り、伊織は変に通る声で言い放った。その声に、私達を追い抜いていった人が振り向く。
彼はふいと視線を逸らした。もう一度私を見て、また逸らす。
抑揚のない声で言葉を続ける。
「そんな恰好をされると困る。それにそんな
表情を失った顔が、みるみるうちに赤く染まる。
「凛子が可愛すぎて、おかしくなりそうだ……」
そうだった。忘れていた。
伊織は、感情が昂って振り切れると、無表情になるんだった。
そんな事をされたら伊織が困るのは分かっていたが、つい吹き出してしまった。
ばかだなあ私。何を寂しがっていたんだろう。彼がこんなに、すぐそばにいるというのに。
視線を泳がせ、顔を赤くして立ち尽くす伊織の腕を取り、自分の腕を絡ませてみる。
彼は「おゎ」みたいな変な声を出し、私を見た。私は彼を見上げ、微笑んだ。
真綿のように柔らかであたたかな幸福感が湧き上がる。
肩は冷たくなってしまったが、伊織の腕のぬくもりが、ふつふつと心の奥に滲み込んでくる。
ああ、大好きだ、と思う。
「ところでこれから、どこに連れて行ってくれるの?」
「え」
「さっきからずっとこの道を真っ直ぐ歩いているでしょ。もう結構歩いているけど、何があるのかなあ」
やだやだ私。何この甘えた声。でも出ちゃうんだから仕方がない。だって大好きなんだもの。
「えーと……」
「楽しみぃ。午後四時までは、まだあるもんね」
「……ごめん」
いつの間にか伊織の顔から血の気が失せていた。
「凛子に気を取られて、訳分からなくなって、で」
辺りを見回し、棒のように立ち尽くしている。
「どこ歩いているのか、分からなくなった……」
その後、道を訊いたり
けれどもそれすらも楽しかった。伊織と二人で歩けるならば、どこにいようと構わないのだ。
午後四時が近づいてきた。だが、緊張感はあるけれど、怖さは不思議と感じなかった。
私達はきっとうまくやれる。無事に赤ちゃんを連れだして、勝巳さんが話をつけたお母さんに渡して、誘拐問題は終了。
その後扉を壊すか塞ぐかする。向こうの世界との道がなくなる。
そして私達はこの世界で一緒に苦労して、ずっと一緒に幸せになる。
そうなるに決まっている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます