翡翠に捧ぐ

玖珂李奈

プロローグ【伊織・二十二歳】

【序】この苦しみのためならば

 この苦しみのためならば、俺は何にでも耐えられる。




 小さなトラックが、土埃を舞い上げながら夕暮れの貧民窟を走る。


 軒先に出しっぱなしの洗濯物が、土埃を吸い込んではためいている。路上に椅子を出して座っていた老人が、トラックに向かって唾を吐く。

 荷台に取り付けられた鉄檻の中には、服に墨で大きく名前を書かれた囚人達がこれでもかと詰め込まれている。トラックが揺れる度に囚人達の体温と体臭が波打ち、鉄格子に体を押しつけられる。

 これだけ載せてよく横転しないよな、と、詰め込まれる度に思う。


「おい伊織いおり、てめえなんで捕まった」


 隣の汗臭い太った男が、俺の胸元に書かれた名前を見ながら話しかけてきた。俺が答えようとした時、道端で遊んでいたガキが泥団子を投げつけてきた。

 泥団子が左頬を直撃する。はなを垂らしたガキが、偉そうに紅い瞳に光を込めて睨んできた。俺は睨み返そうとしたが、やめた。光らないとび色の瞳と、女みたいなこの面構えで睨んだところで、ガキは何とも思わないだろう。

 吸血族のガキにとって、人間の俺なんかただのメシだ。


「ええと、ああ、罪状? 住居侵入と窃盗」

「うわ、だっせえ」


 男は明らかに見下したように鼻を鳴らし、俺の顔を見た。

 

「下らねえことしちまったな。悪いことなんか何も知りません、みてえな可愛いツラしてんのによ。なあ、てめえ、幾つだ」

「二十二」


 俺の言葉に、男は少し目を細めた。

 たるんだ頬を緩め、ヤニで茶色くなった歯を剥き出して口角を吊り上げる。


「……へえ」


 男の視線が、俺の全身をぬるぬると這いずり回る。

 俺は男の汚い顔から目を逸らし、外を見た。トラックが右折する。もうそろそろ刑務所に着く頃だ。


 ここに来るのは三度目だ。だが、今回はいつもとは違う。だから今後この太った男と関わる事はない。

 俺は二度の脱獄歴があるし、『住居侵入』の場所が場所だ。到着したら地下独房に押し込められるのが確定している。

 地下独房組にちょっかいを出す勇気のある奴なんか、まずいない。




 看守が俺の足枷を独房の鎖に繋ぎ、鉄格子を閉めた。

 横になるのがやっとの広さの独房には、便器とむしろだけがぽつんと置かれている。これ一枚で、冬の夜を越えろというわけか。俺は溜息をついて筵を体に巻き、壁を背に座った。


「消灯」


 看守の一声で、地下は完全な闇に包まれた。


 頭上から、雑居房のものらしき音が聞こえて来る。向かいの房の奴が、言葉にならない呻き声を発する。埃と湿気と体臭の混じった空気はやがて、冷気という名の凶器に変貌する。

 鋭い冷気が寒さを越えた痺れとなって臓腑に滲み込む。歯の根が合わず、膝を抱く手は痺れに強張る。


 やがて、頭上が騒がしくなった。野太い笑い声と怒号の合間から、引き裂くような絶叫が響く。

 ああ、恒例の新入り叩きが始まったな、と思う。

 あの太った男も、餌食になっているかもしれない。俺は耳を塞ぎ、更に小さく丸まった。


 ふ、と零れそうになる涙を、目を見開いてこらえる。

 今年が最後のチャンスだ。来月にある『掬い上げ』で選ばれれば一番穏便にここから出られるのだが、俺が選ばれることはまずないだろう。であれば、『掬い上げ』に外れた翌日から、また脱獄の手段を考えなければ。

 時間がない。凛子りんこが二十歳の誕生日を迎える前に、なんとしてでもあの家から彼女を救い出さなければならない。


 無垢な黒い瞳を俺に向けて笑う、凛子の姿を思い浮かべる。

 潰れかけた心の中に、ひたひたと温かな苦しみが満ちてくる。


 いおり、だいすき、と言いながら、上目遣いになって頬を染める、まだ少女と言う名の堅い殻をまとった、十四歳の凛子。

 あれから五年以上経つ。そうだ、凛子はもう十九歳になるのか。


 苦しい。

 凛子のことを想うだけで現実の苦痛が遠ざかり、代わりに熱した蜂蜜のような苦痛が心臓と肺を締め上げる。

 冷気で凍えた唇が、彼女の柔らかな頬の記憶を取り戻して震える。

 締め上げられた肺の奥から、熱を帯びた吐息が漏れる。

 この苦しみの中に溺れたくて、何度も何度も彼女を想う。




 二十歳になると同時に、吸血族は凛子の血と命を吸い尽くす。自らの、不老不病の為に。

 そうだ、ここで心を折っている暇はない。吸血族と、この世界から、凛子を救えるのは俺だけだ。


 耐えてみせる。

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