1.五年前の別れ【凛子・十四歳】

1.『翡翠』の血

 五年前、十四歳だった「あの日」。

 もし彼の言葉の意味に気づいていたら、と、今でも時折考える。




 夕食の少し前のことだった。

 農場――正式には『はた慈善孤児院』だが――の院長先生が、くるぶしまであるスカートを翻しながら私の所へ駆け寄ってきた。そしてぎゅっと私を抱き締めた後、満面の笑みで言った。


「おめでとう、凛子ちゃん! この間の血液検査の結果が出てね、あなたが『翡翠』だって分かったの!」


 その場にいた仲間は、わっと歓声を上げた。


「でね、でね……。さっそくかのう家のご当主が、凛子ちゃんのことを『花嫁』に欲しいって言って下さったのよ!」


 叶家、と聞いて、歓声を上げていた仲間の空気が、一斉になんともいえないものへと変化する。


「あら、みんな、それは失礼な反応よ。そりゃあどうせ花嫁になるなら秦家がいいかもしれないけど、秦家の皆様は全員花嫁を召し上がっているんですもの。叶家だって立派なおうちよ。そ・れ・にっ、ご当主のれい様は、とっても美しいことで有名なんだからっ」


 院長先生の言葉を受けて、仲間が口を揃えて言った。


「凛子、いいなあ」


 私は思いっきり笑顔を作ってお辞儀をする。


「ありがとうございます。嬉しいですっ」


 勿論、誰も「いいなあ」なんて思っていない。

 私だって「嬉しいですっ」なんて思っていなかった。

 でも、そう言わなければいけなかったのだ。


 下手に反抗的な態度を取って、農場から叩き出された人間の末路を、嫌と言う程聞かされていたから。

 誰だって、不特定多数の吸血族の餌として貧民窟に身を沈めたくない。

 農場が求めるような態度を取って、できるだけ良い家に貰われるように努力をする。そして『花嫁』に決まってしまった私も、他の子に迷惑をかけないよう、農場が求める態度を取る。

 それが、吸血族の食料として農場で育てられている人間の、あるべき姿なのだ。




 一般的に『翡翠』と呼ばれる特殊な血を持つ女子は、初潮と共にその性質を表し、血は二十歳を迎える頃に成熟を迎える。

 成熟した翡翠の血を全て吸い尽くした吸血族は、並外れた生命力を得て、不老かつ不病になる。つまり寿命を迎えるその時まで、翡翠の血を吸いつくした時と同じ姿でいられるのだ。


