8.罪の経緯(3)
倉庫を出、鍵を戻す時に、俺はとんでもない失敗をした。
農場に着いたのは、夜明け前だった。鍵を盗むときは通気口を伝って侵入したが、今は鍵を持っているのだから普通に裏口から入ろう、そんな安易な考えで農場内部に入ったら、人に見つかってしまった。
一応、顔は隠していたが、知った顔の人に見つかってしまい、動転した。
鍵束を落とす。その時、鍵を束ねていた金具が外れ、鍵があたりに散乱した。
そのまま逃げればいいものを、俺は何を思ったのか、散らばった鍵の一つを掴んで逃げた。なんの鍵かも確認していなかったし、勿論この小さな鍵でもない。
その場は逃げ切れたが、この髪を晒して農場に侵入し、鍵まで盗んで逃げたことにより、俺はまた警察から追われる身になった。
だが、考えようによっては、あの時の窃盗が、俺の本当の目的を隠してくれた、とも言える。
捕まった後に知ったのだが、盗んだ鍵は女子寝室のものだった。だから変な話、農場への侵入意図が、うまい具合に誤解された。
その後、地下独房にぶち込まれはしたが、俺と倉庫を繋ぐ考えは、誰にも持たれなかった。
身を潜めながら、色々考えた。
あの地下室の世界、どういう理屈でああなっているのかは分からないが、明らかに「今、ここ」の世界とは違う。文明の発達の仕方からして、未来の東京国のようにも思えたが、なんとなくそれは違う気がする。
刺激は強いが、街の中は平和そうだった。得体の知れない俺を助けてくれるような人もいる。人や色が溢れている割には、奥底に秩序が見え隠れする。
あの世界を、もう少し知ってみたい。
院長先生や赤ちゃんの事は気になる。だがそれらを調べる前に、まずはあの世界が何なのかを知らなければ動きようがない。
農場時代の事を思い出す。院長先生は、そうしょっちゅう赤ちゃんを連れては来なかった。であれば、何日か滞在しても大丈夫かも知れない。
とはいえ、そうそうのんびりはできない。
俺にとって、一番大事な事があるから。
凛子が二十歳になる前に、叶家から救い出さなければならない。
何日か下準備をしたのち、俺は再び倉庫に向かった。
倉庫の鍵は、針金で開けられた。思ったより簡単に開いたので少し怖かったが、この鍵のかかった扉は、合鍵でなければ開かなかった。
俺は前に助けてくれた人のいる店に行き、本当の事を話すことにした。
その人は最初、俺の話を聞いて笑い、次に驚き、怒り、怖がったが、最終的に俺を心配しだした。
まあ、そうだろう。「先日は嘘吐いてごめんなさい。実はあの鍵は盗んだ鍵なんです。そこは異世界と繋がっていて、扉の向こうはこんな世界で、俺はそこから来ました」なんて、すぐに信じる人の方がおかしい。
その人は俺を食堂に連れて行き、自分の友人だという男性と引き合わせた。
男性は俺より少し年上のようで、立派な体格に人懐こい雰囲気を纏っていた。聞けば警察官だという。だが、この世界の警察官のような傲慢さは全くなかった。
彼は俺の話を一通り聞いた後、腕を組んでにやりと笑った。
「おい
紗良と呼ばれた、俺を助けてくれた人は、大きく首を横に振った。
「本気で言ってるみたいだよ。ねえ
「本気? 自分は異世界の勇者で、姫は吸血鬼に囚われていて、魔王の悪事を暴くために鍵をパクってゲートから転移して来たっていう話が?」
これも当たり前と言えば当たり前だが、勝巳と呼ばれた人は、俺の話を創作だと信じて疑わなかった。
だが、なんとしてもこの人には俺の話を信じてもらいたい。この世界を調べるにあたり、この世界の知人を持つことは重要だ。俺は一生懸命話したり、紙幣を見せたりしたが、信じてもらえなかった。
仕方がない。俺は紗良さんと別れ、勝巳さんを連れて、「こちらの世界」を見せた。
こちらの世界には一刻もいなかったと思う。
だが、それで充分だった。
勝巳さんは自分の家に俺を上げてから、暫く腕を組んで黙っていた。
勝巳さんの家は、この凛子の部屋の半分もない位の広さの集合住宅だった。壁一面に、小さな本が並べられている。
「――で、何。姫は吸血鬼の生贄になりそうで、孤児院のおばさんが、こっちの世界の赤ん坊を誘拐している、と」
「姫ではなく友人です。吸血鬼ではなく吸血『族』です。農場の誘拐は、推測ですが」
「自分らの育った場所を、なんの疑問もなく『農場』って言っちまうセンスが怖えよ」
勝巳さんは眉間に指を当て、険しい表情をした。
「この世界には、ヴァンパイアなんか存在しない。だから敢えて吸血『鬼』と言う。そんな化け物のために、この世界の人間が餌として攫われたり、姫が生贄になったりするなんて許せねえ」
