7.逃亡(2)

 農場の倉庫まではかなり距離があるらしい。私達は夜道をひたすら歩いた。


 春が近いとはいえ、まだまだ寒い。伊織はたまに「えーと、こっちでいいんだよな」なんて言いながら淡々と歩いているが、相当寒い筈だ。私とつないだ手に、強張るような力が入っている。


 その手を、私の外套のポケットに入れた。

 外套を持ち上げ、彼の手の位置に持って来る。二人の体温が巡るポケットの中は、ほんわりとあたたかい。

 伊織が頬を緩めて私を見る。

 私も微笑む。

 もう少しだけ、寄り添う。




 街の雰囲気が変わってきた。もう少し歩くと倉庫に到着するらしい

 お屋敷の周辺に比べると、ビルなど背の高い建物が多い。街灯の数も増えた。そして時折人とすれ違う。

 大抵は酔っ払いや汚い身なりの人だ。私達を、薄笑いを浮かべながらじろじろ見る人もいる。なんとなく不愉快だ。


 だが、そんな視線より、もっと私を不愉快にさせているのが、靴だ。

 履き慣れているとはいえ、細く高い踵の靴で長時間歩いていると脚が痛くなってくる。特につま先がじんじんと痺れて、歩くたびに衝撃が走る。


「ちょっと、休憩していいかな。脚、痛い」


 ビルの隙間に入り、靴を脱ぐ。途端にふくらはぎが伸びてつま先が深呼吸するのが分かる。

 お屋敷の壁を下りた時に破れた靴下ストッキングの伝線が、かなり広がっている。これはもう仕方がない。ふくらはぎを軽く揉む。今だけは伊織のばっちい布靴が羨ましい。


「歩きやすい靴を調達しようと思ったんだけど、よく分からなくて、お金もなくて。ごめん」


 伊織はかがんで私の靴を手に取り、申し訳なさそうに言った。

 私は首を横に振った。ここまでしてもらって、その上こんな事で謝られたら、却って申し訳ない。


 つま先も脚も伸ばせたし、もたもたしてはいられない。夜中とはいえ、警官に会わないとも限らないのだ。私は伊織から靴を受け取ろうとした。


「よう」


 いきなり近くからしわがれた声がした。

 一人の男が、表通りから私達のいるビルの隙間を覗き込むように見ていた。


 一見して、普通の社会生活を送っていないのが分かる。

 脂っぽい独特の臭いを漂わせ、あちこち破けた外套やセーター、シャツなどを目一杯着込んでいる。胸のあたりまで伸びた髪は束になってもつれている。

 長い髭に黒ずんだ顔。

 そして、髪や外套の隙間から覗く、皮膚の崩れ落ちた首筋。

 男は伊織と私を交互に見て笑った。


「兄ちゃんよう、一晩の相手に随分奮発したなあ。こんな上玉、高かっただろ。いや、一晩じゃなくて、いっときかな。なあ、幾らしたんだよぅ」


 男は伊織に向かって言った。そして私を上から下まで見て、髭に埋もれた唇を舐める。

 にやにや笑いながら近寄って来る。


 男は何を言っているのだろう。「一晩の相手」って、なんのことだ。「いっとき」って、なんだ。

 言っている意味は分からないが、得体の知れない嫌悪感がわきあがる。


「なあ、その女、俺にもちょっと触らしてくれよぅ。ちょっとでいいからよ、情けだと思っ」

「うるせえぞ、クソが。近寄んじゃねえよ」


 男の言葉を遮ったのが伊織の声だと理解するのに、少し時間がかかった。

 壁を背に立った私の視界を遮るように、伊織が壁に手をついた。男の顔が私の視界から消える。伊織は男の方を向いて睨み付けた。


 この目つき。以前、少しだけ見たことがある。

 心が冷えるような、すさんだ目つき。


「誰が触らすかよ。さっさと行けコラ。行かねえと、おい、おめえなら分かんだろ、これ、なんなのかよ」


 そう言って左脚を少し持ち上げ、足首を指差した。男はそれを見るなり一歩後ずさる。


「……邪魔したなあ、すんません」


 そう呟くと、慌てたように走り去って行った。


 丈の短いズボンと、破れた布靴の間から覗く細い足首には、地下独房に入っていた時の足枷の痕が、うっすらと浮かび上がっていた。


 男が去った後暫くして、伊織は俯き、深い溜息をついた。


「伊織」

「ごめん。俺がこんなで、凛子と釣り合わないから……」

「今の奴、なんだったの。高いとかなんとか言っていたけど。あと今の」

「なんでもない。なんでもないよ。あんなのの言った事なんか気にしないで忘れて。どうせこの痕を見て、俺が地下独房出だって分かるような奴だったんだし」


 彼は一瞬、泣き出しそうな表情をした後、顔を上げて口元だけの笑みを浮かべた。


「さ、脚が大丈夫ならもう行こう。倉庫まであと少しだよ」


 私の頭をぽん、と叩く。後ろを向き、道路に向かって歩き出す。


 その背中を、包み込むように抱き締めた。


「凛子、どう……」


 伊織の戸惑った声に構わず、回した腕に力を込める。彼の広くて大きな背中は、私の短い腕では全然包み込めていないが、それでも私の体温を移すように、抱き締める。


 伊織は、私を守る、と言ってくれた。

 今の状況、私にはよく分からなかった。でもきっと伊織は私を守ってくれたのだろう。

 過去の自分をえぐり、さらけ出しながら。


 私は無知で、出来ないことだらけだ。でも、少なくともこれだけは出来る。伊織には言わないけれど。


 今までに、何があったとしても。

 これから、何があったとしても。

 私は伊織の、全てを受け止める。




 倉庫は、農場から歩いてすぐの所にあった。周りは民家ばかりだ。

 倉庫、といっても外見は他の民家と全く同じだ。伊織は辺りを見回した後、塀をひょいと乗り越えた。暫くすると、門の扉が開く。

 私は一度息を呑んで、門の内側に入った。


「誰もいないな」


 伊織は辺りを見回した後、ポケットをまさぐった。


「ちゃんと開けられるかなあ」

「えっ」

「針金、細かったかも。大丈夫かな」


 今更ここで何を言うみたいなことを呟きながら、鍵穴に針金を差し込んだ。


 お屋敷からの脱出の話を聞いた時、お屋敷の鍵を開けて外に出る、という方法を取らなかったことに少し疑問を持っていた。だが、今この姿を見て納得した。

 これは駄目だ。もういかにも「鍵をこじ開けていますよ」と分かる姿だ。もしこんな所を目撃されたら、絶対に言い訳出来ない。しかも想像していたよりも時間がかかる。


 塀の外から微かに物音が聞こえる。足音だ。

 胸が痛くなる。手が震える。院長先生の、貼りついたような笑顔が浮かぶ。

 足音が遠ざかる。力が抜ける。

 がちゃりと音をたてて、倉庫の入口が開く。


 

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