 だから名家の吸血族たちは、競うように翡翠の女を欲しがる。それが「一人の為に命を捧げる」という『花嫁』。

 そして吸血族に強く欲しがられる、というのは、人間にとってこの上ない名誉、なのだ、そうだ。


 だから私は喜び、嬉しいと言って笑った。

 翡翠でなかった仲間は、いいなあと言って羨ましがった。

 そこで何かを考えてはいけないのだ。




 入浴の後、女子部屋に戻ろうとしていたところを、伊織に声を掛けられた。

 振り向くと、彼の怒ったような顔が目の前にあった。私と目線が合うように、細身で背の高い体を窮屈そうに折り曲げている。


「どうしたの? ほら、そんな怖い顔していると、またみんなに何か言われるよ」


 伊織は仲間の中ではあまり評判が良くない。よく先生達に盾突くので、何度も農場を叩き出されそうになっているからだ。

 でも私は、心の奥が優しくて繊細な彼が大好きだ。仲間の中では、一番好きかも知れない。


「明日、叶家に行くんだって?」


 声をひそめるようにして彼は言った。


「そうなの。今まで仲良くしてくれてありがとう。伊織も頑張ってたくさん食べて、早くおおとり家に行ける体になってね」


 にっこり、と微笑んでみた。

 多分、これが一番理想的な答え、誰に聞かれても大丈夫な答えだから。

 「ありがとう」と言ったあたりから、胸が痛くて、目の奥が熱くなったのなんか気のせいだ。


 みんなと会えなくなるのが寂しい。伊織と別れたくない。

 『花嫁』なんかに、なりたくない。

 そんなこと、考えていない。


「凛子、ちょっと」


 伊織は辺りを窺うと、私の手を取って物置部屋に入った。


 月明りだけが狭い物置部屋を頼りなく照らしていた。湿った雑巾の臭いがする。彼はしばらく耳を澄ますような仕草をした後、私を窓際に立たせ、顔を寄せて囁いた。


「叶家へは『花嫁』として行くんだろう?」

「そうだよ。いいでしょう。私、翡翠だったんだって」


 農場で暮らす女子は、初潮が始まって少し経った頃に、自分の血の成分が『翡翠』であるかどうかを調べる。

 だから「翡翠だと分かった=少し前に初潮があった」ということなので、伊織に向かって「翡翠だった」と言うのはなんとなく恥ずかしい。

 家族同然の仲間とはいえ、一応、伊織は十七歳の男子だ。農場は女子の方が圧倒的に多いので、余計意識してしまうのかもしれない。


「どうして、そんな風に言うんだ」


 私の言葉にしばらく沈黙した後、彼は優しい顔立ちを苦しげに歪めて、私を見つめた。


「翡翠の何がいいんだ。花嫁なんて聞こえはいいけど、要は吸血族の奴のために、命を吸い尽くされるって事じゃないか。俺は凛子が奴らの犠牲になるのなんか嫌だ」


 私を見つめる。

 視線を定め、私が俯いて視線を外すことを許さない強さで、見つめる。


 ああ。

 どうして伊織はいつもこうなんだろう。

 彼は今、あまりにも真っ直ぐで、しかし決して口に出してはいけない事を言った。


「嫌だ、って、言われたって……」

「じゃあ凛子はどう思っているんだ。これからただぼんやり餌として生きて、二十歳になった途端に人生が終わらせられる。せっかく生まれたのに、せっかく生きているのに、病気や怪我じゃなくって計画的に食われて死んでいい人間なんていない」


 月明りが、険しい表情の彼の姿を蒼白く浮かび上がらせる。口調はきついが、語尾が少し震えていた。


 きっと彼は今、怒っているんじゃない。

 私が花嫁になる事を、怖がって、悲しんでいるんだ。

 私の知っている伊織は、そういう人だ。


「でもさ、決まっちゃったんだもん。それにそんなこと、言ったってどうしようもなくない?」


 彼の心に気付かないふりをして、腕を組み、溜息をつき、やれやれといった感じでそう言ってみた。理想的な答えではなかったかもしれないが、一刻も早く話を終わらせたくて、少しだけ本音を混ぜた。

 脚が震える。無理矢理押さえ込む。心臓の動きが激しくなる。ごまかすために首を傾げて笑う。


 やめて。伊織、もう、やめて。


「どうしようもなくなんかない」

「どうしようもないよ。ねえ、もうこの話やめよう。意味ないもん。私、伊織に笑顔でさようならって言って欲しか」


 突然、喉が震え、目の奥が痺れてきたので言葉を切った。

 心の中に真っ黒い何かが湧き上がる。脚が震える。心臓の動きが激しくなる。手の先が冷たくなる。唇がわななく。


 私の様子に気付いたのか、伊織が私の手を取り、そっと包み込んだ。冷たくなった手の先から、伊織の柔らかなぬくもりが滲み込んでくる。ぬくもりがじわじわと腕を伝って心の中に入り込む。

 心の中のぬくもりに触れて、目の奥の力がふっと抜ける。

 頬の上を、涙が伝った。


「……だ」


 脚の力が入らない。壁にもたれかかってようやく立つ。心臓が、心臓が、激しく動く。伊織の瞳が、私を包む。


「……や……に、決まって……」


 どうしよう。絶対に駄目だ。絶対に言ってはいけない。やめてよもう。変な事言わないで。私を見ないで。手に触れないで。

 私の心を、脱がさないで。


「こわいよぅ……」


 剥き出しの心の奥が、唇から零れ落ちる。


「どうしよう……は、二十歳まで、二十歳までって、ど、どのくらいだろう。ど、どんなかんじなんだろう。血が、血がなくなって、吸い尽くされるって、ど、どんな」


 首筋に牙を立てられ、吸い付かれる。体の中を廻る血が、吸血族の体内に入っていく。どんどん、どんどん、私の中がからになる。

 その時私は、私は一体、どうなるんだろう……。


 力が抜ける。体が震える。泣いているのか、喋っているのか分からない。ずるずると崩れ落ちる。真っ黒な恐怖に巻き付かれ、何が見えているのか、何をしているのか分からない。足元から床が消える。押さえ込んでいた私の心が、ゆっくりと地獄に沈んでゆく。


 その私の体を、伊織の長い腕がゆったりと受け止めた。


「そんな事、させるもんか」


 私の背に両腕を回し、柔らかく抱きしめる。彼の体から、洗いたての石鹸の匂いがふわりと揺れる。


「ごめん、凛子。怖がらせるためにこんなことを言ったんじゃないんだ。俺は凛子が『花嫁』になるのなんか嫌だ。凛子が食料になるのも、この首に吸血族が触れるのも嫌だ」


 囁き声と共に、彼の胸が僅かに振動していた。地獄に沈みかけた私の心が、彼の声に引き上げられる。


 伊織。

 先生にはよく盾突くけれど、華奢で、病弱で、かよわい女の子みたいなひとだと思っていたのに。

 赤ちゃんの頃から一緒だから、なんでも分かっていると思っていたのに。


 知らなかった。

 いつから彼の胸は、こんなにも広く、逞しくなっていたのだろう。

 私の全てを受け止め、包み込むほどに。


 彼は震えの止まらない私の体を抱き締め、頭を、ぽん、ぽん、と二回優しく叩いた後、声を落とし、言った。


「逃げよう。俺が凛子を守るから」

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