6.指輪の約束
道に迷った後、私達はなんとか新宿駅前まで戻った。
その後、色々な場所へ行った。時間が限られていたので、新宿駅周辺を歩き回っただけなのだが、農場とお屋敷しか知らなかった私は、果てしなく広がる世界と膨大な量の刺激に圧倒されっぱなしだった。
「本当はやらなきゃいけないことは沢山あるんだ。だけど今くらいは、この世界を楽しんでみよう」
そう言って私の手を取り、案内してくれる伊織の姿に、私は新鮮な驚きを感じた。
私達はこれから再び向こうの世界に戻り、赤ちゃんを取り返さなければならない。その不安感を和らげるために敢えてそうしているのかな、とも思ったのだが、それだけではなさそうだ。
遊興施設のけたたましい音に驚く私を見て笑う。そこのゲームであっさり負け、大きな身振りで残念がる。巨大なビルを見上げて感嘆する。
くるくると表情を変え、声を上げて笑う伊織。いつもの、どこか儚げな影を纏った笑い方とは全然違う。
この人、こんなに明るい人だったんだ。
ああ、彼の住むべき世界は、ここだったんだ、と思う。
ならば、私の住むべき世界もここだ。
だって私の居場所は、彼の腕の中なのだもの。
そろそろ残り時間が少なくなってきたころ、百貨店に入ってみた。
入ってすぐの所に宝飾品売り場があり、指輪やネックレスなどが行儀よくケースに納まっている。
伊織によると、別の階には高額な宝飾品ばかりを揃えた場所があるらしいが、怖くて行った事がないそうだ。あれだけの経験をした伊織が怖がる場所って、どれほど恐ろしい場所なのだろう。
宝飾品には特に興味がないので、通り過ぎながらなんとなく見る。すると少し気になる一角があった。そこは様々な指輪が並べられているだけなのに、どことなく特別な雰囲気を醸し出しているのだ。
「ああ、これ、この世界の風習みたいだよ」
ここはなんなのだという私の質問に、伊織はケースを覗き込みながら言った。
「結婚する時にこういう指輪を贈り合うらしいんだ。あれっ、結婚が決まった時だっけ、そのあたりは分からないけど」
成程、ケースの中をよく見てみると、大小揃いの指輪がいくつかある。これを結婚の証として交換するのだろうか。
素敵な風習だなあと思いながら顔を上げると、店員と目が合った。
仕着せらしい黒い上着を着た店員は、私と伊織を見て微笑んだ。
「いらっしゃいませ。いかがでしょうか、何か気になるものがございましたらお出しいたします」
しまった、買いに来たと思われてしまったらしい。私達は店員に向かって曖昧な笑みを浮かべながら、そそくさと売り場を離れた。
私は宝飾品に興味がない。それなのに。
何故か、白い光を受けて煌めく揃いの指輪の映像が、頭の中から離れない。
この世界で、伊織と一緒に苦労して、ずっと一緒に幸せになりたい、と思う。
だが、そのことと『結婚』の二文字は結びついていなかったのだ。
だって、私の人生の中で、考える必要がなかったから。
伊織は、どう思っているんだろう。
宝飾品売り場を抜け、百貨店の中をあてもなく歩きながら、彼の横顔を見上げる。私の視線に気づいたのか、彼は私の方を向き微笑んだ。
聞きたい。だけど、どう聞いたらいいんだろう。
「さっきの指輪なんだけどね」
考えがまとまる前に、うっかり声の方が先に出てしまった。
どうしよう、続きはなんて言えばいいんだろう。ああもう、私、何やっているんだろう。
「あれについて、どう思う?」
あああ、ざっくりし過ぎにも程がある。何が聞きたくてどう答えてほしいのかまるで分からない質問だ。もうやだ、なんで私ってこうなんだ。
案の定、伊織は私の質問の意図が掴みきれなかったのか、少し眉を
色とりどりの鞄が並べられた一角で、人の波から切り取られたように動かない。
「……今じゃない、と思っている」
彼は私の方を向き、口を開いた。
また少し沈黙し、ひとつひとつ、丁寧に言葉を選ぶように続ける。
「俺は凛子とずっと一緒にいたい。だから赤ちゃんの件が終わったら、どこかに部屋を借りて二人で生活できればと思っている。だけど」
軽い溜息が漏れる。