そう。向こうの世界には、吸血族が存在しないんだ。
吸血族に似た存在として『吸血鬼』というものはあるが、それはあくまでも架空の存在で、永遠に生きたり太陽にあたると灰になったりする、生き物ではないものとして描かれている。
そして人間の命も尊重されている。
他人の不老不病のために人間の命を犠牲にする事など、あり得ないし、絶対に許されない事なんだ。
「なあ、お前……」
「伊織です」
「苗字は」
「え? 人間ですからないです」
「まじか。えーと伊織君、お前のいる異世界の存在は分かった。ありゃもう信じるしかねえ。でもな、吸血鬼だなんだっていうのは俺にはファンタジーにしか思えねえし、伊織君自体も信用ならねえ」
彼がそう思うのは当然だ。俺は頷いた。
「だが、あの扉を使って、誰かがこの世界の人命を脅かすのは許せねえし、そもそもあの扉の存在自体もあっちゃならねえ。あれをばーんと世間に公表すれば有名人になるだろうし、うまいこと商売に使えれば大儲け出来るんだろうけど、俺は平和と秩序と現状維持が大好きな小役人だ。そこで」
勝巳さんは俺に顔を近づけた。
「今のところ、あの扉の存在は秘密にしておこう。誘拐の件は調べてみる。その間、伊織君もここで出来ることがあるだろ。俺や紗良が色々教えてやるから、何日かこの小汚い部屋で過ごしてみな。宿泊代は掃除と洗濯でいいや」
夢にも思わなかったような有難い申し出の数々を、断る理由はなかった。俺は勝巳さんが鬱陶しがって顔を顰めるまで、何度もお礼を言った。
結局、俺は向こうの世界に二カ月以上滞在した。
凛子の事で焦る気持ちはあった。だが、凛子の事があるからこそ、じっくりこの世界を知る必要があると思った。
赤ちゃんが攫われる事件は、実際に起きていた。東京とその周辺――あ、向こうの『東京』は、『日本』という国の一地域に過ぎないんだ――で、随分前から問題になっているらしい。ただ、その事件に、どの位の割合で院長先生が絡んでいるのかは分からなかった。
おそらく秦家は、あの扉を誘拐目的以外にも使っているだろう。
勝巳さんも言っていたが、あの扉は、使いようによっては莫大な富を生む。秦家がここ三十年くらいで急に大きくなったのは、あの扉、というか、向こうの世界と繋がった空間の発見によるところが大きいのだろう。
まあ、あれだけ文明の発達した世界を独占しているなら、赤ちゃんを攫うような真似をしなくてもいいんじゃないか、とは思ったけれど。
勝巳さんや紗良さんは、様々な事を教えてくれた。
それは刑務所の奴らに教わったのとは正反対の、生きるために必要な、あらゆる事だ。俺は、ここまで底抜けに親切な人達に偶然出会えた事を、どれだけ有難く思ったか分からない。
向こうの世界には、吸血族がいない。だから『翡翠』の概念自体もない。人間は窮屈な義務に縛られているかわりに、溢れんばかりの権利を有している。
日常的に使用する高度な機器類は、慣れればどうというものでもない。衣食に関するもの全てが豊富だ。
そうそう、俺が子供の頃から悩まされていた血の薄い原因も、解明されていた。生まれて初めて手にした健康な体には、本当に感動した。
まあ、地下独房に入っている間に、逆戻りしたけれど。
向こうの『東京』が、どんなところかって? 例えば……。
やがて、一つの結論を持って、こちらの世界に戻ることにした。
戻った途端、犯罪者として追われる身だ。あらゆるものから逃げる生活。それは農場から逃げてからの五年間、刑務所にいる時以外は全てそうだったけれど、今回は特に追跡がきついような気がした。
俺は思い切って、自首することにした。
この調子では、捕まるのは時間の問題だ。以前、農場絡みで捕まった時、俺はありもしない罪を着せられた。秦家や農場に関わる問題で捕まると、秦家が警察にどんな細工をするか分からない。
それならいっそ、人の目のある状況で自分から捕まったほうがまだましかもしれない。そう思った。
自首する前に合鍵は隠し、うっかり盗んだ鍵だけを持って警察に向かった。隠した合鍵は、また脱獄して取り返せばいいやと……あ、そうだよね、この発想おかしいよね確かに。
そして、『掬い上げ』をされた。
捕まって、ここまで来た経緯はそんなところ。長くなっちゃったね。ああ、もうこんな時間か。
最後に、ちょっとだけいい?
凛子。
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