「言うのは簡単だけど、実際には大変だと思う。さっきも言ったけれど、この世界や国に馴染んで生きるには、面倒なことを色々乗り越えていかないといけない。当分は、生き続けるための苦労でいっぱいになると思う」
それはそうだ。好きな人と一緒に暮らす、なんていうと、なんだか甘く楽しいもののようだけれど、全く知らない世界で生きていくのは、そう生易しいものではないだろう。
「だから」
彼の言葉に力が入る。
「これから先、生活が落ち着いたら」
話をしながら、伊織は無意識にか自分の左手の指のつけ根をつまんだ。
「部屋を借りて、長く続けられる仕事を見つけて、この世界で安定して暮らせるようになったら」
言葉が途切れる。
鳶色の澄んだ大きな目が私を見つめる。
店内のざわめきが遠ざかる。
そして伊織は私の左手を取り、柔らかく微笑んだ。
「その時、ここに指輪を買いにこよう」
耳の奥に、伊織の言葉が響く。
その意味を、何度も何度も咀嚼する。
胸の中に、熱い想いと、柔らかい想いが満ちる。
それなのに、私はすぐに彼の言葉を受け入れ、理解することが出来なかった。
その言葉に対し、自分がどう思ったのか分からなかった。
単純に喜ぶことも、困惑することすらも出来なかったのだ。
だが、答えるべき言葉は知っていた。
だってほかにどんな答えがあるというのだ。
私は伊織を見つめ、少し
「はい」
とても幸せな瞬間のはずなのに。
心の中で、何かがちいさく引っかかっている。
その原因は、その後すぐに分かった。
午後四時少し前。紗良さんの店に行って勝巳さんと電話をした後、私達はあの古いビルの前に立った。
このあたりは有名な繁華街らしく、大小様々なビルがひしめき合い、毒々しい色彩の看板が光り輝きながら存在を訴えている。
だが目的のビルは、光ることなく、ろくに看板も纏わず、まるでそれ自体が異世界のように暗く沈んでいる。かなり古そうだし、そのうち取り壊されるかもしれない。
「もしこのビルがなくなったら、私達の前の世界とここを繋ぐ道はなくなるのかなあ」
ビルの中に入ると、外よりもひんやりとする。仕方なく外套を羽織る。
「どうかな。多分向こうの世界と繋がる道は、他にもあると思う」
「えー、じゃあ、ここがなくなっても誘拐は続くってこと?」
「秦家が把握している道がここだけなら、誘拐はなくなるんじゃないかな。でも、このビル、古そうだけど、出来たのはせいぜい数十年前だろ。それ以前は向こうとこっちの世界が完全に分断されていた、とは、ちょっと思えないなあって。まあ俺の想像だけど」
薄暗く埃の臭いのする階段を昇る。二人の靴音が壁に響く。
「言葉とか、文化とか、共通するものが多いっていうのもあるし、こっちの世界に残っている『吸血鬼伝説』には、吸血族の伝説と似た話が結構あるんだ。『吸血鬼』は不老不死で墓場を彷徨っていて、生き物じゃないのに人間の血を吸うらしいんだけど、それは吸血族の『夜、孤独な新しい死体に悪霊が取り憑くと、不死身の鬼となって夜な夜な墓場を彷徨い歩くことになる』という伝説と、翡翠の命と引き換えに不老不病になれるというものが混ざっているような気がする」
「生き物じゃないのになんで血を吸うの? 死なないって事は、
「いやそもそも生き物じゃないから、血が溜まったり病気にならないんじゃないか」
「じゃあ吸った血はどこに行くのよう」
「知らないよ怪物の設定なんだから」
どうも納得がいかないが、話がずれてしまった事に気づき、口を閉じた。伊織は軽く溜息をついたあと、話を続けた。
「まあ、他の道については想像でしかない。今、問題にしないといけないのは、ここの道だ。ここを秦家の手から奪いたい。誘拐も問題だし、この世界に吸血族を存在させたくない」
そうだ。この世界にはどういうわけか今のところ『吸血鬼』という伝説しかないようだが、この道が存在する以上、いずれ吸血族がこの世界に棲みつくかもしれない。
そしてこの世界が、『翡翠』の血の成分を解明してしまったら……。
この道は、塞がなければならない。
向こうの物置を壊すか、このビルの扉を塞ぐか。方法は思いつかないけれど、このビルが取り壊されるのを呑気に待っていてはいけないと思う。
だが、まずは赤ちゃんだ。
あの扉のある部屋の前に立つ。
古びた扉を開け、部屋の中に入る。相変わらずがらんとしていて何もなく、埃だけが積もっている。
私達が赤ちゃんを取り返した後、部屋の外で待機している勝巳さんに引き渡すことになっている。もしかしたら赤ちゃんのお母さんを連れて来られるかもしれないそうだ。
鼓動が激しくなる。緊張している。だがきっと大丈夫だと思い、伊織に声を掛けた。
「調乳のために授乳の半刻前くらいから先生達は起き出していたよね。時間、結構ぎりぎりだね。じゃあ、行こう」
だが私の言葉に、伊織は返事をしなかった。
鍵を手に、俯いている。
「伊織?」
彼は顔を上げ、ゆっくりと首を横に振った。
「駄目だ。凛子を、農場へは連れていかない」
今更、何を言っているのだ。私は反論したが、伊織は「勝巳さんと待機していてくれ」の一点張りだった。
どうして分かってくれないんだろう。別に興味本位で向こうに行きたいと言っているわけではないのに。
いや、伊織だって実は分かっているのかもしれない。昨日の夜、勝巳さんも交えて散々意見を交わしたんだもの。
「もしも、もしも凛子の身に何かあったら。俺が助けきれなくて、お屋敷に連れ戻されたら。あの時みたいに、俺の目の前から……」
それは、私だって不安だ。
もし私のせいで、伊織が捕まってしまったら。
『掬い上げ』から脱走し、『翡翠』と一緒に、赤ちゃんを秦家の農場から攫った罪。
死罪のないあの国で、彼はどんな地獄に突き落とされるだろう。
でも、赤ちゃんの扱いが下手な伊織一人で、取り返せるかというとかなりあやしい。それに昨夜の話し合いで、一人で行くより見張りと実行係の二人で行った方がいいということになったのだ。
悲しい。今ここに来て、私だけを安全圏に置いていこうとする伊織の気持ちが悲しい。
私は涙を見せる代わりに声を荒らげた。
「私に」
外の音楽に負けないくらい声を張り上げる。
「指輪を買ってくれるんじゃないの!?」
ああ、もう。
なんでこんな言い方をしてしまうんだろう。
案の定、伊織はきょとんとした顔をして私を見ている。
もう、いいんだ。どうせ私は嫌な奴なんだ。こんな形でしか、想いを伝えられないような奴なんだ。
「私一人、安全な所でぼーっと待っていて、伊織一人酷い目に遭ったらやだもん。私は『一緒に幸せに』なりたいの。だから伊織にもしものことがあっちゃいけないの。伊織が幸せじゃなくちゃ駄目なの!」
言いながら自分で呆れかえる。なんて我儘で自分勝手な言い方だ。こんな事じゃ、私の想いが分かってもらえないかもしれない。
「それに、指輪って交換するものなんでしょ。私、指輪を買って貰いたいだけじゃないの。私だって」
赤ちゃんの事にしろ、これからの生活の事にしろ、伊織は私を守ることしか考えていない。でも、私だって苦労したいんだ。だから。
「伊織に、あの指輪を買いたいのっ!」
その言葉が口から零れた時、気付いた。
さっき、伊織に「指輪を買いにこよう」と言われた時の違和感の原因が。
直接そうは言っていなかったが、あの時の伊織の口ぶりは、「伊織が私に指輪を買う」という感じだった。でも、あの指輪は交換し、結婚の証とするものなのではないか。
現実的な問題として、私に仕事が出来るかは分からない。結局伊織の稼いだお金で、ということになるかもしれないが、一緒に生活をするのなら、やりくりをするくらいのことはしたい。
それに今私が思っているのは、そういう問題ではない。
苦労を背負わせ、愛情を受け取るだけでいたくない。
苦労も、愛情も、交わし合いたいんだ。
仮に地獄に堕ちなければならないのなら、彼の手を取り、私も一緒に堕ちたいんだ。
伊織は暫く黙っていたが、やがてゆったりと微笑み、口を開いた。
「ごめん。ありがとう」
手を差し伸べる。
その手を取る。
「行こう」
扉を開ける。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます